2018.12.12水

 〇国立映画アーカイブにて、アーネ・スックスドルフの作品四つを観る。スウェーデンを代表するドキュメンタリー作家という程度の予備知識で観たのだが、とても面白くて、衝撃を受けた。
 いずれもドキュメンタリーと言うよりは、芥川光蔵風の映像詩で、三本の短編の中でも、とりわけジプシー(ロマ)を扱った「出立」(1948)のめくるめくモンタージュに圧倒された。しかし、圧倒的に素晴らしかったのは、ブラジルの貧しい少年たちを主人公にしたその次の長編劇「幸せは遠い雲の下に」(1965)で、久々に画面を見ていて恍惚となる体験をした。
 ここでは、何より子供の躍動感がうまく捉えられている。そして、その動きに寄り添うように、話は予想もつかない方向に少しずつ脱線していくが、その流れもごく自然で、すこぶる心地好い。凡百の児童映画に見られるわざとらしさがまるでない。清水宏「大仏さまと子供たち」(1952)、エンゲル&オーキン「小さな逃亡者」(1960)と並ぶ子供映画の傑作だ。
 それにしても、この構成はただものではない。その独自性・作家性には驚かされる。スックスドルフはこの作品の舞台となったブラジルに移住して、実際に貧民の少年たちの面倒を見ていたそうで、この作品もその少年たちを使って作ったものらしい。まさに清水宏の蜂の巣映画と同じ地平に立っているわけだが、それをも凌駕する出来栄えだと思う。久しぶりに全作を観たいと思う映像作家に遭遇した。
 観たいリスト。成瀬、清水、木下、川島、熊谷久虎石田民三佐分利信、柳沢寿男、姫田忠義、田尻、吉行、城定、カサヴェテス、ウェルズ、キム・ギヨン、ブロッカ、メンドーサ、ラヴ・ディアスアンゲロプロスファスビンダー、シュミット、オッティンガー、ペッツォルト、ズラブスキ、ギロディ、レハ・エルデム、スックスドルフ。

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  〇近年、心に残った映画を思い起こしてみると、子供を描いた作品が多い。清水宏作品や山中「百万両の壺」はもちろんのこと、杉岡次郎「素晴らしき招待」、ケンジエシャフスカ「グーチャ」、片山翔「くらげくん」、などがすぐに思い浮かぶ。ラヴ・ディアス「スチーム・チルドレン第一章」も忘れ難い。成瀬作品の中でもいちばん好きなのも「秋立ちぬ」で、何年かに一度は観返したくなる。つい最近観た近衛十四郎主演の「悪坊主侠客伝」でも、ラストシーンの子供の顔のクローズアップにひどく心を震わされた。子供に目がないのだ。
 中でも、子供の無邪気さ、天真爛漫さ、あるいは稚い意地の悪さを滲み出した作品には、全く圧倒される。そういう意味で、前記の三傑作はその最高峰だと思う。
 僕はかつて子供は大嫌いだった。子供だけではない。猫だのパンダだのぬいぐるみだの、可愛いものは基本的に興味はないし、もっと言って積極的に嫌いだった。それはおそらく、僕は人から愛されたいという欲望をひどく持っており、その願望が十分に満たされていないという不安を常に感じてきたからだろう、と今では思う。特に十歳の時に弟が生まれて以降、僕は自らその想いを強く押し殺してきたという気がする。そのために、可愛くて人気があって皆から愛されるような存在には嫉妬し、ついつい心乱され、嫌いになっていったのだろう(弟には不思議とそんな感情を抱かなかったが、それは可愛いとは思っていなかったからに違いない)。僕はその一方で、化物だの悪役だの、変なもの、変わったもの、マイナーなものに魅せられ、共感し、ひどく偏愛してきたが、それも同じ理由に依るのだろう(ちなみに、僕は昔からカワウソだけは大好きで、好きな動物はと訊かれた時には必ずカワウソと答え、周囲をぽかんとさせていたが、当時はカワウソなんて超マイナーで、誰も相手にしなかったのだ)。
 そんな僕が今や、子供を可愛いと思い、メロメロになっている。猫もパンダも好きになってしまった。変なもの、マイナーなものへの愛着は抜き難く変わらないが、巷の人々と同様に、メジャーなものもすんなり愛せるようになってしまった。この変容には我ながら驚いてしまう。それは偏に僕が年を取ったからだろう。かつての内に秘めた願望などどうでもよくなってしまった、あるいは相対化できてしまった。さらには、マイナーだったものがメジャーになっている昨今の状況も、大いに関係しているには違いない(何しろ、カワウソどころか、蕭白若冲草間彌生までもがメジャーになったご時世なのだから)。こうして見ると、老い耄れるのも役得に違いない。もっとも、このような経緯を辿って来た者の発想は、始めから当然のようにものを眺めてきた人々とは少々違っているような気もするが。