2019.2.7木(続々々々々々)

 〇「夜明け」の感想から、使えない人をめぐって、話がどんどん脱線してしまったが、この日はそれ以外にもたくさんの映画を観ていた。この後、新文芸坐ベルイマンの二本立て、イメージフォーラムでキッドラット・タヒミック、シネマヴェーラで松竹ヌーベルヴァーグ二本立てと、なかなかハードな映画三昧の一日だった。
 新文芸坐では三日ほど通って、ずっとベルイマンを観ていた。観たのは「鏡の中にいる如く」「第七の封印」「魔術師」「沈黙」「仮面/ペルソナ」の五本。「冬の光」も観る予定だったが、仕事が長引いて上映時間に間に合わず、観損ねた。それだけは心残りだが、改めて総括しておく。
 個々の感想を言うと、思っていた以上に面白く鑑賞できた。特に魅かれたのは「第七の封印」と「仮面/ペルソナ」で、前者は前に観たことがあり、それほど面白いと思わなかった記憶があるが、今回は違った。絶対的な力によって押し流されていく人間の悲愴とわずかな希望を描いて、とてもスリリングだった。僕は前にはホラー映画のつもりでこの作品を観てつまらないと思った気がするが、本格ホラーだったなと自分の不明を恥じる。初見の「仮面」は実はよくわからなかったが、自己と他者の境界すら覚束ない人間の不完全性を垣間見せて、もう一度観たいと思わせる作品だった。
 ただ全体的な感想を言うと、それほどすごいとは思わなかった。例によって神の不在を嘆く発想が随所に出て来て、やはりうんざりする。それをまさにテーマにした「鏡」「沈黙」も全くつまらない。大風呂敷を広げておいて、たったこれだけの話なの? (神の)救いがどうしても欲しいの? 以前にベルイマンについて書き連ねた文章を少しも訂正する気にならなかった。確かに見応えがある部分はあるけれど、そんなに大した作家じゃないじゃん。ベルイマンは現在グレタ・ガルボともどもスウェーデン紙幣の肖像になっているそうだが、ガルボはともかく、どうしてそんなに尊敬されているのか、僕にはわからない。
 ここで思い出すのは三島由紀夫で、ベルイマンを観るのは三島を読んだ時の印象とすごくよく似ている。僕は三島の少しも熱心な読者ではないが、たまには三島の本も読む。しかし、大体はあまり面白いと思わないし、三島のどこが大作家なのかわからない。川端康成大江健三郎は確かにノーベル賞級の作家だと感服するが、三島がノーベル賞の候補になったこと自体が信じられない(ついでに言えば、安部公房もそんなに大作家だと思わないが、少なくとも「砂の女」は大傑作なので、これだけでもノーベル賞に値するくらいは思う)。
 僕は文体に溺れてしまう口の人間だが、三島の文体は機械的に切り貼りしたような感じがして、何だか好きになれない。内容についても、少しも情が通っていない箱庭を見せられているような感じがして、だからどうしたの、何でそんなもの作ったのと言いたくなってしまう(いっそ完全に無機質なら感心するかもしれないのに)。それに、一番閉口するのがいわゆる「死の美学」で、美しいのは死ぬべき・殺されるべきだ、殺されるからこそ美しいのだという妄念がやたらと繰り返されて、すごくうんざりする。そんなに死ぬ死ぬ言っているなら、死ねばいいじゃんと口を滑らせそうになるが、彼は本当にそれを実践してしまったのだから、目も当てられない。すると今度は、死んだらいいってもんじゃないだろうと減らず口を叩きたくなる。これは死(に魅了されること)の恐怖というよりは、人間が個として存在していることの断絶感を改めて見せつけられることのやっかみかもしれないが、だからと言って、無理矢理に知行合一の辻褄合わせをするのは感心しない。知の中身がやはり問題で、その点を留保するために、僕は断然、矛盾肯定派になってしまう(だから、「映画 立候補」のマック赤坂に感動しては駄目だと思う)。
 もっとも、三島に関してはすごいと思う所もある。一番そう感じるのは文芸評論で、その怜悧な分析には流石に脱帽する。自分が太宰治が嫌いなのは近親憎悪だとあっけらかんと言うのも含めて、その鑑識眼には教えられることが多い(僕が三島の距離を置きたくなるのも、近親憎悪なのかもしれない)。また、先日フィルムセンターの根岸吉太郎特集で、三島原作の「近代能楽集」そのままの映像化作品を観て、その面白さに魅了された。よく考えると、内容はないような気もするが、まさに劇的な、緊張感あふれる構成と展開には舌を巻いた。劇作家としてはすごい才能なのではないかと見直した。
 ただし、主要な仕事であるはずの小説はいうと、やはりあまり感銘は受けない。昔「真夏の死」を読んで、微妙な心理を浮かび上がらせる構成に感心した覚えがあるが、その後で河野多恵子の「雪」を読んだら、同じようなテーマをもっと深く扱っていて、ぐんと評価が下がってしまった。戦後のゲイ風俗を取り上げた「禁色」にしても、個々の描写は鋭くて興味深いし、とても面白いのだが、最後の最後になって、いつもの死の美学に畳み込まれてしまい、すっかり幻滅させられる。いつも中途半端な印象を受けてしまう。三島はとても好い人だったようで、会った人は誰でも好きになってしまう人たらしだったらしいが、そんな気のいい人柄にみんな惑わされているのでないか。
 三島もベルイマンも、本人が大事だと思っているオブセッションは実は大したことなくて、何度も使いまわすようなテーマではないと感じるが、それ以外の所では、見るべき点もあると思う。だから、これからも作品に触れていくことになるだろうが、好きになれるかどうかはわからない。ベルイマンのどの作品だったか忘れたが、「この世の願いはかなうが、あの世の願いはかなわない」という台詞があって、一瞬おおっと感心しそうになったが、すぐにこの言葉は逆ではないかと思い直した。これこそベルイマン節だ。僕とはやはり物の見方が合わないのだと感じた。
 ところで、生誕百年を記念して作られたと思しき字幕だが、漢字の変換ミスが時々出て来るのには呆れてしまった(進退とか自身とか)。その場ですぐに意味が掴めないので、困ってしまう。ヘミングウェーという表記も一般的ではない気がする。そう言えば、ベルイマン自身の表記も、いろいろと揺れていたのに、結局はこれに落ち着いてしまったのか。スウェーデン語の一般的な日本語表記に則って、ストリンドベリとするなら、ベリマンにならなければおかしい。ロナルド・リーガンがレーガンとなったのも、韓国人名が日本語読みではなくなったのも、政府からの公式な要請があったからだが、そうでない限りは、昔の権威が踏襲されることになるのか。ギョエテ、ワグネル、ベルイマン。かつてはこの表記を変えようとする動きもちゃんとあったように記憶するが。