2018.12.17月

 〇普段行かないスーパーに何年かぶりに行ったら、牡鹿半島産の剥きホヤなるものが売られていて、賞味期限が今日までと言うので半値になっていたので、思わず購入してしまう。二百円もしない。前々からホヤがどんな味がするのか興味があったのだが、殻の処理などが面倒臭そうで、なかなか手を出しにくい食材だった。ところが、今回は中身だけだし、しかも少量なので、とてもお手頃だと思ったのだ。
 身は二切れあって、帰ってから早速切り分ける。ホヤ水なるものも有効に使えるらしいと言うので取って置く。とりあえずそのまま刺身とソテーとムニエルにして食べてみる。これが思いの外、美味しかった。本体にこびり付いているワタらしきものも、イカと同様にコクがある。えてして、こういういわゆるゲテモノはエグい味がするようなイメージがあるが、全くそんなことはない。すっかり気に入ってしまった。これからもちょくちょく買って、賞味することにしよう。
 思えば、何ヶ月か前には、やはりスーパーでくさやの瓶詰なるものを見つけて、手を出したことがある。焼かずにそのまま食べられると言うので、これ幸いと思ったものだ。どんなに臭く美味しいのかと期待に胸が膨らんだが、思っていたほど大したことはなかった。確かに臭い。しかし、そんなに吐き気を催すほどではない。そして味だが、食べて確かに美味しい。しかし、途轍もなく美味しいとは思わなかったし、これくらいの美味しさだったら、似たようなものは他にいくらでもある。わざわざくさやを食べることはないと思った。これはあくまでも、冷蔵技術が発達していなかった頃の保存食であり、当時としては格段に素晴らしい貴重品だったろうが、今ではそういう意義はほんとどないだろう。一種の文化財、あるいは懐古の知恵の結晶として、保護されていくようなものだ。
 ところで、この臭気は、一年程前に食べた韓国の蚕の水煮(ポンテギ)によく似ていた。以前に読んだ内山昭一「昆虫食入門」に触発されて、いろいろな虫を食べてみたいと思い立ち、新宿のタイ食材屋を覗いてみた折りに見かけたので、冷凍タガメと一緒に買ってみたのだ。それは昔にどこかの家で古い箪笥を開けた時に嗅いだような臭いがした。これが絹系の臭いなのだろう。野麦峠などの製糸場で女工たちがやられる臭気というのは、この手のものに違いないと合点した(幼い頃、長野の養蚕場に入った記憶があるのだが、青臭いだけで、こんな臭いはしなかったように思う)。味はまるで美味しくない。くさやと違って、味に影響を与える臭気だ。中身もスカスカで、食べ応えがまるでない。絹糸を採った残り滓だからか。どうしてこんな不味いものを賞味できるのかと疑問に思ってしまったが、勿体ないし、栄養はありそうなので、何とか食べられる方法はないものかと考え、油と醤油で佃煮にしたところ、苦もなくすんなりと食べられた。醤油はすごい。醤油とは実にどえらい品物だとつくづく思った。
 一方のタガメはとても大柄で、塩漬けにされたもの。一度塩抜きして、剥いて食ってみる。前々から評判は聞いていたが、確かに柑橘系の爽やかな香りがする。ただ、別に病みつきになるというものでもない。それに、うまく食べられないので、困ってしまう。だから、残りのタガメは今でも冷蔵庫の片隅に魔除けとして君臨している。
 イナゴだけは食べたことはあるが、虫なら他にも、長野のザザ虫や蜂の子が有名だ。ヨトウムシ(髪切虫の幼虫)はすごく美味しいらしい。タイ食材屋には、大きなバッタの唐揚げが冷凍で売られていた。昔テレビで、アフリカの何処かで(ヴィクトリア湖周辺とのこと)飛んで来たユスリカをすりつぶし団子状にして食べるのを見かけたことがある。これまた、すごく美味しいらしい。韓国のユムシはホヤみたいな味なのだろうか。イ・ミンギが殺人鬼を演じた映画に出て来たエイの発酵物(ホンオフェ)は、そんなに臭いのか(その作品では、産地の蘊蓄も語られていた)。小泉武夫の様々な本に目を通すと、珍しい動物の肉もいろいろと食べてみたいものだと思ってしまう。最近はジビエ料理などと言って、いろんな獣肉の食べられる店が出来つつあるが、機会があれば(お金に余裕があれば)、是非とも賞味してみたい。確か茨城には駝鳥が食べられる牧場もあったはず。世の中にはいろいろな楽しみが待ち構えているものだ。

  *

 〇醤油はすごいと書いたが、実は僕が醤油のすごさに気付いたのは、そんなに昔の話ではない。僕は長らく醤油が好きではなかった。醤油に限らず、ソースも含めて、食事時に後から調味料をかけて食べる行為が全般的に好きではなかった。
 これは父親への反発による。僕の父は調理人にもかかわらず、ある種の味音痴で、食事時に醤油(やソース類)をたっぷりかけて食べるような人だった。自分だけだったらいいのだが、一つの大皿に料理が盛られている場合、父はいつも最初に、醤油やソース等を満遍なくダバダバと大量にかけてしまう。それぞれに受ける小皿はあっても、そんなものは一向に気にしない。だから、刺身でも冷奴でも揚物でも、僕は小さな頃は、かなり塩辛くされたものばかりを食べていた。おそらくはその所為で、僕はそれらの料理があまり好きではなかった。
 もっとも、いつも皆で揃って食事をしていたわけではない。うちは大衆食堂だったので、お客さんが来れば、その時点で誰が店に出なければならず、大抵は時間差でバラバラで食事していた。だから、父に醤油をかけられる前に、自分の分だけ取って置くこともできた。そういう時、僕は大体、調味料を使わなかった。刺身にも冷奴にも揚物にも、醤油やソースを一切かけなかった。当時の僕には、それらはただ辛いものという認識しかなかったし、実際そのまま食べた方が素材の味がして美味しいと感じていた。現にそれらが素材の味を殺してしまうことは往々にしてある、とは思っている。大分後になって、お粥に醤油をかけて食べる機会があった時、卵かけ御飯とほとんど同じ味がする、とひどく吃驚したものだ。卵かけ御飯とは、その大部分が醤油の味なのだ。僕が後付けで醤油を使うのは、餃子と卵かけ御飯くらいなものだったが、それ以降、卵には塩をも用いるようになり、醤油とはさらに縁遠くなった。
 そんな認識が改められたのは、いつ頃だっただろうか。それははっきりと覚えていないが、改良された醤油容器との出会いが大きい。従来の醤油差しは、どうしても中身が一気にドバっと出る傾向にある。ところが、例えば最近のスポイト式のものだと、ほんの数滴だけ垂らすことができる(実際には、従来のオーソドックスなものでも、空気穴を指で調整することで、そうしたことは可能なのだが、当時はそんな知識はなかった)。また、空気が入らないようにして酸化を防ぎ、風味を守る密閉式の使い捨て容器も登場した。ある時、そうした容器に出会い、刺身だか何だかに醤油をほんの数滴だけ垂らしてみたところ、とんでなく美味しく感じたので、かなり吃驚させられた。これは個人的には、結構衝撃だった。
 僕は元々発酵食品には関心があったものの、味噌や酒などと違って、醤油に関しては冷淡で、そんなに手間暇けて作るだけの意義はあるのかと思っていた。しかし、それは全くの誤りだと、今さらのように気付かされた。その素晴らしさにアクセスできなかったなんて、何と勿体ない話だろう(ついでに言えば、父のように、何でもかんでも醤油をかけまくるのも、実に勿体ないことだと思う)。刺身とは生魚を切っただけで、素材の良さを味わうもの(もちろん、そこには切り方や保存具合の知恵や技術はある)。それを多くの手間暇かけて発酵させた叡知の結晶に、ほんの少しだけつけて食する。なんと素敵で贅沢なことだろうか。
 伝統も進化する。今では、卵かけ御飯専用に作られた醤油もあるらしい。
  
 *

 〇余談。僕の父はかなり自分勝手で、基本的に家族のことをあまり考えない人だった。父だけが先に食事をすることはほとんどなかったが、稀にそういうことがあると、悲惨な結果になる。続いて食べる人のことなどお構いなしなので、自分の好きなものだけを選んで食べ尽くしてしまう。例えば鍋にしても肉炒めにしても、好きな肉だけを拾って食べ、後にはほとんど残さない。記憶にあるうちで、いちばんひどいと思ったのは、鯖の味噌煮の切り身がいくつか置いてあったところ、脂の乗っている腹の部分だけを抉って食べ、それ以外の部分をそっくり残していたことだ。この食べ方には母も激高し、すごい剣幕で文句を言っていた(一方で、気の小さかった僕はメソメソ泣いているだけだった)。この時の父の返しは全く覚えていないが、大抵こういう場合は「うるせえ」「いいじゃねえか」と言うか、知らんぷりをして逃げるので、この時もそうだったろう。人の性質はちょっとやそっとで治るものでもないのだ。
 僕はそんな父に、内心ではひどく反発していた。僕が極端に醤油を忌避し、その素晴らしさに開眼するのに遅れ、いささか遠回りしたのも、ある意味では仕方がないことだとは思う。