2019.1.15火

 〇シエマヴェーラにて、日本のミステリー映画を三プログラム四本鑑賞。一つは日活だが、後は新東宝・大宝・日米映画と、いずれも新東宝絡み。こうしてまとめて観てみると、僕はプログラム・ピクチャーとしては、新東宝の作品がいちばん好きなのだとつくづく思った。丹波・天知・沼田・細川・国方伝などのお気に入りの俳優の姿が見られるし、また大蔵体制以降のB級C級作品のえげつなさにも思わず引き込まれてしまう。ざっくり言えば、東映大映はマンネリだし、東宝や松竹は予定調和的、日活はおしゃれ過ぎて、意表を突かれることが少ない。何より驚かされたい僕には、新東宝が打ってつけなのだ。
 とは言え、それ以前のいわゆる文芸作品にも秀作が多くて、そちらにもすごく興味をそそられる。ちょっと前に観た「虹の谷」も素晴らしかったが、とりわけ松林宗恵の「人間義魚雷回天」はとんでもない傑作だった。僕は基本的に戦争映画はあまり好きではなく、どんな作品を観ても、何らかの引っ掛かりを覚えるのだが、この作品の視点は、人間の複雑な思いを丹念に掬い上げて、奥が深くて、敬意を払わずにはいられない(もちろん、敵の姿が全く描かれないという批判はその通り)。そういう作品が生み出される素地や度量が新東宝には元々あるのだと感じる。
 ずっと見る機会を逃していた大宝作品「黒い傷あとのブルース」は、褪色がひどくて白黒にデジタル処理されているとの由。つまらない作品だろうと思っていたら、そこそこ面白かった。主演の牧真介(ここでは真史)は、中山義秀原作の「少年死刑囚」で大型新人としてデビューした日活俳優で、「洲崎パラダイス 赤信号」にも出ていたと記憶している。「少年死刑囚」を僕はフィルムセンターの田中絹代特集で観たが、信仰の逆説をえぐった作品として、「シークレット・サンシャイン」に匹敵する傑作だと思った(ただし、最後に主人公がへつらうように笑う演出には多少の疑問も感じなくもない)。だから、牧のこともとても印象に残っているのだが、そんな彼が結局大して売れないまま(一時期テレビで活躍していたらしいが)、こんなチンケな役所に流れ着いていたのかと思うと、一抹の虚しさを覚える。
 宇津井健主演の「警察官」は、後で調べてみると、十年程前に観ていた作品だとわかったが、観ていたことも含めて、何も覚えていなかった。筋立てとしては全くの子供騙しだが、出演者たちの立居振舞にやはりしびれてしまう。当時のメモ書きでは、僕はこの作品に低評価を与えているのだが、それは女の描き方があまりにひどくて、反感を覚えたからだと思い出した。この作品の池内淳子は全く浅はかな振舞をして、恋人の宇津井を窮地に陥れてしまう。女とは可愛いけど馬鹿な存在だということが、当たり前のように描かれる。戦前のマキノの推理劇「待って居た男」も、女の浅はかさなるものが堂々と立論されて幻滅させられるが、そのひどさといい勝負だと感じた。
 そう言えば、同じく宇津井主演の「スーパー・ジャイアンツ」の一作でも、科学者を脅迫する目的で悪人に誘拐された娘が縛られ、さらし者にされた時、ぎゃんぎゃん泣き喚いて、ひたすら見苦しい態度をとり続ける。おそらく今のヒーロー物であれば、子供だとしても正義側の人間がこういう無分別な行動をとることはまずあり得ないだろうが、子供とはこういうものだという認識がこの当時は頑として存在していたのだろう。ちなみに、僕は川島雄三の「青べか物語」が大好きなのだが、一つだけ不満なのは子供の扱い方で、作中で重要な役割を果たしているにもかかわらず、悪ガキの一群として、遭遇した群棲動物のように一絡げに描かれる。そこには何の個性もなく、子供は記号の束でしかない。女子供に対するそういう扱い方が、昔の日本映画にはふと現れることがある。おそらく後期の新東宝には、雑多な中で、それがいちばん剥き出しでさらけ出されている感じもする。
 その流れで忘れ難いのは、韓国のアニメ「テコンV」だ。僕は復元された第一作だけしか観ていないが、マジンガーZそっくりの巨大ロボットやマッハゴーゴーと似たような顔立ちの主人公など、日本のアニメをそのままトレースして作られているのに、まずは唖然とさせられる。しかし、それより驚かされるのは、作中人物の行動パターンであり、描かれ方だ。完全に適役の北朝鮮、醜い日本人が卑怯な真似しかしないのは、別に大したことではない。何よりも仰天したのは、主人公の恋人役の女の子の方だ。彼女は正義側の博士の愛娘なのだが、改心し悪の組織を裏切って主人公と親しくしようとするアンドロイドの少女に対して、あなたは所詮人間じゃないのよと平然と言い放ち、差別をする。もちろん、最後には取ってつけたように反省して和解をするものの、日本のヒーロー物ではあるまじき展開だ。その高慢ちきぶりは韓流ドラマに出て来そうだし、現代のナッツ姫のようでもある。ここにはあからさまな門地差別、そして女はそれを平気で公言し改心できるという女性蔑視が複雑に入り組んでいる。正義の観念の捉え方も違う。外観は日本のアニメの盗作ながら、中身は全くのオリジナルで、易々と看過できない。
 単に共感や蒙を啓かれるということだけではなく、反応や違和感を通じて、自己について、あるいはいろいろな文化や時代や視点について考えさせられること。これがいろんな時期、いろんな国の映画(や文学)に触れる効能であり醍醐味なのだと思う。B級も含めて。いや、B級こそが。
 日活「白い粉の恐怖の」の中原ひとみは怖かった。