2019.2.7木(続)

 〇僕はもう二十年近く同じ職場で働いているが(会社は三回変わっている)、その間に、たくさんの「使えない人」「駄目な人」に遭遇してきた。明け透けに言ってしまえば、今でも三割強はそういう人たちと一緒に仕事をしている。かつてはそうでもなかったが、ここ最近は、新しく入る人たちの多くはそういう感じの人ばかりになっている。「できる人」は滅多にいない。できる人は来てもすぐにいなくなってしまうが(それでも残っているのは職場を変わるのが面増臭い怠惰な年寄りたちだろう)、そうではない人もそんなに長くは続かない。だから、常に入れ替わりが激しい所なわけだが、これまでに三十人以上は、そういう駄目な人たちと接してきただろうか。
 それでつくづく思うのだが、以下、不謹慎を承知で続けると、使えない駄目な人は、大きく二つに分けられる。一つは人間関係が駄目な人。二つ目は要領が駄目な人。そして、両者に共通するのは、想像力の欠落ということに尽きると思う。
 人間関係で問題がある人に関しては、話が別になるので、ひとまず置く。要領が悪い人には、男女を問わず、たくさん出会った。先の『夜明け』に出て来るのも、こちらの方。小さい頃、小学校でもそういう要領の悪い子がクラスに一人や二人はいたものだが、その子がそのまま大人になると、こういう人になるだろうなと思った。
 要領の悪い人は総じて、手際のいい仕事ができない。始めから覚えも悪いし、覚えてもすぐ忘れるし、行動も遅く、そして余計なこともする。何か一つでも得意分野があればいいし、そういう人も若干はいるのだが、どんなことをやらせても大抵はうまくいかない。しかし、そんな人たちと度々接してきて気付くのは、大体同じようなパターンにはまっていて、同じような発想をし、同じような行動をとるということだ。もちろん、生まれも育ちも性格も背負っているものも違っていて、それぞれに個性的なのだが、大筋では驚くほどよく似ている。
 まず、そういう人は物事を覚えたり、理解するのに、とても視覚的・表面的な捉え方をする。目の前の出来事にすぐに呼応し、何かが起こったら何かをするという風に、とても単線的・連鎖的で、機械反応的な行動をとる。ところが、世の仕組みは、それ以上に複雑かつ重層的で、そうすんなり行くものとは限らない。複数の事柄を同時進行しなければならないこともある。また、何につけても、物事には例外があり、そして例外にも例外がある。また、限られた制約の中で、時と状況に鑑みて、複数ある案件に優先順位をつけなければならないような事態も起こる。だから、それらに対応するために、物事の主旨や目的をまず押さえ、そこから逆算して、やるべき行動を判断する必要がある。しかし、彼らはそういう風に構造的・戦略的に考えるよりも、それら全ての物事を既定の事柄として、一元的・平板的に丸暗記することに腐心する。もちろん、最初は誰でもそうだろうし、それでもある程度対応できるのならそれでもいいのだが、そういう人は大体、作業記憶の容量も多くないので、そのパターンを全て覚え切れるわけでもない。新しいことを覚える度に、しばしば上書きしたり、混同したりして、うまく整理ができないことが多い(覚えようとして大量にメモを取ったりもするが、必要時に引き出せないので、ほとんど活用できない)。だから、覚えるのにすごく時間が掛かるが、得た知識にも斑がある。そして、ちぐはぐな知識のまま、重層的な事柄をも、単線的に処理しようと奮闘して、作業上、膨大な手間暇を浪費することになる。
 (逆に言えば、多くの人は普段何も考えていないようでも、それなりに知性や判断力を働かせ、その都度、創意工夫をすることで、記憶の容量を省略しているのだということがわかる。人類史的に見ても、人称を独立させることでラテン語サンスクリット語などの複雑な格変化を覚えなくて済むようにしたわけだし、そもそも文字を発明し記録を残すことで個人の頭の中で記憶しなくて済むようになったわけだ。それに、よくよく考えてみれば、この世のありとあらゆる例外や優先順位を覚えることなど、どんな人間にも不可能で、そんなことをしていたら、本当に不測の事態には決して対応できやしないだろう)
 だから、彼らはその行動がなされる条件節や文脈を、しばしば飛ばしてしまう。文脈をそう覚え切れないためだ(そもそも文脈とは覚えるようなものではないが)。そのため、脈絡はしょっちゅう無視されて、ある条件下でなされるべき限定的な行為が、いつの間にか一般化して、いつでも遂行されるような絶対的なものと化してしまう。仮言命題が定言命題にされてしまう。そのために、すべきではない状況でも、いつも通りの振舞をしがちで、しばしば事態の混乱を招く。
 さらに問題になるのは、その傾向にどんどん突き進んで、手段と目的が転倒するということだ。例えば、ある目的のためにある作業が必要だとしても、その作業をすることの方が目的化するということがしばしば起こる。そのため、作業がすぐに形骸化する。その具体例としては、流しやシンクなど、大きなものを清掃させてみるとよくわかる。彼らは綺麗に洗浄する目的で、洗剤を散布し、擦り、水で流すという作業をするわけだが、普段はあまり汚れないために、いつもの段取りに入っていない箇所が汚れていても一向に平気なのはもちろん、そのうちに、例えシンク自体にそれなりのごみが残っていて、洗い残しがあっても、それほど気にしなくなる。普段の通りに手を動かすこと、ルーティンを消化することが目的になっているので、綺麗に洗われているかどうかは、二の次になっていく。ちなみに、僕はそうした事態に何度も遭遇し、その都度たしなめてきたが、すると彼らはどう対応するかと言うと、今まで以上に洗剤を大量に投入するなどして、形式作業の強化を図るだけで、だから、そのうちまた、同じような状態になる(しかも、今度は、溶剤の使用量が増えた分だけ、ひどくなったとも言える)。このように、ある作業をする過程においてなされる付随的・副次的な事柄が、その作業をする主たる意味に変換・昇格されるという事態がよく起こる。だから、これは転倒と言うよりは、そもそも区別や整理がないと言うべきで、そのため、歯止めもないのだろう(なお、ついでに言うと、ルーティンは結構流動的で、常にギチギチに固定されているわけでもない。いつもの日課の延長線上で、逆に余計なことまで踏み込む場合もある。先の清掃の例で言えば、電気の配線や配電盤などが設置されていて、清掃には注意を要する箇所があったとしても、いつの間にかその配慮が失われて、周囲と同じように水を大量に掛けて洗うことが常態化してしまい、防水処置の限界を突破して、漏電や故障を引き起こしたこともある)。
 そうした混同は、時間の領域にも及んでいる。彼らに概ね共通するのは、昔から物覚えが悪いと周囲から責め立てられてきたらしく、そのことにすごく引け目やトラウマを感じているということだ。そのため、自分は「できない人間」だといつもくよくよし、あるいはある意味あきめて(開き直って)いる。その一方で、怒られることがないようにと、いつも気に掛けていて、そのための努力は惜しみなくする。ところが往々にして、その点ばかりに目が行ってしまい、怒られなさそうだと思えば、手を緩めて努力をしなくなる一方、かつて怒られた覚えのある失敗の再来を気に病んで、そうならない予防線を張ろうとするあまり、先走って前の作業を妨害したりなど、現時点でやるべきことを飛ばしたり、ないがしろにしてしまう。そうしたあべこべな失敗をよくする。ここでは、過去と未来の交錯と混同が起こっている。時間的な優先順位をつけることもできていない。先に想像力の欠落と書いたが、彼らの発想は決して形而下に留まっているわけではなく、想像力が仇になっている場合もある。
 だから、彼らは基本的に、他者との共同作業に向いていない。自分のしていること・認識していることに精一杯なので、共同作業をしている相手の動きに合わせて、自らの行動を律したり調整したりすることはあまり得意ではない。だから、それなりにできる人(や刺激を与える人)と一緒でなければ、共同でやる仕事は回らない。そういう人同士が隣り合わせになると、お互いのことを意識しない分、嚙み合わせが悪くなり、空回りして、仕事が大きく滞ってしまう。だから、そういう人の比率が少ないうちは何とかなるが、高くなればなるほど、掛算式に仕事の効率が悪くなり、多くのロスタイムが発生する。また、それ以上に危ういのは、失敗の連鎖と増幅が起こりやすくなるということだ。誰かが失敗したとしても、周りの誰かがそれに気づいて阻止すれば、問題は未然に防くことができるが、そういう人たちが合わさっていると、そもそも失敗や冗費が発生しやすい上、出て来た失敗は見過ごされ、ずんずん素通りし尾鰭が付いてしまって、最初は些細なケアレスミスだったものが、重大な過失にまで肥大化するということがよく起こる。
 僕は彼らが物事を錯綜したまま平板的に覚えようとしている(また本人たちもその膨大さにうんざりしている)ことは、はっきり無駄だと思うので、思考に重要度の段階的な差別をつけて整理すること、つまり主旨や目的をまず理解して、そこを基準に判断して行動するようにすれば、覚える量も少なくて済み、圧倒的に楽なのだといつも力説しているが、なかなかうまくいかない。そもそも覚える時だって、教える人の話をちゃんと聞いているのか疑問に思うこともあるし、それこそ、こちらの主旨を斟酌してはくれない。僕の言うことも、実際にする作業も、重要度は一律で、覚える対象としては等し並みに扱われている(いや、もっと言えば、形而上のことは軽視か無視されている)。そして、覚えるべき事柄を何度も何度も繰り返して、長い時間をかけて、短期記憶を長期記憶に変え、固定することに専念する。まさに定言命法的に。
 (ついでに言うと、その過程での困難もあって、これは一部の人だけだが、そうして多くの作業を反復・体験して、多くのことを覚えていけばいくほど、仕事がどんどん遅くなり、できなくなっていく人もいる。これはおそらく、以前は単純な知識と反応だけで作業できていたから平気だったものが、これまで考えてもいなかった知識が増えると、それが邪念のように機能して、不必要な行動や迷いを増幅し、作業効率を狂わせているものらしい。だから、そういう時には傍から余計なことを言ってはいけないのだが、いずれにしても、整理をつけないままだと、世界を知れば知るほど、情報の過多に惑わされることにもなる)
 もちろん、そうは言いながら、長い期間をかけて、それなりの事象を覚えて行き、段取りを習得していければ、どんな人であっても、手際は改善されるし、それなりの仕事や対応もできる。この時、些細な事柄でも重大事になっていて、絶対化・形式化しがちなのだが、通常業務上は、そんなに支障があるわけでもない。ただし、うまくいくのは、いつも通りに事が進んで行く時の話で、事情が変わり、やるべきことの主旨や目的が一定以上変化してしまうと、それが通用しなくなる。いつもの段取り通りでなければ、途端に仕事ができなくなる。また、時間の制約で、行動を簡素化や省略することもできない。主旨や目的をわかっていれば、変化に合わせて、行動も微調整できるのだろうが、そういう可動性はあまりないので、一からの覚え直しになってしまう。新しい段取りを構築しなればいけない。
 ところが、ここで厄介なのは、彼らにとって、やっとの思いで獲得した長期記憶は一種の財産であり、拠り所となっている点だ。だから、それらは往々にして、すごいこだわりと化している。そのために、いざと言う時には、不必要となった昔のやり方を、なかなか捨ててはくれない。つまり、潰しが効かないのだ(とは言え、絶対化されてはいるが、流動的で形骸化もしているので、新しく変わったと言って、外から全否定する分には、それほど難しいことではない。より困難なのは部分否定の方で、この微調整は本人に委ねるしかないために、どうしてもこだわりの箇所が残ってしまう)。そして、さらに問題になるのは、それなりに長くやっていると、後から入って来た人たちに対して、先輩や年長者として、必要以上に権威的にふるまうような場合があることだ。どうでもいいような些末事を語る程度ならまだいいのだが、もはや過去に属すること、手段が目的化していること、主旨とは懸け離れてしまった弊害ある事柄をも、既定の絶対知のように、後輩に強制しようとすることがある。まさに知は権力とはよく言ったものだ。これこそ畑村洋太郎の言う「偽ベテラン」の振舞だろう。
 僕はそういう人たちと一緒に仕事をすることにやれやれと思うし、また大きな過ちをやらかした後始末をすること、そしてそれを繰り返されることに、確かにうんざりしているが(この愚痴の一端はここに書き散らかしてきた通り)、相手として存在し、一緒に仕事を回さないといけないのだから、ともかくそういう人の作業がうまく行くようにと考える。だから、彼らの間違いそうなこと・混同しそうなこと・誤解しそうなことを避け、こちらからなるだけ言わないようにするし、彼らが忘れがちな所を忘れないように促し、それでも飛ばすのなら代わってする他ないと思う。さらに、失敗の連鎖の阻止にも、常に気を配らなければいけない。もちろん、それでも、立ち行かない所はたくさんある。ところが、ここで困ってしまうのは、周囲の人たちとの関係で、普通にできる人たちのほとんどは、こうした人たちと一緒に仕事をするのに耐えられず、すごく不平不満を抱く。まずは相手ができないことに苛々し、自分の仕事量が増えることに苛々し、そしてその理不尽さに苛々する。大抵は平等主義の論理を持ち出して、不当だと言う(その論理には承服しかねるが)。できる人・わかる人がやらなければ仕事が回らないということには渋々承知でも、できない人の効率を落とさないために、できる人の方が気を遣った方がいいなどと言ってしまうと、反感を買って逆切れされる。そして、僕がそういう人たちを甘やかすから、つけ上がるのだと非難される(なるほど、僕は共同作業の成就のために、良い意味でも悪い意味でも、相手に踏む込み過ぎている)。もっとも、僕はできない人の行動を決して不問に付しているわけではないし、対する人の不満や言い分も一通り聞くから、そんなに責め立てられはしないのだが、自分が苛々していることに苛々しない人がいるのは許せないという態度を取られることもままあるので、一応は共感する振りをする。いや、一方では共感しているのだが(同じような発想や生き方を強要される感じへの反感と同時に)、それは本筋ではないし、些末なことだ。できない人がいると、そういう波風が確実に立ってしまうが、僕はどちらかと言うと、そっちの軋轢の方によりうんざりする。
 なぜかと言うと、だってできない人は全体の足を引っ張っているにしても、それなりにやっているわけだから、問題にしても仕方がない。それを補って、全体を回すことの方が、よっほど重要だと思う。そして、共同作業の足を引っ張っている点では、非難する方もまさに同質であり、しかも意図的にやっているのだから、より始末が悪い(まあ、その意味では「偽ベテラン」と化した人の方が、さらにひどいとも思うが)。もちろん、実利的に、できない人を責め立てて、うまく行くのならまだいいけれども、長期的に見れば、どうもそうはならないだろう。責め立てているのは、大抵の場合、鬱憤晴らしをしたいためだ。だから、その延長線上で、差別や排斥に容易に転換すると僕には見える。もっとも、僕のような態度は結構誤解されがちで、できない人たちから過度に感謝されたり、微妙に執着されたりすることもあるので、逆効果になるというのも一理はあると感じる。だから、その見極めや匙加減は難しいと思うのだが、個人的な感情で留飲を下げてみても、仕方がないと思う。もちろん、時には留飲も下げておかないと、これまた紛糾して、全体が立ち行かなくなるだろうから、その点では息抜きも懐柔も必要だとも思っている。そういう意味では、僕はいつも、どっちつかずの中立だ。いや、価値判断もしているし、多少の結論はあるから、中立とは言えないか。しかし、日和見主義ではない。僕は人から聞かされる見え透いた平等主義の主張など鼻で笑っているが、公平ではありたいと願っている。それは、進んで蝙蝠になること、二律背反の境に置かれることだと思う。
 ここでふと、自分の立ち位置について考えてみると、僕はひどく隔絶していて、何かに同一化し共同意識を持って自己を確立するということをそれほどして来なかったし、未だにそういう思い入れがあまりないのだろう(多少の憧れを抱いていないわけでもないが)。いつもふらふらしている。だから、そういう枠組みではなく、すぐに全体のことを考えてしまうが、その全体だって、何かが実在するというものではなく、漠然とした朧気なものでしかない。僕はやはり空っぽな人間なのだと思う。しかし、よくよく考えてみると、それこそが実は大きな要になっている。例えば、単純に、今の仕事の現場で僕という緩衝材がなくなることを考えると、方々で破綻を来たすだろう。もちろん、そうして摩擦を起こして、ガラガラポンと秩序の入れ替えをした方がいいような気もするし、そうしたい衝動に駆られないわけでもないのだが、まあ、そんなことはしない。その意味で、僕は何と保守的なのかと思う(そう言えば、橋口亮輔の『二十歳の微熱』を劇場に観に行った際、一緒に誘った友人が、この映画の「僕がなりたいものは、なんでもないもの​」というキャッチコピーにえらく共感していたが、既に空っぽの僕は、そんなの少しも大したことじゃないよと笑ったものだ)。
 それはさて置き、いずれにしても、使えない人を排斥するのは、すごい違和感を覚える。なぜなら、それも含めて世界なのだから。もっと言って、そういう人たちがいて、世界は成り立っているのだから。僕はそういう人たちも含めて、他人のことを散々こき下ろしてもいるが、尊厳を奪おうとも思わないし、そんなことをしているとも思わない。ただし、多少の名誉を傷つけているかもしれないので(責任を追求しないのは人格として認めていないからだと言われたら、反論するのは厄介かもしれない)、失礼かもしれないくらいのことは思う。だから、反省はする。しかし、誰かが一方的に差別され、排除が正当化されるような状況に接したとすれば、それはやはり許し難いことだし、食ってかかるだろう。目の前の人をどうして否定できるのか。ただし、言葉尻がどうか偏見がどうかとは、その意義にこだわりを持つ人にお任せする。想像の共同体に住むことは、どんな規格であっても、人を救済すると同時に傷つけることだとも考えるから。ともかく、異質なものも含めて世界だということをわかった方がいいと思うだけ。排斥者も含めて。何事にも寛容が肝要だよ。
 (なお、ついでに言っておくと、この話と労働の対価は別物で、公平性の観点からも、能力差や仕事量の違いが、ある程度は賃金差に反映されるべきだと思っている。だから、できる人は賃金的に優遇されるべきだろう。何でこんなことを書くのかと言うと、そうなっていないことが結構あるからだ。僕のいる職場でも、御多分に漏れず、人材をコストとしか見ない新自由主義的な発想が跋扈しているが、それが先鋭化する一方で、変な逆転現象も起こっている。普通は効率を重視し、労働者をコストと見做す発想の中では、できない人は低賃金・低時給に留め置かれるかと思いきや、実際には全く逆。というのも、できる人が入った昔は概ね買手市場の時で、ある程度の選抜と制約を受けているのに対し、できない人が入ったのは概ね人手不足の売手市場の時で、好条件での契約になっていたりする。そのために、場合によっては、ベテランよりも最初から高い時給が設定されていることもある。経験値などはどこ吹く風、新自由主義どころか、労働者は市場原理に委ねられるだけの頭数でしかない。もちろん、これは上層部の内々の対応なので、基本的には秘密事項なのだが、流石にこの事実に気づいた時は、問題だと思い、「このことが知れ渡ったら辞める人が続出するぞ」と上の者を半ば脅して、早急に是正するよう進言した。その後どうなったかはちゃんとは確かめていないが、ベテランの時給を上げて、最低限同一賃金にするという辻褄合わせで終わったらしい。しかし、これで初めて、見え透いた平等主義を批判できるとは、何という皮肉だろう)

 
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 〇蛇足だが、できない人同士が隣り合わせで仕事をする時に生じる効率の悪さを、数値に置き換えてみたことがある。そして、一つの目安として、考えついたのが以下の公式。自分がうんざりするのを紛らわすために考えたただの印象論で、何の科学的根拠もない。そもそも数式というのは、綺麗だが胡散臭いものだ。藤田博史ラカンの解説本(すごくわかりやすくて勉強になる)を読むと、その見事な数式に魅了させられるが、はっきり言ってこじつけで、実は何の証明にもなっていない。放送電波が霊界の証明になると主張するのと、大して変わらないと思う。クザーヌスの数学的神秘主義も似たようなものだろう。
 普通にできる人の能力を1.0とする。すごくできる人なら例えば1.2、できない人なら0.8となる。通常一人の人に与えられる仕事量も1.0になるが、仕事量が1.5の時は、二人で共同作業するしかない。二人でやれば、単純に足算をすれば、能力は2.0なので十分に対応できる。できない人が二人でも、0.8+0.8=1.6なので、対応できそうに見える。ところが、現実にはそうではない。実際に発揮される能力は、1.0以下の時には、前後の数値の影響を受け、掛算が介在する。そこには可逆性と不可逆性の区分があり、ほぼ対等な共同作業(チーム競技など)なら前者、時間的に流れるライン作業なら後者。前者の場合、最初のAの能力が0.8でも次のBの影響を受けて、0.8×0.8=0.64となる。Bも同様に0.64。したがって、両者の共同作業能力は0.64+0.64=1.28となり、1.5の仕事には対応できない。後者の場合、Aは0.8のままなので、0.8+0.64=1.44になるが、これでも対応できない。ちなみに、できる人との掛け合わせだと、前者1.0+0.8=1.8、後者0.8+0.8=1.64。すごくできる人だと、前者0.96+0.8=1.76、後者はただの足算なので1.2+0.8=2.0となる(はず)。
 もっと人数を増やすと、それだけ掛算が多くなる(よって1.0以下だと効率は悪くなる)。ただし、全ての人から影響を受けるというのは考えにくい。したがって、前後に連なる人からの直接的な影響だけに留まるとする。前者も隣り合う両者から、後者も同様。これを数式化すると、三人(A・B・C)の場合、いずれの能力a・b・cも1.0以下として、前者はab+abc+abc=ab(1+2c)、後者はa+ab+abc=a(1+b(1+c))となる。四人では、前者ab+abc+abcd+abcd=ab(1+c(1+2d))、後者a+ab+abc+abcd=a(1+b(1+c(1+d))))。もっと数を増やすと、前者ab(1+c(1+d(1+2・...))))、後者a(1+b(1+c(1+d(1+...)))))となる。これがどんな数式に整理できるのか、僕には知識はないが、要は1.0以下なら確実に掛算が介入してくるということだ。そして、始めの方の影響力は、後にも間接的に掛かって来る。
  そのため、効率の悪化を防ぐには、まず、予め足らない部分を補填する必要がある。掛算される前に、例えば1.2の人は0.8の人に自分の中から0.2を加算するしかない。ただし、そのままスライド式に移行できるわけではなく、多少は目減りするので、0.3くらいは必要になるかもしれない(したがって、先に挙げた1.2+0.8=2.0の足算は単純には通用しない)。そのために、自分が1.0以下になっては、首を絞めることになるので、そうならない程度に譲渡するしかない。そして、それはあくまで事前でなければならない。後から移行しようとしても、以降に1.0以下が重なっていると、掛算された後だと、補填量が増えてしまう可能性があるからだ。そして、始めの方の影響力を回避するために、先頭には1.0以上の人を配した方が無難だろう。また、途中で効率の悪化があったとしても、そのまま作業を繋げるよりも、一度流れを断絶する措置を講じて、過失の連鎖を断つことも必要だろうから、その繋ぎ目にも1.0以上の人を配した方が無難だろう。
 しかし、ここまで書いておきながら、事はそんなに割り切れるわけではない。そもそも能力や仕事量の数値の設定も極めて恣意的で、それがある程度確定できたとしても、常に単純計算できるわけでもない。現実的には、1.0以上なら足算だけで済むように思えても、掛算の余地がないとは言えないし、1.0以下であっても、一切ブレない場合もあるだろう。補填するに当たっても、移行がすんなりと行くとは限らず、想定以上に多くの手間が掛かって、激しく目減りする場合もあるだろうし、本人の拒絶や混乱等、移行そのものが不可能な事態も起こるかもしれない。あるいは、不可逆的に思えても可逆的に反応してしまう場合、あるいはその逆も大いにあり得る。つまりは、全ては個人差であり、条件差に依るので、確定的な法則では、何も仕切れない。人は逸脱するものであり、逸脱は個性なのだ。ただし、ある程度のパターンはあると思うので、その枠組みを見据えておくのは、戦略的に必要なことだろう。それを絶対化・権威化しないためにも。