2019.2.7木(続々々)

 〇ここまで書いてみると、自分の考え方の淵源がおおよそ見えてきた。僕は自分の先天的な傾向への負い目を払拭したおかげで、後天的な影響関係もはっきりしてきたと思う。幼少期からの自分について、改めて整理してみる。舞台は主に家庭。父という起、母という承、弟という転を経て、僕という結が形成されたと言える。
 父は僕にとっては、やはり反面教師で、優しい所や尊敬すべき点もないではないが、これまで散々述べてきたように、少なくとも子供の時点においては、酔っ払って豹変する父は圧倒的な恐怖の対象だった。少しずつ大きくなるにつれ、父の発想や行動原理が基本的にワンパターンで、それが避けられることを知り、その術を覚えると、父は次第に侮蔑の対象となり、時には憎悪の対象になった。子供の時の僕は、父を決して好きではなかったし(幼い頃にはそう思うことさえ恐ろしくてできなかった)、父のようにありたくない、父になりたくないと、いつも思っていた。
 その一方で、母は僕を溺愛した。母は僕が甘えられる逃げ場だった。しかし、それは絶対的なものではなかった。というのも、母を僕をしばしば突き放すような態度を取り、僕を度々不安に陥れたからだ。母は幼い頃に両親を亡くし、見ず知らずの家に里子に出されて、苦労して育った人間で、おそらくはそのために、内面にかなり複雑な思いを抱えていて、人間関係の取り方が時折、妙にひっくり返ることがある。例えば、おそらく血が繋がっていないという負い目を感じているために、親類縁者の義理立てや体面に異様に執着する一方で、断つべきではない人間関係を平然と断ったりもする。父と結婚したのは、養父母の言いなりになっただけで(その前に断念した恋愛があったそうだが)、さほどの思い入れなどなく、家長としての務めを果たさない父のことを愚痴り、騙されたとぼやきつつも、結局は全ての後始末をして救済・免除してしまう。僕は当時、母と唯一血の繋がった人間だったから、基本的には愛情を注がれたわけだが、僕が言うことを聞かないと、しばしば「おまえは本当は捨て子だった」「橋の下からゴミだらけで穢かったのを綺麗にして拾ってやった」「また橋の下に捨てるぞ」と言って脅した。そして、僕が大声で泣き出すと、「今のは噓だ」と言って、僕を宥めすかした。おそらくは母は自分への愛情を確かめるために、自分が経験した嫌な思いを無意識に踏襲しただけなのだろうが、当時の僕は自分が捨て子でまた捨てられると大真面目に考えていたものだ(それを否定するために、母に何度も臍の緒を見せられたが、素直に信じたりはできなかった)。ちなみに、僕は新見南吉の「手袋を買いに」という童話が大好きなのだが、子狐をわざわざ危険に曝すような母狐の行動がおかしいという批判があって、全くその通りだと思う一方で、母親とはそういう理不尽な存在だと、妙に共感してしまう。また、孤児意識が濃厚な成瀬の「秋立ちぬ」にも、深く魅入られてしまう所以だ。
 そういう風に父(や母)に微妙な感情を抱いていた僕は、他者に怯え、過度の社会不安障害に苛まれていた。あらゆる外部のものが怖くて、人見知りで、引っ込み思案で、あがり症で、そしてひどい泣虫だった。また、好き嫌いが甚だしく、とりわけ偏食が激しくて、苦手なものを嫌がって、一切口にしなかった(できなかった)。服や手にする物なども、ひどく選り好みした。幼稚園にも行くのも好きではなかった。僕は基本的に弱虫だったから、悪いことを一切しない温和しい「いい子」だったが、酔った父からは八つ当たりされてメソメソすると泣虫だと怒鳴られ、母からは好き嫌いの激しさを責められた(そして捨てると脅された)。もっとも、母に関して言えば、僕は三歳の頃、難病を患い、完治するまでは病弱で、長く入院したりもしていたから、そういう焦りや心配も大いにあったに違いない。しかし、当時の僕にとっては、これらはどうしようもないことだったから(今からすると、泣虫のみならず、過度の偏向性も、自分のアスペ的性質の他に、置かれた環境下でのストレスが一因ではないのかと思わないでもない)、僕はこの世がいやでいやでたまらかった。幼少時のことを考えても、楽しい記憶をあまり思い出せない(母の養父母と家族で油壷マリンパークに行ったことくらいか)。
 そんな僕が母に向かっていつも言っていたことがある。何かにつけて「お兄さんが欲しい」とゴネていたのだ。あまりにそう言うので、母も業を煮やしていたことだろう。そして、おそらく小学校に入る前後の頃だと思うが、こう口にした、「実はお兄さんがいたのだが、おまえが生まれる一年前に流産してしまった」と。それを聞いて、僕は悲しいよりは嬉しくなって、生まれなかった兄に思いを馳せた(姉の可能性は考えなかった)。ところが、ある時、兄の名前をせがんで、愕然とした。それは僕の名前だったから。僕は兄に付けられるはずの名前を付けられていた。つまり、僕は兄の身代わりとして生まれた。そして、もし兄が生まれていれば、僕は僕の名前ではないし、僕は僕ではなく、そもそもこの世に存在していなかったかもしれない(僕は元々有名人の名前に因んだ自分の名前が好きではなかったから、余計にそう感じた)。これは僕が物心ついてから初めて明確に感じたこの世の不条理で、僕はひどく絶望し、この世に存在するのが嫌になった。
 ところが、その後、七歳の時、大好きだった田舎の叔母さんが脳溢血で死んだ。苦しみぬいたものではないらしいが(腹上死だと聞かされたが、その時は意味がわからなかった)、顔が鬱血して紫色になったその遺体はかなり凄惨なもので、その異形を目の当たりにして(荼毘に付す前にお棺の窓を開けたら、田舎の山道に揺られた所為か、顔の下半分が血まみれになっていて、卒倒しそうになった)、僕はそれ以後、死ぬということの恐ろしさにも怯えるようになった。そして、いつも寝る時に、母や身近な人が死ぬことを想像しては震え、また自分が、このまま死んだらどうしよう、死体になったら、紫色になったら、血まみれになったら、と煩悶した。結局はそのまま眠ってしまうのだが、目が覚めると、生きていることに少しだけ安堵し、また同じ一日が始まることに不安になった。だから、存在したくもないが、死ぬのも怖いと思って、びくびくと生きていた。その繰り返しがやがては日常になり、慣れて鈍麻していった。僕が死んで無くなれば、死への恐怖も悲しみなくなるはずだと一度だけ思ったことがある。すると今度は、僕が無くなっても、世界は存続するということが、たまらなく怖くなって、そこから何も考えられなくなった。僕がもぬけの殻になる起点はこの辺りからだろう。
 そういう中、救いとなっていたことが二つある。一つは店の常連客の中に、温和しい僕を可愛がってくれる人が何人かいて、僕をよく遊園地だの動物園だの映画館だの潮干狩りだの銭湯だのに連れ出してくれたことだ。僕は彼らに憧れのお兄さん像を重ねて、欣喜雀躍していたと思う。もちろん、父や母にもいろんな所に連れて行ってもらった思い出もあるのだが、父はひどい方向音痴で、目的地に辿り着けなかったり、すぐに帰って来れなくなったりすることがしばしばあるので(実家の長野に向かって新潟に行ったくらいの人だ)、外部に怯え、迷うことに恐怖を感じやすい僕は、あまり一緒に行きたくはなかった(僕が道を覚えていなければという緊張感を常に抱いていた)。もう一つの救いは、書物の世界だ。父も母も本を読まないし、本や活字にはまるで興味がないのだが、家内には多くの本があった。店の常連客の中に本屋さんがおり、そのつき合いの関係上、僕の教育用という名目で継続的に購われたものだ。そのため、うちには大部の子供向け学習百科事典などが揃っており、僕は小学生に上がる前から、それらを貪るように眺めたり読んだりしていた。そこから、僕はどんどんと知識や物語の世界にのめり込んで行った。それは夢想への逃避には違いないが、後々、自分のことを物語のように見つめる癖が付き、例えば不快なことがあっても、鳥瞰的に突き放して眺めてやり過ごすことができるようになった。もっとも、その影響で、元々のひどい乱視の上に、かなりの近眼になってしまい、すると、眼が悪くなったことで父からも母からも責められるようになった。その後もずっと定期的に家には学習雑誌などが届いたが(同じ理由で、店には新聞も最大で五紙も配達された)、読書は叱責の対象や口実となるので、とても表立って読めるものではなかった。読書や学問はまさに悪徳だった。
 ちなみに、学校ではどうだったのかと言うと、僕は引っ込み思案で弱々しい子供で、いつも一人で行動し、友達はほとんどいなかった。例外的に親しくしていたのは、同じように孤立していた子か、僕の本好きに興味を示した子くらいだった。通常そういう気弱で「女々しい」浮いた子供はいじめの対象になりやすいと思うが、僕はあまりそうはならなかった(多少はあるが)。その理由は大きく三つある。一つは、僕は泣虫で軟弱だったとは言いながら、比較的体は大きく、いじめの口実になりそうな身体的なハンディを持っていなかったこと。もう一つは、父からの攻撃を逃げることを学んでいた所為か、いじめに遭遇するのを避けるように意識的に行動していたこと(だから、当時の僕は、いじめられっ子がわざわざいじめの口実を与えるような余計な振舞をするのが解せなかった)。そして、これが一番重要だと後で気付いたのだが、僕が焼肉屋の倅だったことだ。それは一つには、大衆食堂の中でも焼肉屋は多少高級と目されていて、素朴に羨ましがられていたということもある(ただし、蔑まれる要素もあるが)。だが、それ以上に決定的なのは、店を契機とした地域社会のネットワークに入っていたということだ。
 僕の当時の認識では、いじめに関して、こう考えていた。学校に通う子供たちには三種類の人間がいる。ワル、普通の子、そこからはみ出る子。ワルは皆が守っている規範に従わないことを格好いいと思って誇示している。普通の子は一見品行方正だが、周囲の目を気にして規範を守る振りをしている。そして、そこから外れて孤立しているのがいじめられっ子となる。いじめにはワルが直接手を下すものと、普通の子が間接的に嫌がらせするものと二種類あり、前者は個別的・短期的で、後者は集団的・長期的でより陰湿だ。そして、前者が引き金となって後者に移行するということが多い。だから、まずはワルに目を付けられなければいい。また、普通の子の中でも、要になるようなあざとい子がいるので、彼らに嫌われなければいい。そして、これは僕の偏見かもしれないが、ワルとなった子は大体職人や現場仕事の人の子供で、普通の子は圧倒的に勤め人の子供が多い。ところで、うちの店の客層は概して現場の人で(もちろん、近所の勤め人もいるが)、そのワルたちの多くはうちの店の常連さんの子供であり、僕は幼い頃から彼らと顔馴染みで、過去に遊んだこともあった。だから、仲良しではなくとも、親とも本人とも顔見知りだし、親に通報される可能性がすぐに想定できるから、僕には手を出さなかった。つまり、僕は自分の生まれた店の地縁によって守られていたわけだ。ちなみに、僕は逆に、そういう地縁のない「普通の子」たちによる嫌がらせには時折遭遇したが、そんな時にはむしろ、そのワルたちが僕を庇ってくれることさえあった。僕がいわゆる「普通の人」に距離を置き、近しかったいじめられっ子たちと同様に(あるいはそれ以上に)、悪人的な人物に親しみを覚えるのも、こういう積み重ねが背後にあると思う。
 さて、話を家庭内に戻す。そして、九歳の時に、弟が生まれた。生まれる直前まで胎児はずっと逆子で、母と子のどちらかが死ぬと聞かされていたので(僕の母はやはりこうした余計なことを言う)、僕は赤ちゃんが死んでほしいと願っていた。弟が生まれた時はひどい難産で、予定日よりも三週間も早く出て来たため、父は飲食組合の旅行中で不在で、母は陣痛が起こると自分でタクシーに乗り、産婦人科へと向かった。僕は少し離れた親戚の家にしばらく泊めてもらった。そして、母は男児を無事出産。僕は生まれた弟と対面したわけだが、母が死ななかったことには安堵したものの、可愛いものを愛でる気持ちはこれっぽっちもなかったので、別に嬉しくとも何ともなかった。むしろ、兄が欲しい僕に弟ができるなんて、やはりこの世は理不尽で嫌だとの思いを強くしただけだった。
 しかし、弟ができて兄になってしまった以上、これはどうしようもないとも思った。そして、父がだらしないからには、僕が父の代わりに弟に接しなければいけない。僕がこれまで欲しいと願っていた兄に、僕はならなければと思った。もっとも、これは義務感からというのとは違う。僕は元々絶望的に、死んだように生きて来たから、ただ仕方がないからというだけのあきらめの延長だった。また、僕は一方で、冷めているとは言いながら、日々の生活の中で自分の抱えている不安障害を克服しようとも意識していたから、ちゃんと兄になれば、この不安から逃れられるとの算段もあったと思う。だから、ある時、はっきりと腹をくくって、自分は兄になると決めた。ただし、父ではない。自分の夢想する兄として。そして現に、それ以降は、僕はぴたりと泣くのを止めた。親戚からも、お兄さんになって、まるで人が変わったようだと言われた。母も僕の「成長」を大いに歓迎していたと思う。いや、むしろ、母はどうしようもない父の代理として僕を活用して「背伸び」させ続け、その結果、僕の方でもすっかり冷めた「ませガキ」となり、やがて同世代の子らの行いを子供じみたことだと軽蔑するような子供になった(内心で嫉妬しながら)。当時の同級生からすれば、僕はとても鼻持ちならない奴だったに違いない。そして、それは絶望と理知への捻じ込みと自分への救済願望(と多少の環境適応)によるものであり、少しも愛情や道徳心があったからではなかった。
 だから、僕は弟に対しては、基本的に可愛いと思って接して来なかった。父のように気まぐれで横暴ではなかったのは間違いないが、ある意味では冷たく理性的で厳格な兄だった。僕には弟を世話したし育てたという自覚がある(例えば、これは大分後のことだが、弟が小学生の時、高校生の僕は、弟の担任の先生に保護者格として長文の要望書を提出したこともある)。ただし、以前にも書いたように、そういう行為は父の勝手な振舞によって、しばしば横槍を入れられ、僕の思いは台無しになったが、今から思えば、正義や教育の名の下で児童虐待するのを、結果的に阻止していたのかもしれない(店の接客の一環として、幼い弟に熱いお茶を運ばせて、大火傷をさせたこともある)。いずれにしても、僕は弟のためよりは自分の都合のために、自分の欲望をひっくり返し、捻じ伏せてやり過ごして来たのだ。
 こうして考えると、僕が自分のことをパターナリストと称し、そのような振舞をするのも、子供の時にやっていたことの反復だということがわかる。人は何と過去に縛られていることだろう。あるいは、何と周囲の人々からの影響を受けていたことだろう。そして、僕も、例えば弟に何某かの影響を与えているに違いない。僕と弟の間には父に対する思いがかなり違う。弟は子供の時から父と喧嘩ばかりしていたが、憎悪はしていないと感じる。弟は普通に可愛いものに目がない(そう言えば、捨て猫を拾って来て、母にこっぴどく怒られ、泣き喚いたこともあったが、「そんな汚いのは元の場所に返して来い」との母の言葉に、僕の方も胸が締め付けられたものだ)。それはやはり、僕が父との間に入り込んでいたためだろう。
 それからいろいろなことを経験したわけだが、長い年月をかけて、それらが相対化されて、僕自身が可愛いものを愛でるようになったのは、これまで封印してきた過去を取り戻そうとする願望なのだろうと思う。僕は率直に、子供らしい子供ではなかった。特に十歳以降は、僕は大人めいた振舞を余儀なくされて、子供らしいことは自分からも何もできなかった。する気もないと思っていた。それが今、解き放たれて、可愛いものが嫌いでなくなった時、それは実は可愛いものを愛でているのではなくて、自分が子供と一体になって共感し、一緒になって遊んでいるのだ(葬式での父のように)。そして、昔の願望を取り戻して、自分の夢を吐き出している。六十年目の春の如し。だから、子供になり直した僕は、今さら縛られるのは、とんでもなく嫌なのだ。その一方、昔取った杵柄で、パターナリストの兄にも簡単になってしまう。ただし、父ではない。しかし、本当はここからも解放されたがっている。これは大いなる矛盾。しかも、変え難い矛盾。
 しかし、もしこの父と母から生まれていなければ、そして弟が生まれていなければ(あるいは、近親者の悲痛な死に直面したり、焼肉屋に生まれていなければ)、僕の性格も発想も性向も、かなり別のものになっていたことだろう。そう考えると、過去とはかけがえのないものだ。恨みも憎悪も血肉。理不尽も血肉。突き放しも社会不安障害もまた血肉。この分裂も血肉だ。否定できるものは何もない。もちろん、多少違って別のものになったとしても、それもまた自分なのだから、似たようなことだろうが。むしろ、違う自分があった可能性について考えてみるのも面白いだろう。今の自分に縛られないためにも。
 それにしても、亡くなった父に、もっと父の過去のことを訊いておきたかったとつくづく感じる。もちろん、母と違って、それらを聞き出そうとした試みはことごとく挫折したのだが、それでも、もっと聞き出せればよかったと思う。

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 最後に一言。こうして縷々述べてきたが、やはり書いておかなければいけないのは、僕は常にストレスを感じ、この世に絶望して生きて来たからと言って、それはあくまで内面上の話でしかないということだ。つまり、精神的にはかなりの負荷だったと思うが、肉体的・物理的には何の問題もない。衣食住は十分に満たされている。実際に家から追い出されて、雨風に晒されているわけでもないし、食事を抜かされて飢えているわけでもない。身体へのひどい懲罰や虐待を受けて負傷しているわけでもない。疎外感はあるとしても、父は僕が何をしようと無関心で、その意味では僕は人並み以上に自由だったし、母が僕を突き放すのも愛情の歪んだ裏返しで、全面的に人格否定されているわけではない。書物へのアクセスも可能だった。そして外的には、店の地縁に守られていた。だから、当時の僕にしてみれば、ひどい環境に置かれていたとしか回想できないのだが、一般的に見れば、裕福ではないにせよ、そこそこ恵まれていたと言えるだろう。むしろ、そのように物質的に不自由なく生活していたからこそ、僕は精神的にグダグダと悩むことができた。言わば、贅沢な悩み。捨てられないからこその孤児意識だ。焼肉屋という特権的な安全圏。だから、僕は両親と徹底的に対立・抗戦することもなかったし(多少はあるが)、結局は家を出て行くこともしなかった(その前に店は父が潰してしまった)。自分が外に出て行くことなど考えなかった。自分が兄になろうと決意したのも、そういう基盤があったからのことだ。家庭はてんで崩壊していない。つまり、僕はある種の余沢の中で踊っていただけ。これが僕の保守性なのだろう(まさに母親譲りの)。そして、これは現時点でも言えることで、僕が何か新しいことを始めていれば、昔の内面などにかまける暇などないはずだ。大抵の人はそうやって生きているのだろう。僕はまだ外部に出るのが怖いのかもしれない。