2019.1.25金

 〇映画に行く途中、電車内で不思議なおばさんに遭遇する。空いている席にうまいこと座り込んだ直後、喉が咽ってしまい、口を手で押さえながら、顔を少し左に曲げて、大きな咳を一つした。すると、しばらく経ったら、左隣りに座っていたおばさんが、直角に僕の方を向いて、急に咳をし始めた。手を押さえるわけでもないし、とても乾いた感じの嘘臭い咳なので、何だか変な気がした。まさか僕のした咳が気に食わず、当てつけでもしているのかと疑ったが、三回くらいですぐに止んだので、気の所為だったかと考え直した。ところが今度、そのおばさんは、逆隣りの若い女性に向かって、肘を突き出して、「さっきから手が当たっているのよ!」と言って、何回も小突き始めたのだ。突かれた方も吃驚して、すぐにその場を離れ、遠くへと逃げ去ってしまった。この小突きのリズムは、乾いた咳とほとんど一緒に思えた。やはり先ほどの咳は僕への仕返しだったのだろう。そして、それが止んだのは、女性の手がぶつかったことに関心が移ってしまったからか。その後は、多少の意識はしたものの、とりたてて何事もなく、お互い静かに座っていた。そのおばさんはかなり良い服を着ていたので、それなりに裕福な人らしいのに、こんな振舞をするとは唖然とする。どんな関心で生きているのだろうか、とふと思い、何となく悲しくなった。

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 〇シネマヴェーラにて、日本のミステリー映画三プログラム四本を鑑賞。玉石混淆ながら、割りと楽しく観ることができた。
 そのうち、松竹の貞永方久「影の爪」(1972)は傑作だった。ショーロット・アームストロング原作の乗っ取りサスペンスだが、締め上げるような恐怖の煽り方がたまらない。岩下志麻もいいが、「怪談せむし男」で怪演を見せる鈴木光枝の淡々とした表情がすごく怖い。ラストシーンでの何をするでもなく戸惑っているような、どっちつかずの動きも、不思議な効果を生んでいる。同じ原作で神代辰巳がテレビドラマ「悪女の仮面」を撮っているが、あまりにショッキングが過ぎて笑ってしまうのに比べると、こちらの方が地味な分だけ、後から恐怖がいつまでも尾いて来る気がする。
 一番駄作だったのは新東宝系の「女の決闘」だが、大映の「犯罪6号地」(1960)のひどさにも吃驚した。大映作品だからとても重厚に作られているし、主演の高松英郎も一生懸命だが、筋立てにしても演出にしても演戯にしても、何の華も見応えもない。ここまで無内容な作品も珍しい。途中、刑事たちの間で、捜査で重要なのは科学か直観かという議論が起こり、どうなるんだろうと少しだけ期待して観ていても、何の展開も絡みもないままに立ち消えになる。全てがこの調子で、上滑りに進むだけ。実にひどい脚本で、よくぞこんな作品を作る気になったものだ。「女の決闘」は何もかもが未熟で稚拙だから、それで済んでしまうが、こちらはきちんと作られているだけに、そのつまらなさが異様に際立って見える。つまらなさを楽しむことすらつまらない。
 ちなみに、科学か直観かという議論は、あまり意味のない問題設定だと思う。それを対立的に捉えるのは、とても表面的な理解で、すごく勿体ないと感じる。インドの数学者ラマヌジャンは自分の発見した膨大な定理を全て信仰する女神が降りてきたせいだと言ったそうだが、それはあくまで信仰者の主観的な発言。だいたい直観というのは、科学と相反するような神秘的なものではなく、人間の体験に根差していなければ成立しないだろう。体験を積み重ねた人間が、得られた日常のパターンとは微妙に異なる事態に遭遇した時に感じた違和感を、何とか意識化しようとする働きこそが、おそらくは直観であって、言語化されてはいないが、それなりに根拠のあることだ。もちろん、その過程で間違うこともあろうが、だからと言って、全否定するようなものでもない。経験者の貴重な洞察を取っ掛かりにして科学的に解明すれば、見えなかったもの・見えにくったものが見えてくるかもしれない。そこで神秘への信仰が出て来てもかまわないが、要は使えるものは何でも使ったらいいじゃないかというだけの話だ。
 観た中で一番気に入ったのは、浅野辰雄「野獣群」(1958)。これは「女の決闘」と同様、新東宝系のチープで稚拙な作品で、そんなに評価されない作品だと思うが、ここで描かれているようなダラダラと間延びした展開が、個人的には大好きなのだ。こういうユルユルな作品を、何もする気になれない深夜などに観れたら最高だと思う。ドリフのコントみたいなシーンが延々二時間以上も続くラット・ペスタニーの「地獄のホテル」とか(ちなみに、この邦題は最低で、「ようこそホテル地獄園」とでも訳したいところだ)、ポルノ映画館で働く破格のレズビアンがバーに行ったりナンパされたりする光景がズルズル語られるマリー=クロード・トレユーの「シモーヌ・バルベス」とか、いつまでも観ていたい気持ちになる。「野獣群」も、編集であまり切り刻まれることなく、いろいろな思惑が蠢く怪しい酒場の光景が垂れ流される。よく知らない俳優たちの歌や芋芝居も、ここでは弱みにならない。作詞家の湯川れい子が俳優をしていたとは初めて知った。

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 〇最初期の映画を観ていると、編集の発想や技術があまり確立していないことがよくわかる。初期の無声映画は、起こった出来事を時系列的に描写しようとするから、ひどく長尺になっていて、例えばフィルムセンターで観たフリッツ・ラングの「月世界の女」の長尺版(これでも完全版ではない)なんて、あまりにくどくて退屈で、思わず切り刻みたくなるほどだ。そして、少しずつ編集や省略の技法が発展し、各国のプログラム・ピクチャーでは、確固たるものとして洗練を極めた(にもかかわらず、下手な作品も山ほどある)。しかし、それはある意味では、あまりにもうまくまとまり過ぎてしまって、出来合いの既製品という印象も拭えなくなる(その中でも、例えば市川崑のように、断続的な繋ぎによって衝撃を与えるものもある)。ちなみに、かつてアテネ筒井武文監督特集をやった折り、ゲストの瀬川昌治がカットしたいシーンが沢山あると不満を述べていたのも思い起こす。
 そんな日本映画の流れを変えたのは、おそらく北野武の作品で、従来だったら平気で省略されるような無駄な戯れのシーンを随所に挟み込み、それがまた独自のリズムと緊張感を生んで、衝撃的だった(実見したのは大分後だが)。橋口亮輔作品では時折、省略される中で、一見冗長とも思える長回しのシーンが現れて心地よい。その先駆けかもしれないのは、(筒井の「レディメイド」もさることながら)伊藤智生の「ゴンドラ」だろうか。この作品はよく冗長だと批判され、特に後半部はとうに物語の決着がついていると思えるのに、長々と田舎のシーンが続く。しかし、僕はこの冗長性に惹きつけられて仕方がない。何気ない日常のかけがえのなさ、あるいは苦しみや悲しみの果てに訪れる日常の愛おしさを、いつまでも観ていたくなる。しかし、映画が終わっても、ちっとも悲しくはならない。なぜなら、この映画を観た体験が心に残って続いているから。だから、映されているせっかくの光景を、無闇に切り刻んでほしくない。
 もっとも、最近の作品には、ただ長いだけと感じるものも少なくない気がする。メリハリの効いたスタイリッシュな編集もすごいと思い、舌を巻く。その一方で、ダラダラとした冗長な時間も味わいたい。これは僕が映画に一方的に癒しを求めているからだろうか。

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 〇癒しに関連して思い出したこと。高倉健主演の「君よ憤怒の河を渉れ」という大作映画がある。高倉が初めてヤクザ役から脱した作品で、戦後初めて中国で解禁・公開された日本映画として当国では絶大な人気を誇る(もっとも、セックス・シーンや共産主義批判の部分があるので、中国版「追補」はかなり改竄されているらしいが)。ところが、本国では完全な駄作扱いで、全く評価されていない。確かに物語は虚仮威しだし、全て自力で問題を解決しようとする主人公の頑なな行動原理が幼稚な気がしないでもない。また、この映画の音楽も散々な言われようで、ピクニックにでも行くような感じの音楽が随所に現れ、間が抜けて、盛り上がりに水を差して、全くミスマッチだとケチョンケチョンだ。
 しかし、僕は音楽も含めて、この作品が大好きで、浅草名画座高倉健三本立てで初めて観た時に、すごく惹き込まれてしまった。僕はもともと高倉健には何の興味もなかったのだが(観に行ったのは横溝正史原作の「悪魔の手毬唄」が目的)、この作品の健さんは、やくざれ刑事の原田芳雄ともども、すごく格好いいし、幼稚な行動原理も、最初からそういう意地っ張りの話だと思えば気にならない。脱力系の音楽については、これには最初、僕も唖然とさせられ、思わず息が抜けてしまったが、そんなに嫌な感じはしなかった。この間の抜け方はむしろ魅力的で、鑑賞者をほっこりさせ、過度の緊張感を牽制し、ふと我に帰らせる役目があるのではないか。
 大分前、テレビを適当につけたら、確か渡辺篤史がナレーションをしているドキュメンタリー番組で、パチンコ台の最新機種の特集をやっていた。僕は父を迎えに行った小学生以来、パチンコをしたことはないので(ちょうど玉飛ばしが手動から自動に切り替わる頃の話だ)、本格的な液晶タイプのデジパチについては何の知識も実感もなかったが、そこでは「海物語」という製品がいかにすごいのかということが強調されていた。それによると、基本的にパチンコのような勝負事をする時、人はある種の緊張状態に置かれる。それはとてもスリリングな体験だが、生理的な限界があり、やがては疲労し、いつまでもその状態を維持できるわけではない。ところが、「海物語」の場合には、人は所々で、そのまったりした演出や画面構成に癒されて、そのまま息抜きができるため、その結果、かなり長いこと、楽しむ(楽しませる)ことができる。パチンコに癒しのリラックス効果を持ち込んだものとして、「海物語」は画期的なのだそうだ。その後もいろいろな機種が出ているが、結局は緊張状態を高めるの一辺倒で、その効果を全く意識していなかったり、意識しているとしても、マニアックな一部の人にしか効果を発揮していなかったりするのがほとんどなので、そんなに長くは続けられない。万人受けするという点でも、他の追随を許さないとのこと。ギャンブルはやはり人に依存症をもたらすものだと思うが、パチンコの中毒の質や深さは昔とは変わっていたということか。
 僕は「憤怒」の音楽も、多分にその効果があると思う。ずっと続く鑑賞者の強いられた緊張感をふっと解きほぐして、さらなる緊張を待ち受ける。それは一つの試みとして面白いことだと思う。ホラーにしてもサスペンスにしても、鑑賞者にある種の緊張状態を強いるし、それが強いられるのが、そうしたジャンル作品の醍醐味なわけだが、そればかりでは疲れる一方だ。もちろん、「影の爪」みたいに、ずっと疲れさせるのも一興。そして、疲れをうまく解きほぐされるのも一興。そこが個性になるのだろう。よく恐怖と笑いには類縁性があると言われるのも、その表裏一体性に関係するからだろう。東南アジアの往年のホラー映画には、コメディアンの笑劇がよく差し挟まれる。インド映画で突拍子もなく現れる歌と踊りも、緊張感を解放させる効果を含んでいる。とは言え、例えばアミターブ・バッチャン出世作「炎」で、ヒロインが悪党から強要されたガラス片の上での踊りのように、それらが混交している場合もあり、一筋縄で行くものではない。
 要はいろいろな状況があって、それを楽しめること、そうした感受性を身に着けること、これが大切だということなのだろう。好きなものは好き、嫌いなものは嫌いと言っていいが、そう言う勇気と、そのことと対峙し、それがなぜそうなのかを見極めようとしする意志、そしてそれも楽しめる間口の広さが肝心だ。そういう懐の深い人間になれればいいと思う。

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 〇その後、国立映画アーカイブに行く途路、新橋で下車して、ニュー新橋ビルの金券ショップ巡りをする。しかし、欲しいと思っていた展覧会のチケットはどれも安価では見つけられなかった。無駄足になったと思っていたら、離れ際に、よく行く安いショップの店先で、サラリーマン風の若い男が、まさに僕の欲しかったチケットを二枚買い取ってもらうのに遭遇した。店員はあれこれ調べて、一枚六百円ですと応えていた。これが売り出されたら安いんじゃないかと思って、他の店をまた一巡りし、五分後くらいに戻ってみたら、手書きで値札が付けられて、早速売られていた。値段は九百八十円。一番安いからすぐに買う。本当は直接取引できればとも思わないでもなかったが、損をした気にはならない。それに、二枚も要らない。御店も五分余りで三百八十円も儲けてよかったね。まさに三得。あ、美術館はちょっぴり損をしているか。