2019.1.28月

 〇午後から仕事だが、間に合いそうなので、その前にドキュメンタリー映画の無料上映会に出掛ける。犬肉の輸入禁止を訴える目的で政治家や世界愛犬連盟が主催したもので、会場は参議院議員会館。内容的も場所的にもそれなりの興味をそそられたので、思い切って行ってみることにした。この手の上映会に出掛けるのは、性的人身売買の被害に遭った女性をキリスト教の信仰で救済しようとするアメリカのドキュメンタリー映画を観に、救世軍の本部に入った時以来か。お金を節約したかったので、神保町から永田町まで、皇居の側を往復テクテク歩いた。
 ある区画を過ぎると、警察官の姿を頻繁に見掛ける。議員会館の入口にも青い服の警護官たちがいる。その前の道沿いには、複数の警官が列をなしていた。今日は何かがあるらしい。何だか入り辛かったので、警護の人に「通っていいですか」と訊いてみたら、「どうぞどうぞ」と丁重に応待された。そして、建物内に入ったら、金属系の物を提出を求められ、手荷物を機械に通され、税関並みのチェックを受ける。その上で総合受付に行く。すると、ちょうど同じ場所に行こうとする女性(このイベントのスタッフだと言っていた)が先にいたので、同じ行先だと告げる。チラシには通行証を受け取って入場してほしいとの記載があったので、ここですんなり貰えるのかと思っていたら、「向こうでお待ちください」と言われる。少しだけ戸惑いつつ、その直後にやって来た同じ目的地の女性ともども、傍らで立ち尽くす。ところが、そのままずっと待たされているうちに、上映開始の時刻が近づいてしまう。スタッフだという女性もジリジリしているのが見て取れるが、ただ待っているだけ。やがて、僕の後から来た女性が業を煮やして、応待した受付嬢の所に駆け戻って、「まだなんですか! もう始まるんですよ!」と、強い口調で食ってかかった。すると、受付嬢は「今呼んでますから!」と、これまた怒号に近い調子で一喝。女性は押し黙ってしまった。このやり取りにはちょっと吃驚した。後から知ったことだが、議員会館のセキュリティチェックを抜けるチップ入りの通行証は目的先の議員が直接預かっており、来訪者はそこから来た関係者によって面通しをされ手渡しをされないと中には入れないという仕組みになっていたのだ。それにしても、この受付嬢の気負いは只者ではない。警察関係者とかなのだろうか。
 さて、十分近く待たされた挙句、ようやく議員秘書らしい人がやって来て、関門ゲートを抜け、案内されて会場に入る。完全な部外者は多分数人で、スタッフの方が多いようだった。そして、北田直俊「アジア犬肉紀行」(2018)を鑑賞。二時間越えの大作。後から遅れて来る人もボツボツいたようなので、途中からずっと明かりがつけられたままだったのだが、しばらくすると、先の女性が怒り出したので、会場は再び暗くなった。
 内容は初めて見聞きすることばかりで、とても勉強になった。韓国の犬肉料理は有名なので知っていたが、中国やベトナムでもよく食べられており、日本でもそれらの料理店で時折り犬肉料理が扱われ、かなりの量が検疫を通じて輸入されていること、またそれらの肉には盗まれたペット犬がかなり含まれているらしいこと、そして日本でも動物愛護の観点から犬肉食と犬肉輸入を法的に禁止しようとする運動があること等々。まさにこの上映会自体が、この運動の一環なわけだ。
 この作品は中国や韓国での犬肉食の状況や反対運動、そして日本の運動家の活動を追いかける。とりわけ中国(広西チワン族自治区)で、犬肉祭りといったイベントが行われる一方、当局からほとんどタブー視されている情景を捉えている点は興味深い。しかし、全体としては、その題名にも象徴されているように、いかにも牧歌的で、政治的な主張はあるものの、高見の見物をしているような感が否めない。予想される屠殺などの残虐シーンもないこともないが、外国の告発作品からの引用として、小さな画面で映り込むだけ。犬肉食は時代の趨勢によってどっちみち世界から消え行くものだから、こんな風習もあったと回顧できるように、今のうちに記録しておこうという軽いノリで作られている(と僕には思えた)。
 しかし、正直に言うと、この上映会に参加しておきながら、僕はこの政治的な主張に全く賛同できない。犬肉食のどこがいけないのか、それを法的に禁じなければいけないのか、さっぱりわからない。ジビエ料理などに関心のある僕はむしろ、機会があれば、何の肉でも食べてみたいと思ったりするくらいなのだ。主張者の基本的なトーンは素朴な動物愛護で、「犬は人間のペットであり家族の一員なのだから、殺して食するなんて野蛮で残酷極まりない」という点に尽きる。しかも、それが普通(の現代日本人)の感覚だと信じて疑っていない。僕の家でも犬を飼っていたから、心情的には理解できるが、他人に要請できるほどの普遍性があるとは思えない。例えば子豚は可愛いのでペットとして飼う人もいるが、だからと言って、豚を食べるなと一般化・正当化できるだろうか。
 歴史的に見れば、犬肉食は人類の発展に不可欠のものだったと言えるだろう。例えば人類が北方の寒冷地に進出するには、犬を家畜化することなしにはあり得なかった。移動手段や臭覚の活用、あるいは番犬としてだけではなく、いざという時には食料に転化できたからでもある。この映画でも簡単に触れられているが、かつては日本でも近年まで、飢饉などの際には、犬肉食は頻繁に行われていた。反対者はこの点(だけ)を一応は認めつつも、過去の負の遺産だと切り捨てている。つまり、犬肉食は文化として遅れたものというわけだが、時代的にも地域的にも、そう言い切るのは拙速だろう。映画に登場する活動家は、ここから出発して、犬肉食は鯨食とは違う(犬はペットだが鯨はそうではない)と強調する。しかし、ペットを食べないというのは、肉食のタブーを正当化する論理としては、なかなか難しい部分を孕んでいると思う。
 肉食禁否の動機づけは、ざっくり言えば、大きく二つある。汚穢の忌避と神聖視だ。例えばイスラームでは豚肉を、ヒンドゥー教では牛肉を食べることが忌避されるが、この二つは両者を代表する典型例だと言えるだろう。
 イスラームは、世界的な宗教となった現在では、聖法でいけないと定められているからとの理由で、原理的に豚肉食が否定されるが(犬肉食も同様)、元々アラブ人にとって豚とは不潔な存在で、汚らわしいものだから、生理的に受け付けないという心情が根底にある。だから、間違って豚肉を食べたと後から判明したならば、アラブ人は生理的に気持ち悪くなって、何よりも先に吐いてしまうだろう。日本人で言えば、蛇とか蝙蝠とか烏とか溝鼠を食べる感覚に近い。
 その一方で、ヒンドゥー教徒が牛を食べないのは、牛は神聖にして有益な有難い存在だからで、それを屠るということは清浄性を侵すことになってしまうからだ。身近な存在に対する動物愛護、あるいはペットの肉食タブーも、ここに連なるだろう。ところが、これには裏があって、一般にヒンドゥー教徒は、原則として様々な肉類を食べないが、宗教的な儀礼として神に贄を捧げることが頻繁にあり、その際に(牛を含めて)屠った肉をありがたく口にしたりもする。つまり、日常的には肉食は忌避されるが、非日常ではその限りではない(これも一種の日常だが)。これは表面上は禁否とされながらも、滋養や薬食いとして暗黙裡に肉食が容認されていた少し前までの日本の状況(その枠組みは今でも残っていよう)とも通底する。
 ここで思い出すのは、日本のブランド和牛の畜産家の心情だ。彼らは牛たちにものすごい愛情をかけて育て上げる。この過程は普通にペットを愛玩することと変わらないように見える。しかし、彼らが丁重に牛をいたわるのは、霜降り肉にするためであり、最後には屠って肉塊にする。ペットを家族の一員として取り込んでしまうのとは決定的な相違がある。しかし、その愛情を嘘偽りだと言うことはできないだろう。だから、愛情があるからその動物を食べないという論理も、そう簡単には一般化できない。さらに言えば、ペットに愛情があるから食べずにはいられないと考える人だっているかもしれない(別に猟奇的な話に持って行かなくても、その昔、掛札悠子さんが、友人が出産の際に病院から貰って来た自分の胎盤をステーキにして身内で食べ合った話をミニコミ誌に書いていたのを思い出す)。
 そして、日本の犬肉忌避の場合には、後者だけではなく、前者の側面も多分に含まれていると思う。犬肉は可愛いからだけではなく、汚らわしいから忌避されている。そして、それに関わる者(犬殺し)や犬肉食をする人々を、劣ったもの・気持ち悪いものとして見下そうとする傾向もある(例えば、大江健三郎の処女作で描かれているように)。しかし、この映画では、そちらの方面はほとんど明示されず、あくまで後者の理由づけのみで通そうとしている。それは市民運動家にありがちな発想として、中韓への蔑視や差別、職業差別や部落差別に繋がることを避けようしているからだろう。しかし、実際には、犬肉食を遅れた文化と見做して(中国当局も同様だが)、前者の嫌悪の感情を、自分の政治的な目的のために当て込んでいる。なぜなら、先の子豚の事例でもわかるように、「ペットを食べるな」という主張からは、全面禁止という論理は正当化できないが(個別に「ペットを盗むな」というのなら正当化できるも)、できると思うのは、そうした嫌悪の世論が自分の主張を後押ししてくれるはずだと想定しているからだ。つまり、ある種の差別感情を、無自覚にではあれ、利用・動員しているのではないか。その点では、反捕鯨シーシェパードやグリンピースなどと大して変わらないと思う(ちなみに、先の大江の作品でも、嫌悪の感情が当て込まれているが、こちらは読者の気持ちを逆撫でするための皮肉であって、大いに自覚的だし、目的も逆だ)。
 あれこれ書いたが、要約すると、日本の犬肉食禁否には、親差別的な汚穢忌避の側面もあるのに、それを看過したまま、動物愛護の論理だけで反対運動を展開するという戦略は、差別的な側面を助長するだけではないか。差別を忌避しようとして、被差別者や問題自体を忌避することは、差別の固定化を忌避するつもりで、既存の差別を解消するどころか、増幅しているのではないか。
 少しいろんな人の意見を聞いてみたいとは思ったものの、時間がないので、すぐに退散したのだが、帰りしなに、「この映画のTシャツがあるのでどうぞ」と言われる。特に興味もなかったが、熱心に勧められるので、入口付近のテーブルの手前に置かれてあった一枚を適用に取ったら、サイズはこちらの方がいいのではないですかと言われて、そちらを手渡される。細身の僕に対して、気を配ってくれたのだろう。その点はありがたいが、現物を一瞥して、何でこんなTシャツを作ったのかと思ってしまった。犬肉食反対、輸入反対という運動目的の主張が盛り込まれたものなら、まだわかる。しかし、映画の題名と写真だけがプリントされたTシャツを着ること(や作ること)の意味はどこにあるのか。宣伝や返礼のためだろうか。このことも含めて、映画もこの上映会も何だか牧歌的で、能天気だなと感じた。
 「日本の市民運動家はよく記念写真を撮るが、その写真をアメリカの活動家に見せると、とても驚かれる」と八木雄二が書いていたが、確かに日本の市民運動は、同じ目的を持った人たちのネットワークというよりは、信頼できる人を中心としたコミュニティとなる傾向があって、その結果、手段と目的がひっくり返って、運動自体がすぐに個人のアイデンティティになってしまいがちになる(そして、それ故に、いつも個人や団体の面子や体面や思い入れ、そしてそれに伴う対立に翻弄されがちになる)。これは、多少なりとも市民運動に関わりを持った経験のある僕には、大いに心当たりがあるところだ。そして、こういう会は往々にして、開かれていることを謳っておきながら、同志しかいない、同志しか集まらないことが、暗黙の前提にされている。だから、異論が唱えにくい。多少の違和の表明くらいなら、牧歌的な同志の内に、平気で飲み込まれてしまう。あくまで異論を提出するなら、それなりの波乱と手間暇を要する(そして、そう想定できることを忖度することが求められる)。議論の土壌自体を勘案しなければいけない。なかなか面倒臭いのだ。
 運動には同志しか存在しない(対立が意識されても分裂するから問題ない)。それはまた、外自体も、外に向けても同じで、日本ではだから、声高な主張をして対立構造を鮮明にするよりも、やんわりと礼儀正しくして、秩序を守るとアピールした方が、一般に受け入れられやすいし、効果的でもある。異物になって、目立ってはいけない。だから、牧歌的にふるまうのは、むしろ当然の成り行きとも言える。一種のうやむや戦略だ。ただし、実際には、それが成功したところで、一定の居場所が確保できるだけで(それも重要だが)、大して変革がなされるわけではない。すぐになされるわけでもない。運動家たちは同志の勢力範囲を広げたつもりでも、それとなく社会のおこぼれに与っているだけだ。日本の活動家はこうした曖昧な柔構造の罠に常に取り込まれ(あるいはつけ込んで)、対峙する必要に迫られる。ここでの匙加減が、彼らの腕の見せ所であると同時に、悩ましい所なのだ。単にペットを屠るのは残酷で可哀想だからとか、犬肉食は日本にそぐわないからというのは、あまりに無邪気で無防備だが、この無防備性こそが、この中では戦略的に有効なのかもしれない。しかし、そのことこそが、僕にはやはり恐ろしい。この運動をしている人は圧倒的なマイノリティかもしれないが、異文化あるいは多様性を排除するだけの、日本にありがちなサイレント・マジョリティの怖さと同質のものがあると感じる。日本の市民運動もまた、日本の写し鏡なのだ。
 かと言って、こうした同志欲求を否定するために、わざわざ対立を煽って、敵を作ろうとするわけにもいかない(瑣末な分裂を促すだけだから)。最近の巷を見るに、ネットの影響からか、そういう反動ばかりが目立つのはどうしたものか。同調社会への反動(あるいはアンチ同志欲求)は、多少盛り上がったところで、既成の社会に吞み込まれるのが華であり落ちなのだから、成人した不良のように、どうせすぐに押し黙って、無かったことにするのだろうけれども(いや、むしろ当節では、そこら辺の区別も付けられずに、昔のヤンチャ自慢をする方が多いのかもしれないが)。そもそも最後に保守に回収されるような格好つけの反動、あるいは最初から回収されることを当て込んでいるような反動が、日本の現状や問題点を改善するなんて、どうしたら信じられるのだろう。反保守の保守性、似非反動の反反保守性。どうしたらどっちの轍も踏まずに行くことができるのか。
 会場内のコンビニに立ち寄りたかったが、歩くことを考えると、仕事に間に合わないのは確実なので、脇目も降らずに会館を出る。急いていたから、ちゃんと確認しなかったが、外では何かのデモ隊が行進していた。
 Tシャツを一枚儲けた。

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 〇肉食に絡んで一題。僕はジビエ料理などに関心があり、いろんな肉を食べてみたいと思っている。最近はテレビなどでも時折り紹介されているので、熱心に見たりするのが、その際、よく「命をいただく」という文言が出て来る。屠った動物に対して、感謝を捧げようとする言葉だ。しかし、僕はこの言い方が嫌いで、それを聞くと、どことなくいやな気持ちに襲われる。それはどうしてなのか。
 まずは、いささか説教臭い点。肉は感謝して食べろ。もっとも、僕も肉に限らず、食事ができる状況に感謝した方がいいと思っているから、大仰にしても、それくらいの主張はいいと思う。また、その発想には、屠った以上は食べ残しは許さないぞ、という強制性も含んでいよう。今では違うのだろうが、かつては学校給食では食べ残すことがいけないこととされ、完食するまで食べさせるような雰囲気なり指導があった。好き嫌いの激しかった僕は、それにいやな思いをしていたので、そういう目に遭うと、今でも少々うんざりする。とは言え、個人の好みだけを優先させて、食料を粗末にし、廃棄でも何でもすればいいというものでもないから、多少の説教性はむしろ必要だろうと思う。まして、個人の見解に留まっているのなら、否定できるいわれもない。だから、理念や主旨に異論があるわけでもない。
 いやなのは、御都合主義に聞こえる言い方だ。食あるいは肉食に感謝するのはいいとして、多くの場合、ジビエに関してだけ、そんなことを言っているように聞こえる。肉食だからというより、身近ではないものを食べるから、そうした理屈をつけているのであって、身近ならつけないだろうと思えるのだ。昔観た「世界ウルルン滞在記」というテレビ番組の中で、山口もえがモンゴル人の家へホームステイをした時に、おもてなしに山羊を屠られるのに絶句し、残酷だと泣き出してしまうことがあった。その反応にモンゴル人たちの方も戸惑ってしまうのだが、後日、その時にお世話になったお母さんが来日し、魚料理を振舞われた際に、生魚がさばかれるのに全く同じ反応を示し、立場が逆転する。そして、お互いのことを理解したという落ちがつく。つまり、普段している日常的なことは意識されないが、普段しない非日常的なことには違和を覚える。だからこそ、あえて非日常的なことをするためには、正当化の言訳が必要になる。しかし、そこで相対的な視点を得たことは重要だとしても、日常そのものが疑われるわけではない。残酷と思えたことも、裏を返せば日常であって、実際には残酷ではないとされる。普段口にしている肉や魚はやはり素通りのままだ。ジビエの際の感謝は往々にして、食への感謝というよりは、個人的な(あるいは世間的な)違和感への牽制に留まっているように聞こえる。もちろん、ある種の食育家の人たちのように、そこから大きな広がりを見せることもあるだろうが、それほど一般的に許容されていないのではないか。その恣意性が少々気になってしまう。
 肉食の文化には、そもそもごまかしがある。食べるためだとしても、殺生をするのはやはり残酷なことで、その残酷性と折り合いをつけなくてはいけない。そして、そのつけ方が文化によって多少の違いを見せる。かなり昔になるが、僕はNHKのドキュメンタリー番組で牛の屠殺シーンを見て、衝撃を受けたことがあった。舞台はドイツの片田舎で、幼い子供も含めて家族総出で一頭の牛を屠り、血を集め、皮を剥ぎ、肉を切り刻み、腸でソーセージを作る。焼肉屋に生まれた僕は、日本人としてはいささか例外的に、子供の時から日常的に肉塊や内臓に触れて育っていたが、それらはただの食材であって、野菜や魚介類とさほど変わるものではなかった。ところが、ドイツの(田舎の)少年にとっては、肉食とは明白に屠殺・殺生であって、子供の頃からこういう光景や関係性に普通に接している。この差には愕然とした。
 僕は当時、鯖田豊之の『肉食の思想』を読んでいたが、なるほどこうした環境下では、人間と動物を峻別する思想が決定的に必要であり、それがキリスト教の基本的な土台になっているのだと得心した。家畜は人間が食べるために神が作ったもの。人間とは全く別。そう規定した神も人間とは全く別。そのように想定しなければ、とてもやっていけない。これははっきりとごまかしだと思うが、その上で、屠殺はごく自然な日常の営みとしてある。ついでに言えば、その線引きの思想は、神と人間、人間と動物の間のみならず、人種や階級の差にも適応され、歴然たる差別が生み出される前提にもなっている。その反面、そうした規定への反動として、反差別の運動も生み出される。そして、人種差別の闘争が繰り広げられるわけだし、動物愛護運動や反捕鯨運動も展開される。しかし、そうした運動自体も、線の引き直しや強弱の改変を図るだけで、線引き自体に進むことは少ないように思える。動物愛護運動のやり口や激しさを見ていると、これは一種の公民権運動のようで、逆に言えば、黒人や先住民の有色人はこれまで、まさに動物然として扱われてきたのだろうなと思って、ゾッとしてしまう。
 ひるがえって、日本に肉食のごまかしはと言うと、日本では、肉食の屠殺性は隠蔽され、隅に追いやられている。屠殺に関わる者は漠然たる周縁化を受けたまま、差別的に忌避される。線引きの境界性はない(見えない)。肉食も草食もない。いや、肉食も草食なのだ。日本で肉食が一般化するためには、肉が単なる食材として扱われなければ、成立しなかっただろう。ジビエは日本のそういう状況に、結果的に一石を投じてしまう。だからこそ、言訳が必要になる。しかも、飢饉などで必要だったという以外の言訳でなければならない(ジビエは嗜好と見做されるから)。そこで持ち出されるのが「命への感謝」だが、ここには二つの道が待ち構えていよう。一つは肉食は殺生だと受け入れて、食の残酷性を肝に銘じる道(路線だけは西洋と一緒)、そしてジビエすらも現状の肉食のように草食化し、無化してしまう道。感謝する場合の本来の主旨は前者であるはずだと思うのだが、多くの人は気分的に後者を選択しているような感じがする。だとすれば、所詮は日本的なごまかしに、さらに輪をかけるものではないか。
 僕がジビエに興味があるのは、単なる嗜好であり好奇心だ。それはそれでいいと思うし、それを否定されたくない。それはある意味、肉食を草食のように考えるのと大差はないだろう。その一方で、そうした日本の肉食のごまかしを明るみに出すこともまた必要だろうと思っている。肉を食べるなら、残酷性を意識した方がいいと思うし、屠殺をせざるを得ないという業を肝に銘じるべきではないか。なぜなら、それに関わる者たちを差別し排除してはいけないと考えるから。人間はそこから逃れられない。
 だからと言って、西洋式に線引きをして、残酷性を正当化すればいいというものでもない。西洋でも肉に感謝しているだろう。ただし、感謝の力点は動物ではなく、別の所にある。つまり、家畜を屠ってもいいという神のお墨付きへの感謝だ。しかし、僕はとても神を想定できない。感謝するなら、漠然と自然に対してであって、動物も植物もない。獣も家畜もない。鉱物だって同じことだ。なぜわざわざ動物を厚待遇しなければいけないのか。それは動物への感謝ではなく神への感謝だ(だから、この論理では、家畜には感謝の必要はないという発想が容易に出て来る)。そもそも神も人間の都合で成り立ったもの。だから、人間の都合への感謝だ。
 日本では、食に限らず、屠ったものを供養する習慣があり、それは感謝(あるいは贖罪)の一環として、一応は理解できる。これは西洋式の感謝とは違って、階級的な区別をつけない。実験動物の供養どころか、非生物との区別すらつけない針供養・筆供養・人形供養などもある。しかし、これですら、最終的には、人間側の都合であり、正当化でしかないだろうが。
 僕にも自然への感謝の念や畏怖はある。同時に、その中で人間が生きていくという矛盾への葛藤がある。それは神には行かない。だから、すぐに全能の神に向かうのは違和感がある。僕は本質的にクリスチャンではない。馴染みがない。スピノザばりに、僕の言う自然を神と呼んでもいいのだが、そこには矛盾があり、葛藤が横たわっている。絶対的なものではない。だから、こうした矛盾を抱えたままで、「命をいただく」などと言っているのを聞くと、自分本位の正当化にまず思えて、抵抗がある。ここにあるのは自己反省でははなく、自己正当化であり自己欺瞞だと思うから。命をいただいて感謝すると、何がどうなると言うのか。別にジビエを食べなくても、生きていること自体が命をいただいていることなのだから、その矛盾を恥じないのかと言いたくなる。いや、別に恥じなくてもいいのだが(強要する気はない)、残酷なことをしながら(あるいはそれに依存しながら)、それを糊塗し、開き直るのは、はっきり言って偽善だと思う。免罪符はごめん被りたい。見えないふりをしないで、矛盾を意識した方がいいのではないか。贖罪は神にするものではないと思う。
 もちろん、何にでも感謝できるという行為は立派だと思うし、そのように振舞える人を本当は尊敬したいとも感じる。しかし、開き直りの押しつけ神学には興味はない。動物愛護とは動物を可愛がることではない。殺さないことではない。時には全体のことを考えて、去勢したり、間引きしたりもする。動物のためを思っても、残酷なこともする。供養もする。冥福も祈る。しかし、それでも人間の都合ではあるだろう。これを恥じよというなら、全くその通りで、恥じるしかないと思う。感謝だけで生きられれば苦労はないが、本当にそうしようとするのは、並大抵のことではない。感謝することの懊悩がなければ、それはやはり偽善ではないかと思う。
 とは言いながら、こうした偽善を全否定したいとは思わない。偽善は偽善だが、偽善でも別にいいと思う。偽善も立派な文化だろうから。要は、意見の強要が嫌いなだけ。そのために、違和感を表明しておこうと思っただけ。
 と、ここまで書いて、僕は裏返しのクリスチャンなんだなと思った。僕が想定する神は明らかに唯一神で、多神教的ではない。その絶対性はあくまで自己放擲の手段でしかないとは言え。と同時に、解脱をしないカルマ論者なのかもしれない。僕がよくこんがらがって、人と話が通じないのは、ここらに起因するのかも。