2019.1.14月

 〇夜遅く、仕事の後、日本橋室町までてくてく歩いて、ブライアン・シンガーボヘミアン・ラプソディ」@TOHOシネマズ日本橋。今大ヒットしているフレディ・マーキュリーの伝記映画。職場のおばさん連中もかなり観に行っていて、良かった良かったと絶賛するものだから、その熱気に促されて、流石に観る気になった。今日はサービス・デイで割引がある日だが、折角だからと、初めてドルビー・アトモスの音響システムの上映会に入る。
 一応面白かった。確かに、ライブ・エイドなどの再現されたシーンは臨場感があって楽しめる。また。フレディに関する様々なエピソードもわかって、ためになった。彼がペルシャ系のインド人でゾロアスター教徒だったなんて、まるで知らなかったし、他のメンバーとの友情や確執や緊張関係も理解できた。
 僕は学生の頃、ちょうどフレディがエイズを公表してすぐに死んだ直後の辺り、いろんなジャンルの音楽を聴きつけていた友人から大量のCDを借りまくり、特にハードロック系の音楽をたくさん聴かせてもらったが、その筆頭がクイーンで、彼はとりわけ「オペラ座の夜」を賞賛していて、「ボヘミアン・ラプソディ」の転調がたまらないと大絶賛だった。当時の僕には、まだその良さがわからず、前作「シアー・ハート・アタック」の洗練された普通のロックの方に入れ込んでいた。そして今、改めてクイーンの音楽に触れてみると、中期の一皮剥けたような弾けっぷりのどれもこれもが素晴らしくて、自分の不明を恥じるしかない。そして、彼の見る目の確かさに頭が下がる。
 それにしても痛感したのは、時代の変化だろうか。このような作品が作られるに至ったのは、エイズやゲイに対する嫌悪感が徹底的に相対化できるようになったからこそで、まさに隔世の感がある。二十年前なら、とても考えられなかったことだ。昨年のノーザン・ライツ映画祭で、トム・オブ・フィンランドの伝記映画を観た時も、すごく吃驚させられた。アングラのズリネタ画家の生涯が従軍体験も含めて丹念に描かれていて、とても感動的だった。トムは今や、国を代表する芸術家という扱いなのだそうだ(きっと反発もあるだろうが)。フレディも、日本でこそ人気が高かったものの、本国では概ねイロモノ扱いだったはずで、死ぬ時の報道もスキャンダラスで散々だったと記憶している。
 ただし、この映画自体は、それほど大したものではないと思う。ライブのシーンは素晴らしくてよく出来ているが、だったら本物の映像を観た方が圧倒的にいい。そちらの方が、フレディの魅力的な気持ち悪さというか、エグ味のある色っぽさが、遥かに堪能できる。筋立てもあまりにすっきりしているので、話をざっくり端折ったり、事実を多少は都合よく改変しているような気がする(その点では、トムの映画もそうかもしれないが)。ただ、クイーンの熱心なファンなら、そんな瑣末なことにこだわるよりも、再現性にほくそ笑み、素直に夢中になれるのではないか。そういう優しさが全編に満ち溢れている。
 とは言いながら、多少の疑問がないわけでもない。周囲の人の絶賛の嵐を見ていると、別に水を差そうとは思わないものの、何だか簡単に感動し過ぎだと、すごい違和感を覚える。この作品はエイズやゲイへの偏見や差別や嫌悪感に批判的でなければ成り立たないと思うが、確かにそれらの罠から脱してはいるものの、そこを深く問い詰めるというより、まるで最初から無かったかのように、さらっと描かれている。だから、観客は少しも苦しむことなく、高見の視点に立って、物語の中を素通りできてしまう。もちろん、マイナスよりはゼロの方がいいに違いないし、そのことは全く悪いことではないが、かつてHIV感染者の死を見届けたことのある僕などは、ついこう思ってしまう。そんなに感動しているけれど、二十年前にエイズ患者を差別していなかったと言えるのかと。あるいは、今でも言えるのかと。例えばエイズ・アクティヴィストを描いたフランス映画「BPM ビート・パー・ミニット」とは違って、そういう観客への緊張感が、この作品にはほとんど欠けている。ただクイーンの素晴らしさに感傷的に没頭できるだけ(時には啓発される人もいるかもしれないが)。だから、大ヒットするのだろう。

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 〇余談。ちなみに、この映画の周辺で覚えた違和感は、「世界に一つだけの花」を聴いた時の印象とよく似ている。僕はマッキーやスマップのこの曲が大の苦手で、この歌を耳にしたり、絶賛する人に接すると、結構うんざりしてしまう。
 ここで歌われているのは「個性や多様性を大切にしよう」ということで、そのメッセージそのものには、別に異論はない。むしろ、素朴に素晴らしいことだと思う。しかし、その主旨とは裏腹に、この歌の物言いや世界観は、ひどく単一的で窮屈だと感じる。そして、僕はどうにもその狭さに入り込めないでいる。
 まず引っ掛かるのは、比較が優劣づけが、基本的にいけないものとされていること。これには結構吃驚する。だって、比較とは、そもそも個々の事柄をより際立たせるものであって、個性が個性としてはっきりと認知・発揮されるのは、まさに比較・分析によってではないのかと思うから。別に近縁なものでなくてもいい。全く無縁のものと比べるのも、思いがけない発見があって、ためになる。比較とは言わば、個性を輝かせる鏡みたいなもの。だから、個性を認めようと言っておきながら、比べることを否定的に語るなんて、自分の首を絞めるようなものではないか。
 比較がいけないのは優劣づけと連動しているかららしいが、その考え方にも少々驚かされる。確かにそれらは繋がっているだろうが、重要度の格づけは必要だし、個々の価値判断も決定的に大切なことだと思う。それもまた、個性を輝かせる重要な因子の一つだ。だから、思い切り優劣をつけても構わないと思う。もちろん、そうすることで、個人を全人格的に判別し、差別するとしたら大問題だ。しかし、比較・分析とは、所詮は作為的に切り取った一側面でしかないし、要はそのことに自覚的であればいいだけの話だ。ところが、この歌では、そうした一連の行為は、「一番になりたがる」卑しい心情に自動的に結び付けられて、一緒くたに否定されてしまう。むしろ、その発想に見られる無自覚な決めつけの方がよっぽど差別的なようにも感じる。
 おそらくこの歌の主旨は「人間は比べることで優越感や劣等感を抱いて駄目になるから、そうならないようにしよう」と言いたいだけなのだろう。しかし、それは比較を優劣づけのためにし、優劣づけを自己顕示欲のためにすると思っている人、あるいは、優劣づけで人を差別する気のある人にしか通じない話で、世の中には、そんなことに関心のない人もごまんといる(と思う)。そして、この歌は、そんな人々のことを、ちっとも想定していない。もちろん、この曲は最終的には、そんな無欲な人になりたいと願っているわけだが、その念願とは裏腹に、比較や優劣づけを一絡げに足蹴にすることで、そんな人の存在を、はなから無視しているように聞こえる。理想化されたものは存在するはずがないと決めてかかっているかのように。つまり、実際には、様々な個の存在を、ないがしろにしているのではないか。
 続いて引っ掛かるのは、何とも他人任せなところ。個人(あるいは自己)の判断や行動が、この歌では、きちんと評価されているようには思えない。改めて言うと、この歌によれば、世の人々は過酷な競争社会の中で、ナンバーワンになりたいと、あるいは、ならなければいけないと思わされている。競争の概念に囚われて、疲弊している。そして、本当はそうなる必要などないのだと、そこからの解放を訴えている。なるほど、そうした圧迫的な状況は、切実な問題として現実にあるのかもしれない。しかし、だったら、そこからさっさと降りてしまえばいいだけの話で、例えそう求められたとしても、追従しなければいいし、そう思わなければいいだけのことではないか。
 もちろん、そうした振舞は、一種の違反行為だから、多少の苦しみを伴うことにもなるだろう。ところが、この歌では、そういう行為が推奨されることはなく、自分からそう決断する気負いもない。個人の裁量で決断することはなく、皆で一緒にやろうというノリで、外からそれとなく後押ししようとするだけだ。これはやはり、背反の苦痛やペナルティを予想しているからで、それを回避させるために、個人が際立たないような体裁を踏んでいる。その主張は、周囲からうまい具合に、あたかも集団的あるいは没個性的に聞こえるようになされている。自己決断はあからさまに見えては困るのだ。つまり、この歌は、周囲に同調しがちな人・したい人に向けて、目立たず傷つかずに同調し行動してもらうことを当て込んでいる。だから、その聴き手は、ある種の外圧に、共感するしか選択の幅は与えられていない。その点で、様々な個の動きをあらかじめ封じているようにしか思えない。
 それは、ひどく矛盾に見える。競争を強要される現実。そういう同調圧力があるという現実。でも、同調ってことは、皆と一緒、均一になることであって、自己主張することではない。だから、競争して一番になることとは、本来的には釣り合わない。むしろ、競争をしないことの方が、同調と親密のように思える。そもそも同調で競争をするなんて、おかしな話ではないのか。だとしたら、それは偽の競争、あるいは、高が知れている競争ではないのか。いや、そんな御膳立てされた競争なんかよりも、同調の方がよっぽど問題ではないのか。にもかかわらず、競争の同調を、同調の手法で否定して見せる。改革や主張はずっと忌避されたままだ。しかし、それでは、同調しか残らないではないのか。
 ここに来て、僕はすごく恐怖を感じる。世の人たちは、こんなにも競争の概念に囚われており、しかも、その競争は同調によって煽られている。日本はそれほどまでに過酷な競争社会、いや同調社会なのか。さらには、そこから脱しようと思っても、比べること自体を拒否し、「ナンバーワンにならなくてもいい」との忠告に追従して、同調を計らなければいけない。競争すら呑み込む同調、競争以上に強圧的・根源的な同調の中で、人々は生きている。改めてそう思い知らされて、聴いていて、そら恐ろしくなってくる。
 もちろん、ここで競争への同調圧力に屈しない(同調しない)でいることは、所詮は個人的な力業でしかなく、そうしたからと言って、競争や同調そのものが変わるわけでもないから、せめて競争だけでも構造的に緩和されるのなら、次の同調にこぞって(つまり集団的に)身を委ねた方が、遥かにいいような気もする。その方が多少なりとも社会の構造には手を付けることになるのだろうから。つまり、急進ではなく漸進主義的に、理想の現実化を図ろうとする考えがあってもいい。ただし、それがいかに現実的に有効であっても、底が知れたものに違いない。その中では、結局のところ、競争や同調に屈しない発想は、見逃され続けることになるだろうから。同調による同調否定は、同調にも理想にも無関心でいられるだろうから。
 その点でやはり怖いと思うのは、率直に言って、この曲には、自己批判や反省、あるいは恥じらいがほとんど感じられないこと。競争社会への反省はある。ただし、その反省はどことなく牧歌的で、競争からの脱却の視点が持てたことへの喜びの讃歌に覆い尽くされている。素晴らしい理念に関与できたこと、そういう視点を発見できたことで自分だけ安心して、いい気分になっているだけのように見える。個の大切さという論理に自分だけ癒されて、重荷から解放されて(当人にとっては大切なことだろうが)、それで済ませているのではないか。もちろん、それ以上の広がりを持てれば素晴らしいことだ。しかし、むしろその理念やアイデンティティ固執し、それを絶対的なものとして崇める方に容易に転化しそうな気がする。そして、ある種の理想を自分(たち)だけの安全圏に排外的に囲い込んでしまうような気がする。
 というのも、これまで述べてきたように、この曲は内容的には、はっきりと個の大切さを歌っていながら、その対象は実は一絡げで、様々な個をほとんど想定していないからだ。登場人物はあらかじめ選別・特定されている。この歌は、ナンバーワンになったり、人を蹴落としたりすることを強要され、そのことに実はうんざりしている人たち(しかも、自分ではみ出る勇気は持たず、外からそう言ってもらわなければいけない人たち)にしか向けられていない。それ以外の人はこの世にはいないのかと思ってしまえるほどに。だから、まかり間違って、ナンバーワンになりたいと思う人などは、ここでは爪弾きにされるか、狂人扱いされそうな勢いだ。僕は別にナンバーワンになろうとも思わないが、なりたい人がいてもいいし、むしろいてほしいと思う。同調なしの競争だだって、いくらでもあるだろう。そして、そのことも認めないといけないと素朴に思うだけだ。
 個や多を尊重するなんて、実はとんでもなく大変なことだ。なぜなら、自分と違う意見や嫌いな相手も、真摯に認めなければいけないのだから(同調したい人・する人も含めて)。ところが、この曲の中では、その過酷さや矛盾や苦しみが、ある種の個人が少しだけ解放されるために、のどやかに覆い隠されている(かろうじて認められるのは一歩踏み出そうという自助努力だけ)。みんながそれぞれに才能を持ち、花を咲かせるというのは、素晴らしいことだが、才能がなかったり、花が咲かなければどうするのか。もちろん、それも一つの才能だと思えばいいのだが、この曲に感動している人は、そのことをちゃんと認めてくれるだろうか。むしろ、簡単に黙殺され、そんな水を差すなと、否定してかかられそうな気がする。ここで個性が尊ばれるのは、「花屋の店先」に並んだ選ばれた花でしかない。じゃあ、巷の雑草はどうなるのか。この雰囲気に僕は馴染めないし、あまり耐えられそうもない。
 思えば、九〇年代後半にミスチルの歌を聞いた時も、同じように感じた。ミスチルと「一つだけの花」とでは全く対照的だが、ミスチルの曲も、僕にいちいち引っ掛かりを抱かせる(逆に言えば、その点ではすごいことだなと敬服もする)。それはどちらも、聴き手を排外的に選別する同調ソングだからだと思う。もちろん、その人にとって辛い現実があり、それを折り合いをつけ、癒しを求めたりするのは、とても大切なことだ。しかし、世の悩みはそれだけではないし、そうではない人がいること(さらには、その不安のためにひょっとしたら自分が踏み躙っているかもしれない人がいること)にも、少しは思いを馳せた方がいいのではないか。あるいは、その余地を残して置いてほしいと思う。
 つまり、自分(たち)への応援ソング、あるいは集団的な共感強要同調ソングが、僕はすごく苦手なのだ(もっとも、これには僕個人の僻み根性や近親憎悪が多分に混じってもいようが)。だったら、単純に聴かなければいいのだが、期せずして聴かされる時もあるのだから、これくらいのことは言っておいてもいいだろうと思う。
 そして、映画「ボヘミアン・ラプソディ」の周辺にも、似たような「綺麗事」の雰囲気が醸し出されている気がして、少々げんなりしたという次第。

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 〇先の国民画家に関連して思い出したこと。今から二十年程前、神保町で古本漁りをしていた時、日本初の男色専門誌「アドニス」を何冊か見つけたことがある。千葉や江戸川にあった「かんたんむ」という古本屋が神保町に進出し、すずらん通り沿いに店舗を構えた直後、その店の二階のアダルト・コーナーの端っこで、ポルノ雑誌のビニ本として売られていた。値段は全て五百円。三島・中井・塚本らが参加していたこの会員誌の名前は知っていたが、現物を見るのは初めてで、すげえ掘出物だと思わず興奮した。他に「薔薇」もいくつかあり、もちろん全て買い占めた。同じ所に洋物の小冊子も二つ混じっていて、一つはビーフケーキ系のピンナップ誌、もう一つはトム・オブ・フィンランドの画集だった。共に値段は千円で、お金も興味もなかったので、こちらは買おうとも思わなかった。しかし、今から考えると、これはトムの伝記映画に出て来た海賊版、一夜の相手に持ち去られた絵がアメリカで勝手に出版され、トムが世に知られるきっかけとなった画集の、まさしく現物だった気がする。おそらくアドニスと薔薇のかつての所蔵者が同時期に手放したものだろうから、その可能性が高い。だとすると、大昔に海を(ある意味で)二重に渡って日本に辿り着いたものに、巡り巡って遭遇していたわけで、ちょっぴり感慨深くなる。当時は値付けが逆じゃないかと思ったが、これはこれで相当のレア物で、仮に黒塗りされているとしても、今ではそれなりの値がつけられるかもしれないなと思う。