2019.2.17月

 〇一仕事終えてから、写真美術館の恵比寿映像祭に赴く。この催しに来るのは二度目だが、前回は駆け足で映像ホールに入っただけだったので、今回はじっくりと見歩く。ルイーズ・ボツカイ「エフアネへの映画」とカロリナ・ブレグワ「広場」をきちんと観る。「広場」は劇映画だが、細切れにされているループ映像を順繰りに観るという趣向で、単純にどこからでも見れるようにするだけではなく、途中所々で隣りの映像と音響が混交し、不意にシンクロしたりすることがあり、それには流石に吃驚して唸った。
 そして、映像ホールにて、牧野貴「Memento Stella」(2018)を鑑賞。素晴らしかった。彼の作品はこれまでにも、ほんの数作だけ観たことはあるが、あまり印象に残っていない。いずれも具象を抽象に加工したもので、ブラウン管の砂嵐みたいだなという程度の認識しかなかった。もっとも、僕は砂嵐は嫌いではなく、そういうものも面白がってずっと見入ってしまう口なので、一つの抽象作品としてよかったと感じていたのだ。しかし、今回この大画面で高画質の作品に触れて、僕の理解は全く表面的で、牧野作品の中核を何もわかっていないことを思い知った。
 彼が描いているのは、抽象ではなく、具象と抽象のあわいだ。一見したところ抽象のようだが、時々何かの現物に見える瞬間がある。観客はそれに気付いて、自分の想像力で思わず補完しようとする。しかし、具体的にはよくわからず、確信が持てないまま、移ろい行き変容する画面に宙吊りにされ、はぐらかされる。とは言え、あまりもどかしさを感じることはない。なぜなら、一方的にバンバン画面が切り替わるわけではなく、観客が推測したり発見したり納得したり断念したりできるような間や流れを、丹念に与えてくれるからだ。つまり、観客を放置していると同時に、寄り添っている。観客の想像力を突き放しつつ信頼している。これはめくるめく美や驚異を一方的に見せつけようとする凡百の実験映画とは、一線を画すものだ。そして、この冷たい優しさは旧作にも貫かれていた筈で、僕の眼はなんと節穴だったことか。これで彼があくまで具象を抽象にする手法も得心できたし、彼が世界的に評価される一端も理解できた気がした。旧作も、もう一度じっくり観なければ。
 僕は彼の作品自体はそれほど観ていないが、彼がよく主催していた上映会には何度か観に行っている。そこですごく印象に残っているのは、牧野の歯に衣着せぬ言い方で、ある時は外国の実験映画祭の主宰者に選定を依頼した作品を一通り上映した後で「海外での上映を意識してか、いかにも実験映画らしい抽象作品を集めてくれたみたいだが、これだけ似たような作品ばかりが続くと、流石に飽きますよね」とケロッと言って、同意見の僕はすっかり感心してしまった。その他、若き日の昔話として、日本のいわゆる実験映画業界の悪口を散々述べていたのも面白かった。一般的に言って、強力な個性によって小さくまとまっている組織や団体は、開放的だと謳っておきながら、えてして権威主義的で風通しが悪くなりがちだとの印象は受けるので、さもありなんと思ってしまった。
 もっとも、彼の毒舌にいちいち共感・賛同するわけでもない。例えば、彼はある時「自分はアニメはただの技法としか思わないので、アニメだけを取り上げることに意味はない。アニメ映画祭なんて、クローズアップ映画祭のように馬鹿馬鹿しい」と発言していたが、少しも賛成しない。むしろ、クローズアップ映画祭なんて、すごくいいじゃないかと感じ入ってしまった(似たような思いつきは前にも書いた)。映画によって人間の顔は風景として発見され、乱歩の言う「顔面芸術」として花開いた。その系譜を辿るなんて、なかなか面白そうじゃないか(先日のイメフォフェスで観た佐川一政の親族についてのドキュメンタリー映画の異様なクローズアップも忘れ難い)。もっとも、彼は人間の顔のことを言っているのではないかもしれないけれど。
 僕は基本的に、不平不満に限らず、言いたいことは吐き出した方がいいと思っているので、牧野さんのような人には、どんどん舌鋒鋭い発言をしてほしいと期待する。かく言う僕も予防線を張りがちな人間とは言いながら、最近は予防線を張ること自体が目的化しているような苦々しい対応ばかりが増えているとも感じるので、大した実害がない限りは、いろんなことを表面化して、波風が立った方がいいと思う。
 上映後のトークで、本人が登壇し、「コラージュを通じて、自分の限界や制約を超えることができる」云々と言っていた。なるほどその通りで、コラージュも侮れないと再認識させられた。

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 〇ちなみに、業界なるものの風通しの悪さという論点は、過去の話では済まない気もする。例えば恵比寿と実験映像の絡みで言えば、金坂健二の取り扱いについて言及したくなる。
 金坂と言えば、ウォーホルのファクトリーに出入りしていた唯一の日本人として知られ、六〇年代から華々しく多くの文化/映画批評を行なっていた。ところが、ある時期から馴染みだったメディアから忽然と姿を消す。その経緯は今となっては写真美術館の紀要に掲載の遠藤みゆきの評伝に詳しいが、「フィルム・アート・フェスティバル造反事件」の扇動者として糾弾され、主たる実験映画業界筋から放逐されたのだ。そして、それ以降、写真家としての地味な活動と、キネ旬(これはメジャーだが)での映画評、ウォーホル絡みで言及される以外にはあまり露出することもなく、ひっそりと亡くなってしまう。
 しかし近年、若干の個展が開かれた他、彼の遺族が写真や映像作品を写美に寄贈したのを契機に、その全貌が少しづつ垣間見えるようになった(先の評伝もそれを受けて書かれたもの)。写美でも所蔵する作品の展示がなされるようになり、僕もそれらが出品されると聞きつけて、その展覧会を覗いてみた。ところがその際、図録の見本を手に取ってみて愕然とした。金坂についての記載が一切ないのだ。たまらず受付や案内の人に、なぜ展覧会の公式図録に一人だけ出品作家の情報が抜けているのかと訊ねてみたものの、わかりませんとだけ言われた(学芸員ではないらしい)。それ以上の問い合わせはしなかったが、遺族かそれ以外の人が掲載拒否でもしたのだろうか。金坂は今も干されているのか。
 展示して黙殺するとは、公共施設のなんと微妙な政治性だろう。

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 〇その後、シネマート新宿へ移動して、フランシス・リー「ゴッズ・オウン・カントリー」(2017)を鑑賞。昨年のレインボウ・リールで上映されて話題となった作品。スパイラルで別の作品の前売りを買った際に、この作品だけは売り切れですと言われた覚えがある。そのことも念頭にあってか、その後自主上映のような形で数回上映されると聞き、行く予定を立てたものの、満席で入れなかった。そして今回、日本での配給が決まり、ようやく観ることができた。
 ところが、別段面白いとは思わなかった。これはバリー・ジェンキンス「ムーンライト」と一緒で、設定こそ珍しいが、筋立てとしてはありふれた自己肯定譚で、少しも大した話ではない。差別や抑圧を乗り越える話としても陳腐でつまらない。これまでほとんど扱われてこなかった人々や舞台を取り上げたことは意義深いし、奇を衒わないのも好感が持てるものの、高みの地点から、勝手に葛藤して勝手に解決するというだけだ。どうしてこんなに絶賛されるのだろうか。
 最近一番ヒットしたゲイ映画と言えば、ルカ・グァダニーノ「君の名前で僕を読んで」だが、これもそんなに大した作品ではないと思う。観応えのあるシーンは目白押しだが、一言で言ってしまえば、脚本で参加する巨匠ジェームズ・アイヴォリー年寄りの冷や水で、何を今さら同性愛を、男同士の友情を美的に讃えようとする文脈で肯定しようとするのかと笑ってしまう。もっとも、その頭の硬さは大昔のゲイ映画とも通底するし、過去を考える上では参考にならないわけでもないが、これを美しいと言って絶賛するのは、二重に抑圧された一昔前のやおい女子のノスタルジーみたいなものだと思う。
 近年観たゲイ映画の中で一番面白いと思ったのは、ロバン・カンピヨイースタン・ボーイズ」で、これは「BPM」の監督の前作だが、テーマが少しもセクシュアリティアイデンティティとならないのに驚嘆した。
 ゲイ映画にありがちなのは、抑圧された状況下で自分の性を見つめ、自己肯定するというアイデンティティ獲得の物語で、アルモドバルみたいにその手前で屈折する変化球もあるものの、多くはその範疇にある。グザヴィエ・ドランジョアン・ペドロ・ロドリゲスみたいに、そこを起点にしながら周囲に広がっていく話、あるいはギロディみたいに、その押し付けがましさに反発して攪乱しようとする話も、その延長上にあるだろう。いずれにしても、個人の映画だ(もちろん、個人的なことは政治的なことだが)。
 ところが、この作品に登場する東部ウクライナの少年はゲイであるかどうかまるでわからないし、それを問おうともしていない(流石にパックスの国の作品だ)。監督の関心は不法移民や難民であって、一見アイデンティティと関わりそうなのに、これを軽々と躱して、個人の内面の問題に回収したり振り回されることなく、直接社会性に向き合おうとしている。そして、高みの位置にあるわけでもない。この点、ファスビンダーの「自由の代償」を思い起こさせる。ファスビンダー作品は全然同性愛をテーマにしない同性愛映画、アイデンティティには目もくれないゲイ映画で、この構えのなさは実に驚異的で、今後ますます評価されることと思うが、「イースタン」は、「代償」ほど性やアイデンティティに冷淡ではない。ただ、問うていないだけだ。その一方で、次の「BPM」は、エイズ・アクティヴィストの行動と心情に真っ正面から向き合って揺るぎがない。この二作を同時に作れる幅の広さには敬服する。
 僕はゲイあるいはLGBT映画と言えども、もっと変わり種の作品が観たい。そして、個人性を突き崩すような作品を観たい。個人の心情に共感するかしないかだけでは駄目だと思う。また、美しさに溺れるだけでもいけないと思う。個人性や美しさの成立する基盤自体も問われなければ。「ムーンライト」や「ゴッズ」は設定だけは珍しく見えるが、普通の私的なゲイ映画でしかない。そもそも当人にとってはそれが普通であり日常なのだから、そんなことは当たり前のことだ。もちろん、日常はそれだけで重要なものだし、そうした作品が一つや二つは確実になければいけないが、それを珍しいとか美しいとかと言って褒めるのは、本当はお門違いだ。珍しいとか美しいと言うなら、それよりもっと異彩を放つ変てこな作品を目の当たりにしたい。

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 〇ついでに、金坂絡みで思い出したことを少々。
 金坂と言えば、日本で初めてキャンプの概念を紹介した人だ。僕はかつて知り合いに頼まれて、ソンタグのキャンプ論を批判したD・A・ミラーの論文を邦訳した折り、日本でキャンプの概念がどう受容されたかを調べたことがある。現在、参照できるものが手許にないので、うろ覚えでしか書けないが、その時思ったことをまとめておく。
 まずはミラーの論。キャンプはゲイ文化に由来する。ソンタグはキャンプという価値観を世界に知らしめたが、彼女はキャンプという概念を脱性化・脱同性愛化したとミラーは批判する。キャンプは確かに、エスター・ニュートンがドラッグ・クイーンの研究書「マザー・キャンプ」で考察したように、ゲイ文化とは切り離せない(普通あの人はキャンプと言えば、ホモだという意味になる)。なのに、ソンタグは定義できないとしつつ、次々とキャンプの事例を挙げて、例えばガウディや日本の怪獣映画までもキャンプに含めてしまう。ここまで拡張すると、キッチュと大して変わらない。彼女は病から隠喩を排除したように、エイズから同性愛の汚名を駆除し、そしてキャンプからもゲイネスを小綺麗に昇華して排除した。これがソンタグのお上品さだとミラーは揶揄する。もっとも、ソンタグは、だからと言って、自分のサブカル的な出自について隠しているわけでもないし、特に晩年は女性の写真家と暮らしていたことも知られているから、少々言い過ぎの感がしないでもない。ちなみに、ここら辺の議論は、誰かが「ユリイカ」か何かに書いているのを読んだ記憶があり、そこでは、ミラーがソンタグを批判するのはゲイ的なマッチョ志向の故だと批判する誰かの論文も紹介されていた。
 ソンタグのキャンプ論が邦訳されたのは「パイデイア」の筈だが、金坂はそれよりずっと以前に、日本で初めて紹介し、その概念を使って多くの文化批評を行なっていた。ただし、面白いのは、彼はソンタグが脱性化したそれを、努めて同性愛と結び付けて語ろうとしていることだ。これは一見ソンタグとは逆のようだが、印象は似通っている。というのも、彼がこれ見よがしに同性愛に触れると、元のそれが無関係なもののように思えるのだ。これは当時の時代状況でもあるだろうが、当時同性愛は時代の最先端の「記号」であり、それとなく仄めかして、煙に巻くものであり、そもそも脱性化されていたのだ(岡部道男の「貴夜夢富」にしても同様)。とは言いつつ、脱同性愛化されているわけではないから、外部からすれば、ゲイ・フレンドリーにも見えるだろう。ところが、金坂はキャンプが流行ると、それは時代遅れだと言わんばかりに否定的に語り出す。そして、それを捨ててしまう。結局、ソンタグの邦訳が出た頃には、キャンプは消費され尽くし、日本ではそのゲイネスは二重に否定されることになる。
 キャンプが再び世に出たのは九〇年代になってからだ。それ以前のキャンプ論とは完全に断絶している。それはゲイ・リブ、そしてゲイ・ブームの時代であり、とりわけ伏見さんと小倉さんがそれをまさに的確に広めようとしていた。伏見さんは「キャンピィ」、小倉さんは「キャムプ」と言う言葉を使っていたと思う。それはおしゃれ路線と言うべきもので、ブームに便乗しつつ、ゲイ及びドラッグ・クイーンを肯定的に語ろうとする試みだった。しかし、それはおしゃれである限り、結局は上滑りのままであり、知っても知らなくてもいい教養として、消費されただけという印象を受ける(それでも意義深いが)。これは侮蔑用語だったものを、文脈抜きに「クィア」なんてさらっと表記して見せるのと同様、ミラーが批判して止まないお上品さの典型だと感じる(ちなみに、昨今はドラッグ・クイーンと書くと不適切と言われるらしいが、そんな規範を主張するなんて、まったくドラッグじゃないと思う)。
 では、キャンプをどう語るのか。キャンプと言って、おしゃれに語っては、少しもキャンプではないと思う。日本語にどぎつく訳した方がいい。小綺麗なままでは、その凄味が伝わらないと思う。キャンプはドラッグ・クイーンの専売特許かと言うと、そんなことはない。レザー系のハードゲイだって、普通っぽいダサいゲイだって、キャンプでいい。なぜなら、キャンプは、そもそもホモの隠語だからだ。だから、それを包摂できるような表現はないものかと考えてみた。日本の文脈でいちばん近そうなのは、例えば小指を立ててホモを差したり、手の甲を頬に充てて「あっちの人」と言ったりするニュアンス、そしてそれを故意に肯定して見せる反転攻勢、これこそがキャンプだろう。そこで、キャンプを差し当たって「そちら系」とか「あっちっぽい」などと訳してみた。これは同性愛という観点では今では廃れて通用しない表現だろうが、当時そのように訳してみると、不思議と当てはまるし、ミラーのソンタグ批判も明瞭になると思った。あの人はあちらの人。母なるそっち系。あっちぽさについてのノート。ジャック・スミスはそっちっち。ラドンやガウディもそっちっぽい。ミラー論文の訳文も全面的にそう変えてみたが、あまりにやり過ぎでわかりにくいということで、元のキャンプに戻してしまったが。
 ドラッグ・クイーンの日本語訳も試みました。あばずれ小町、ばった女子、食わせ姫、かび女房、ずれあま。どれもかなり無理がある。

2019.2.11月

 〇ラウニ・モルベルイ「若き兵士たち 栄光なき戦場」(1985)@ユーロスペース。トーキョーノーザンライツフェスティバルでの一本。
 僕は北欧映画はそこそこ観ているものの、実は北欧のことはよくわかっていない。アイスランドに関しては、山室静の著作で特に文化面について教えられたが、北欧三国で知っていることと言えば、その位置と、スウェーデンが映画大国だということ、ムーミン童話がスウェーデン語で書かれたフィンランドの作品だということくらいしかない。僕の知識は北欧で十把一絡げだ(きっとデンマークも混じっていることだろう)。他に、紀伊国屋で売られているフィンランド風のライ麦パンが大好きだなのが、その特徴もよくわかっていない。欧米の一般的な人が日中韓の区別がついていないと言われるが、それと同じようについていないだろうと思う。
 今回、三時間越えのこの大作を観て、また作品解説の講演を聴いて、フィンランド近代の輪郭やフィンランド人の思いが朧気ながら見えてきた気がして、とても勉強になった。特に北欧諸国のみならず、ロシアとドイツとの微妙な関係について教えられた(このことはトム・オブ・フィンランドの伝記映画にも描かれていたはずだが、素通りしていた)。これからもっと北欧各国について知らなければいけないと思った。
 なお、チラシには記載されていないが、上映プリントは国立映画アーカイブ所蔵品とのこと。昔の北欧映画祭での上映のために日本に輸入されたものらしい。かつて映画祭で海外作品を上映しようとすると、フィルムを入手して日本語字幕を焼き付けるという工程を経なければならないので、すごい手間と時間と費用が必要だったが、現在では字幕の投影技術が発達したおかげで、デジタルにせよアナログにせよ、素材を借り受ける(あるいはコピーする)だけで済み、負担もぐっと少なくなって、上映の敷居が格段に低くなった。しかし、その結果、国内にフィルムが一切残らなくなった。もちろん、上映後に廃棄され失われた場合も多いだろうが、運よくフィルムセンターに寄贈され保存されたものも結構ある。このプリントもそうした貴重なものの一つだが、残念なことにかなり褪色が進んでいる。やはり全編をくっきりした色彩で観たかった。
 それにしても、このプリントの褪色の不揃いはかなり不自然で吃驚する。ほとんどの場面は褪色しているのだが、一部だけ鮮明になる。それも、若い兵士が半裸でじゃれあったりする、ある意味官能的な場面に限ってそうなるのだ。邪推すると、これはおそらく、そういうホモエロティックな描写に対して、何らかの検閲で削除したとか、誰かが切り取って着服してしまったとかの理由で欠落した版がまずあって、それに欠けた部分だけを、新しく焼いて継ぎ足したのではないか。だとすると、きっと日本に来た時点で継ぎ接ぎだらけだったのだろうと思う。
 ところで、モルベルイという表記は、先に話題にしたベルイマンと末尾が同じ綴りだ。そもそもこれはスウェーデン系の苗字らしい。スウェーデン語では語末のgは英語のyのように発音するとされているが、フィンランド語ではどうなのだろう。ベルイマンなる表記に引き摺られているような気もするが。

2019.2.7木(続々々々々々)

 〇「夜明け」の感想から、使えない人をめぐって、話がどんどん脱線してしまったが、この日はそれ以外にもたくさんの映画を観ていた。この後、新文芸坐ベルイマンの二本立て、イメージフォーラムでキッドラット・タヒミック、シネマヴェーラで松竹ヌーベルヴァーグ二本立てと、なかなかハードな映画三昧の一日だった。
 新文芸坐では三日ほど通って、ずっとベルイマンを観ていた。観たのは「鏡の中にいる如く」「第七の封印」「魔術師」「沈黙」「仮面/ペルソナ」の五本。「冬の光」も観る予定だったが、仕事が長引いて上映時間に間に合わず、観損ねた。それだけは心残りだが、改めて総括しておく。
 個々の感想を言うと、思っていた以上に面白く鑑賞できた。特に魅かれたのは「第七の封印」と「仮面/ペルソナ」で、前者は前に観たことがあり、それほど面白いと思わなかった記憶があるが、今回は違った。絶対的な力によって押し流されていく人間の悲愴とわずかな希望を描いて、とてもスリリングだった。僕は前にはホラー映画のつもりでこの作品を観てつまらないと思った気がするが、本格ホラーだったなと自分の不明を恥じる。初見の「仮面」は実はよくわからなかったが、自己と他者の境界すら覚束ない人間の不完全性を垣間見せて、もう一度観たいと思わせる作品だった。
 ただ全体的な感想を言うと、それほどすごいとは思わなかった。例によって神の不在を嘆く発想が随所に出て来て、やはりうんざりする。それをまさにテーマにした「鏡」「沈黙」も全くつまらない。大風呂敷を広げておいて、たったこれだけの話なの? (神の)救いがどうしても欲しいの? 以前にベルイマンについて書き連ねた文章を少しも訂正する気にならなかった。確かに見応えがある部分はあるけれど、そんなに大した作家じゃないじゃん。ベルイマンは現在グレタ・ガルボともどもスウェーデン紙幣の肖像になっているそうだが、ガルボはともかく、どうしてそんなに尊敬されているのか、僕にはわからない。
 ここで思い出すのは三島由紀夫で、ベルイマンを観るのは三島を読んだ時の印象とすごくよく似ている。僕は三島の少しも熱心な読者ではないが、たまには三島の本も読む。しかし、大体はあまり面白いと思わないし、三島のどこが大作家なのかわからない。川端康成大江健三郎は確かにノーベル賞級の作家だと感服するが、三島がノーベル賞の候補になったこと自体が信じられない(ついでに言えば、安部公房もそんなに大作家だと思わないが、少なくとも「砂の女」は大傑作なので、これだけでもノーベル賞に値するくらいは思う)。
 僕は文体に溺れてしまう口の人間だが、三島の文体は機械的に切り貼りしたような感じがして、何だか好きになれない。内容についても、少しも情が通っていない箱庭を見せられているような感じがして、だからどうしたの、何でそんなもの作ったのと言いたくなってしまう(いっそ完全に無機質なら感心するかもしれないのに)。それに、一番閉口するのがいわゆる「死の美学」で、美しいのは死ぬべき・殺されるべきだ、殺されるからこそ美しいのだという妄念がやたらと繰り返されて、すごくうんざりする。そんなに死ぬ死ぬ言っているなら、死ねばいいじゃんと口を滑らせそうになるが、彼は本当にそれを実践してしまったのだから、目も当てられない。すると今度は、死んだらいいってもんじゃないだろうと減らず口を叩きたくなる。これは死(に魅了されること)の恐怖というよりは、人間が個として存在していることの断絶感を改めて見せつけられることのやっかみかもしれないが、だからと言って、無理矢理に知行合一の辻褄合わせをするのは感心しない。知の中身がやはり問題で、その点を留保するために、僕は断然、矛盾肯定派になってしまう(だから、「映画 立候補」のマック赤坂に感動しては駄目だと思う)。
 もっとも、三島に関してはすごいと思う所もある。一番そう感じるのは文芸評論で、その怜悧な分析には流石に脱帽する。自分が太宰治が嫌いなのは近親憎悪だとあっけらかんと言うのも含めて、その鑑識眼には教えられることが多い(僕が三島の距離を置きたくなるのも、近親憎悪なのかもしれない)。また、先日フィルムセンターの根岸吉太郎特集で、三島原作の「近代能楽集」そのままの映像化作品を観て、その面白さに魅了された。よく考えると、内容はないような気もするが、まさに劇的な、緊張感あふれる構成と展開には舌を巻いた。劇作家としてはすごい才能なのではないかと見直した。
 ただし、主要な仕事であるはずの小説はいうと、やはりあまり感銘は受けない。昔「真夏の死」を読んで、微妙な心理を浮かび上がらせる構成に感心した覚えがあるが、その後で河野多恵子の「雪」を読んだら、同じようなテーマをもっと深く扱っていて、ぐんと評価が下がってしまった。戦後のゲイ風俗を取り上げた「禁色」にしても、個々の描写は鋭くて興味深いし、とても面白いのだが、最後の最後になって、いつもの死の美学に畳み込まれてしまい、すっかり幻滅させられる。いつも中途半端な印象を受けてしまう。三島はとても好い人だったようで、会った人は誰でも好きになってしまう人たらしだったらしいが、そんな気のいい人柄にみんな惑わされているのでないか。
 三島もベルイマンも、本人が大事だと思っているオブセッションは実は大したことなくて、何度も使いまわすようなテーマではないと感じるが、それ以外の所では、見るべき点もあると思う。だから、これからも作品に触れていくことになるだろうが、好きになれるかどうかはわからない。ベルイマンのどの作品だったか忘れたが、「この世の願いはかなうが、あの世の願いはかなわない」という台詞があって、一瞬おおっと感心しそうになったが、すぐにこの言葉は逆ではないかと思い直した。これこそベルイマン節だ。僕とはやはり物の見方が合わないのだと感じた。
 ところで、生誕百年を記念して作られたと思しき字幕だが、漢字の変換ミスが時々出て来るのには呆れてしまった(進退とか自身とか)。その場ですぐに意味が掴めないので、困ってしまう。ヘミングウェーという表記も一般的ではない気がする。そう言えば、ベルイマン自身の表記も、いろいろと揺れていたのに、結局はこれに落ち着いてしまったのか。スウェーデン語の一般的な日本語表記に則って、ストリンドベリとするなら、ベリマンにならなければおかしい。ロナルド・リーガンがレーガンとなったのも、韓国人名が日本語読みではなくなったのも、政府からの公式な要請があったからだが、そうでない限りは、昔の権威が踏襲されることになるのか。ギョエテ、ワグネル、ベルイマン。かつてはこの表記を変えようとする動きもちゃんとあったように記憶するが。

2019.2.7木(続々々々々)

 〇僕はこれまで直接的な愚痴の中で、あるいはそれ以外の機会でも、人の悪口を散々聞いてきた。概して日本人はそういうことをはっきり口に出さないことも多いが、条件が整えば、かなりひどいことも平気で言う。それを結構聞いてきて、いつも驚かされるのは、悪口の内容は、悪口を言っている人に一番当てはまると思えることだ。その人は他人のことを述べているつもりなのだが、傍から見ると、まさにその人自身のことを指しているようにしか聞こえない。あの人は感情的だと愚痴る人はとても感情的な振舞をするし、人によって態度を変えると人を批判する人は人によって態度を変える。すぐに逆切れすると人を非難する人はすぐに逆切れするし、人の話を聞かないと責める人は人の話を聞かない。ニヒリズムを否定する人はすごくニヒルだったりする。それはわかってやっているのか、としばしば疑問に感じてしまう。
 明らかに意図している(自覚している)場合もある。それは悪意を持って人を非難するような時だ。職場である上司がライバルを意図的に貶めようとして、相手がこういう不正をしていると告発する場面に遭遇したことがある。別に大した不正でもないのだが、それを聞いて唖然としたのは、おそらく冤罪だろうということではなく、それは告発者自身がこれまでしてきた行為だったと知っていたからだ。確かに相手もその不正をしている可能性もないわけではないが、それってむしろあなたが散々してきたことじゃないですか、と思わず突っ込みたくなってしまった。もちろん、そんなことは明るみに出す方がこじれるので、告発された方の上司を庇うだけに留めて、伏せていた。また、告発者もそのことを公にした以上、これまでのような振舞ができなくなってしまうわけだから、結果的にはいいのだとも思った。ともかく、悪意を持って人を陥れようとすると、やはり自分が馴染んでいる不正、手口をよく知り自分がしてきた不正を思いついてしまうのかと思った。
 だから、意識していない場合でも、悪口として思いつくことは、自分が普段から気に掛けていること、行動としてやりがちなことが出て来てしまうのではないか。そもそも自分が知りもしないし関心もないし習得もしてしないことは、責める動機も発想もないはずで、悪口の言いようもないのだ。それをできるという点で、まさに他人事ではあり得ないのだろう。もっとも、無意識の裡にいけないと思っていることを他人に投影しているというよりは、他者を責める際に自分の存在や習慣を身体的になぞってしまったということのように思える。大抵の悪口は人を貶めるのが第一の目的で、内容は後から取ってつけたもの、そのように再構成されたものように感じられるから。留飲を下げたい(あるいは不満を誰かと共有したい)のが先にあり、中身は二の次だ。つまり、心理学の問題であり、身体論(習慣論)の問題だ。したがって、悪口は自分にも他人にも何の批判にもなっていない。だから、そこで自分は正しい批判をしていると信じている人、あるいは差別の文脈の尻馬に乗っている人は決定的に駄目だと思うものの、そうでない限りは、悪口は言わせておくしかないだろう。その挙句に、それが自分への批判になっていることに思い当たることもあるだろうから(僕も少しはつつくこともある)。ちなみに、僕も人の悪口をよく言い、大いに毒舌を吐くが、もちろんたくさんの返り血を浴びている。だから、言葉尻だけで怒らないでほしいとも少しだけ開き直ってしまう。
 僕が生まれてこの方、社会で学んだこと。何かを排除すると、何かからしっぺ返しを食らう。他人の悪口はほとんどの場合、自分に跳ね返ってくる。世界は広く、自己は小さい。何があるのかわからない。だからこそ、人は周囲に謙虚でないといけない。そして、そうできる限りは、個人は何もしても許されるし、許していかなければいけない。何事にも寛容が肝要。それだけのことだ。

2019.2.7木(続々々々)

 〇話が随分脱線してしまったが、脱線ついでに、途中で言及した「使えない人」のもう一つの例、「人間関係が駄目な人」についても書いておくことにする。他人の心理を読み解くことが苦手なアスペルガーの人も、そういう点では大いに該当するが、ここではもう触れないでおく。
 そのような人たちとはそんなに多く接して来たわけではないし、多少昔の話になるのだが、大体において共通するのは、自信過剰で自己中心的という点だ。彼らは流石に自信家だけあって、確かに覚えも早いし、仕事もそれなりにできるのだが、その自信過剰さこそが仇になっている。なぜなら、結局は利己に傾き、自分を常に優先させようとするからだ。ここにはある程度のジェンダー差があって、比較的、男は攻撃的なエゴイストになり、女は温和なナルシストになる傾向があると思うが(以前に書いたことのあるおばさんは後者の事例だろう)、そんなにきっぱり分けられるわけではなく、両者は微妙に混合しているだろう。
 まず問題になるのは、与えられたルールをちゃんと守れないということ、つまり順法意識の欠落だ。そういう人は最初の段階では、仕事もきちんとこなして、ルールをきっちり守っているように見えるのだが、それは見せかけであって、やがては自分の都合のいいように変形したり、破ったり平気でするようになる。そして、多少の紆余曲折があったとしても、最終的には、人の目を盗んで、大なり小なりのズルや不正を行なうようになる。
 次に問題になるのは、共同作業をする上で、余計な波乱を引き起こすということだ。とりわけ能力不足の、つまり「要領が悪い人」との間に、諍いを起こしてしまう。特にエゴイストは、そういう人を厄介視し、かなり差別的・排外的な態度をとる(一方でナルシストならば、一見温情的と見せかけて、自分の家来のように取り扱おうとするだろう)。この場合でも、最初の頃は温和しく我慢しているのだが、そのうち慣れてくると、次第に偉ぶるようになって、自分のものの見方を押し付けて来る。そして極端な場合になると、いつしか、そういう人を甘やかしてはいけないと高圧的な態度に出たりもする。彼らにありがちなのは、実利主義あるいは新自由主義的な思考で理論武装しており、その方が実利的・効率的だとよく主張するのだが、「使えない人」に対して、まさにその使えないという理由だけで嫌がらせを始めたりする。この時、そういう要領の悪い人への指弾や攻撃は、じっと我慢している他の人たちの留飲を下げる効果があるので、一時的な喝采を受けることもある。しかし、彼らの実利主義は、はっきり言ってインチキで、本当に効率のことを考えるのなら、そういう人もいる現状の中で、そういう人も巧みに使って、一番うまくいく方法を模索すべきだと思うし、また本物の新自由主義者ならば、それなりの責任感や公共意識に裏打ちされているのが普通だと思うが、やはりエゴイストで順法意識が欠如しているので、自分のみが快適に行動できることにしか目が向けられない。だから、一時的に喝采を浴びても、そのうち、それ以外の人々とも何らかの形で軋轢を生じ、揉め事を起こすようになる。そして、結果的に仕事の効率を著しく下げてしまう。そうして仕事を回らなくさせるのだが、折りしもちょうどその頃には、ルールを守らず不正を行なったりしていることも発覚するので(半ば必然的に)、「要領の悪い人」以上に、まともに「使えない人」として、辞めたり辞めさせられたりすることになる。
 僕はそういう問題児の愚痴や意見もいろいろと聞いてきたが、大体において、彼らは自分の言い分が正しいと思っており、できない人と一緒に行動して、仕事の負荷が増えるのは「損害」であり「不正義」だと本気で思っている(らしい)。つまり、自分の理想を語るガチガチの理想家なのだ。しかし、彼らの理想は、当人の主観の中では全体を見通しているつもりのようが、煎じ詰めれば、どれも利己的なもので、少しも公共的あるいは第三者的な視点がない。自分のエゴイズムやアイデンティティの枠組みの保全だけであり、その焼き直しだ。そもそも自分と変わらない存在として圧倒的に他者が存在しているという想定や想像力を欠いている。他者は自分の世界に登場する下々のキャラクターでしかない。だから、実際には対話が成立していないと強く感じる。僕はやんわりとではあるが、そうでない視点を提示してみても、共感どころか理解してくれたという感触もない。
 さらに彼らに顕著なのは、できない人のみならず、弱者とされる人々をすぐにこき下ろすということ。そして、そういう存在を救済しようとする考え方に、とても懐疑的・批判的だということ。それはおそらく、彼らの世界観では、「使えない人」や「足手まとい」は必然的に弱者になるはず(なるべき)で、碌でなしに決まっているのだから、排除や冷遇されて当然だと思考されるのだろう。休憩時に彼らと一緒にニュースなどを見ていると、時の民主党政権や中国・韓国や生活保護の受給者など、異者や弱者やその味方とされる者をひどくこき下ろしていたが、今から思えば、彼らがまさにネトウヨの一翼を担っているような人だったのかと合点する(末端だろうが)。そして、彼らはそんな「弱者」を公然と否定したり(あるいは家来化したり)したりするのだが、自分も病気をしたり年を取ったりして弱者になる可能性があるなどとは思いつかないみたいだし、そもそもこんな職場に来たり、人間関係に失敗して仕事を転々としている時点で、自分も十分に社会的な弱者と見做され得ることに少しも向き合おうとしない。あるいは、目を瞑っている。むしろ、自分がこんなひどい状況にあるのは、社会の方が間違っていると、すぐに責任転嫁する。
 また、批判の眼差しは、弱者どころか強者にも向けられる。僕が度々驚かされたのは、彼ら複数が誰かを批判する際に、しばしば「上から目線」という言葉を使っていたことだ。これはその当時の流行り言葉だが、僕は最初その意味がよくわからなかった。確かに上からの一方的なものの見方は抑圧的で、多くの問題を含んでいるが、それでも一つの視点として重要な論点も含んでいるものだ。問題と言うなら、奴隷根性や忖度にまみれた「下から目線」だって似たようなものだ。特に日本では、下から(名でも実でも)上の者を操ろうとする発想がすごくあるし、また上の者もそれを承知した上で操られた振りを見せたりなど、とても入り組んだ権力関係が張り巡らされていて、そこで足元を掬われたりする状況があり、むしろそちらの方が問題だと思うくらいだ。だから「上から目線」の問題は、「下から目線」や「横から目線」(別に「裏から目線」でも何でもいいが)をぶつけて相対化すればいいだけの話であって、どうしてその程度のことで、鬼の首を取ったかのように言い放てるのだろう。そこでつくづく感じたのは、そう非難している人は、自分がまさに「上から目線」の人で、そのような見方しか認知できないので、それ以外の論点に出会うと、マウントをとられたように感じてしまうのだろうということ(裏を返せば、彼らが僕にそういうことを平然と口にできていたのは、僕が下々の者だからなのだろう)。彼らに他者への想像力がないと述べたが、おそらく自分と同じような「上から目線」の者としてしか強い他者を想定できないので、弱肉強食の論理を振りかざして、排除するよりどうしようもないのだろう。絶対者が二人いては困るわけだ。その点でも、自分で自分の首を絞めているなと思ってしまう。
 そして、もう一つ忘れ難いのは、おそらく彼らは仲間や近しい人も大切にしないだろうという点だ。一番頻繁に「上から目線」という言葉を使っていて、最後には問題を起こして辞めさせられた男性の例を挙げる。彼は自分の趣味や興味ある事柄に対して、とても熱心に情報を収集している人で、かなり細かいことまで知っていた。僕はSNSなどには全く疎いので、彼の情報通に一応は感心し、興味が重なることに関しては教えてもらうこともあった。ところが、ある時、あまりにリアルタイムのことを知っているので、「どうやってそんなことがわかるのか」と何気なく訊いたら、「そういう情報を発信している奴のツイッターとかを見る」と言うので、「そんな奇特な人がいるなんて、感謝しないといけないな」と応じたら、鼻で笑われ、「そんな必要はない。勝手にアップしているのを見てやってるんだ」と返されて、吃驚してしまった。彼によると、情報発信者は何の得にもならないことをしているバカで、自分が知っていることを自慢したいだけであり、それを有効に活用してやっているのだそうだ。僕はうすうすは感じていたものの、ここで明確に、彼が相当に厄介な危険人物だと思った。周囲の環境や自分が置かれている場所がどういう文化的・社会的な恩恵の積み重ねで成り立っているのかを考えず、ただそこにある客体として収奪し利用することしか念頭にない。そして、それが知恵だと自負している。僕はこんな十九世紀の帝国主義者みたいな人物が本当にいるのかと唖然とし(今からすると、新自由主義的なノリが讃えられる昨今では十分にあり得ることだが)、これから先のことが少々案じられた。そして実際、彼は「使えない人」にひどい態度を取り始め、一時的にもてはやされたものの、やがて周囲の人たちとも諍いを起こすようになった。そしてとうとう、どういうわけか彼を庇い続けた上司が入院して、しばらく休職している間に、彼に反感も持つ人たちのタレコミが続出し、僕も会社の上層部からいろいろと問い質されたので、彼が行なっている(そして上司が事実上黙認している)と推測できる会計上の不正行為を指摘したら、それが立証されて解雇されてしまった。
 ただし、僕は彼らを排除したくない。それは「要領の悪い人」と同じで、こういうトラブルメイカーだって、ここにいるんだから仕方がないでしょうと思うから。とは言え、彼らは何かにつけて、自分で蹴つまづいて、いなくなってしまうから、どうしようもない。おそらく彼らはここだけではなく、いろんな現場をそうやって転々とし、揉め事を起こして自滅し、疎外・迫害されていくのだろう。しかし、彼らは利己的な理想主義者で、社会の方が間違っていると考えているから、そのように追い込んでいく社会の方に怨嗟と敵意を募らせていくことになるだろう。そして最終的には、人々の日常をぶち壊そうとする無差別テロリストになるのではないか。だから、彼らを絶対に社会の何処かで受け止めていかないと、大変なことになると思う。人の居場所は絶対に奪ってはいけない。何かを排除すると、結局はその何かに寝首を掻かれることになると思う。まさに彼ら自身のように。
 前に「ヤクザと憲法」というドキュメンタリー映画を観た時、ヤクザは確かに反社会的勢力に違いないが、放って置けば無差別テロを起こしそうな危険人物をある程度は律するような役目も果たしているのではないかということが透かし見えていると思った。それは実は人的なセイフティネットだとも言える。二十年以上も前、いわゆる氷河期の初頭に就職活動をしていた時、理想的な御託を並べていたら、「個人のやり甲斐なんてどうでもいい」「こちらは慈善事業じゃないんだ」みたいな主旨の説教を延々されたことがあるが(ちなみに、それは財団法人での体験で、民間企業では建前としてそういうことは言わないから、そんなにひどい扱いを受けたことはない)、僕はまさにあらゆる企業や団体組織は慈善事業だと思う。どんな人でも空間的あるいは社会的な居場所は必要であり、その受け皿たるべきだろう。もちろん、それは同時に、外部にとっては(内部にあっても)抑圧的・暴力的に機能することもあるわけだが。
 僕はとりあえず、どんな人の愚痴や言い分も聞かされれば聞くし、そう言いたくなる気持ちも推し量ってみるから、右からも左からも、すぐに何かの同志みたいに見なされがちなのだが、そのうち僕が少しも理想家ではないし、視点をずらそうとしたり、反対勢力をも庇い立てするのに流石に気がつく。そして、物分かりはよさそうだが結局は高みの見物をしている現状追認日和見主義者、あるいは弱者を甘やかすだけのサヨクの敵キャラ扱いされて、それ以上には進まないらしい。それはそれで若干もどかしい。ただし、僕が弱者やできない人を擁護したがるのは、自分がその中にカテゴリーに入り得る、あるいは入らさせるというよりも、身近な隣人だったからということの方が大きい。だから、身近な分、異端視もしないが美化する気にもならない。むしろ、過剰に批判的かもしれない。これが僕の素朴な資質であり立ち位置なのだろうと思う。
 しかし、対話を擦れ違わないように成立させるために本当に必要なのは、相手に対する徹底的な慈愛であり全肯定であって、それ以外にはどうすることもできないのではないか。とは言え、件の僕にはとてもそんな芸当はできない。そう試みたしても、煩悩だらけの僕には、ギコチなくてとても耐えられず、ストレスを溜め込んで潰れてしまうに違いない。いつも余計なことばかりしたがる。そこまでの自己放擲はできるのか。隣人意識を溶解できるのか。だから、ほとんど絶対的な慈愛の人、どんな人に対しても笑顔で最高のおもてなしができる人には、すごいと思うし、心底頭が下がる。ごく稀にだが、自己の宗派性に捉われない宗教家に出会った時、敬意を払わずにはいられなくなる。僕は神も仏もない人間だが、人はないがしろにしてはいけないとは思う。だが、もう一線越える瀬戸際で、どうも右往左往してしまう。

2019.2.7木(続々々)

 〇ここまで書いてみると、自分の考え方の淵源がおおよそ見えてきた。僕は自分の先天的な傾向への負い目を払拭したおかげで、後天的な影響関係もはっきりしてきたと思う。幼少期からの自分について、改めて整理してみる。舞台は主に家庭。父という起、母という承、弟という転を経て、僕という結が形成されたと言える。
 父は僕にとっては、やはり反面教師で、優しい所や尊敬すべき点もないではないが、これまで散々述べてきたように、少なくとも子供の時点においては、酔っ払って豹変する父は圧倒的な恐怖の対象だった。少しずつ大きくなるにつれ、父の発想や行動原理が基本的にワンパターンで、それが避けられることを知り、その術を覚えると、父は次第に侮蔑の対象となり、時には憎悪の対象になった。子供の時の僕は、父を決して好きではなかったし(幼い頃にはそう思うことさえ恐ろしくてできなかった)、父のようにありたくない、父になりたくないと、いつも思っていた。
 その一方で、母は僕を溺愛した。母は僕が甘えられる逃げ場だった。しかし、それは絶対的なものではなかった。というのも、母を僕をしばしば突き放すような態度を取り、僕を度々不安に陥れたからだ。母は幼い頃に両親を亡くし、見ず知らずの家に里子に出されて、苦労して育った人間で、おそらくはそのために、内面にかなり複雑な思いを抱えていて、人間関係の取り方が時折、妙にひっくり返ることがある。例えば、おそらく血が繋がっていないという負い目を感じているために、親類縁者の義理立てや体面に異様に執着する一方で、断つべきではない人間関係を平然と断ったりもする。父と結婚したのは、養父母の言いなりになっただけで(その前に断念した恋愛があったそうだが)、さほどの思い入れなどなく、家長としての務めを果たさない父のことを愚痴り、騙されたとぼやきつつも、結局は全ての後始末をして救済・免除してしまう。僕は当時、母と唯一血の繋がった人間だったから、基本的には愛情を注がれたわけだが、僕が言うことを聞かないと、しばしば「おまえは本当は捨て子だった」「橋の下からゴミだらけで穢かったのを綺麗にして拾ってやった」「また橋の下に捨てるぞ」と言って脅した。そして、僕が大声で泣き出すと、「今のは噓だ」と言って、僕を宥めすかした。おそらくは母は自分への愛情を確かめるために、自分が経験した嫌な思いを無意識に踏襲しただけなのだろうが、当時の僕は自分が捨て子でまた捨てられると大真面目に考えていたものだ(それを否定するために、母に何度も臍の緒を見せられたが、素直に信じたりはできなかった)。ちなみに、僕は新見南吉の「手袋を買いに」という童話が大好きなのだが、子狐をわざわざ危険に曝すような母狐の行動がおかしいという批判があって、全くその通りだと思う一方で、母親とはそういう理不尽な存在だと、妙に共感してしまう。また、孤児意識が濃厚な成瀬の「秋立ちぬ」にも、深く魅入られてしまう所以だ。
 そういう風に父(や母)に微妙な感情を抱いていた僕は、他者に怯え、過度の社会不安障害に苛まれていた。あらゆる外部のものが怖くて、人見知りで、引っ込み思案で、あがり症で、そしてひどい泣虫だった。また、好き嫌いが甚だしく、とりわけ偏食が激しくて、苦手なものを嫌がって、一切口にしなかった(できなかった)。服や手にする物なども、ひどく選り好みした。幼稚園にも行くのも好きではなかった。僕は基本的に弱虫だったから、悪いことを一切しない温和しい「いい子」だったが、酔った父からは八つ当たりされてメソメソすると泣虫だと怒鳴られ、母からは好き嫌いの激しさを責められた(そして捨てると脅された)。もっとも、母に関して言えば、僕は三歳の頃、難病を患い、完治するまでは病弱で、長く入院したりもしていたから、そういう焦りや心配も大いにあったに違いない。しかし、当時の僕にとっては、これらはどうしようもないことだったから(今からすると、泣虫のみならず、過度の偏向性も、自分のアスペ的性質の他に、置かれた環境下でのストレスが一因ではないのかと思わないでもない)、僕はこの世がいやでいやでたまらかった。幼少時のことを考えても、楽しい記憶をあまり思い出せない(母の養父母と家族で油壷マリンパークに行ったことくらいか)。
 そんな僕が母に向かっていつも言っていたことがある。何かにつけて「お兄さんが欲しい」とゴネていたのだ。あまりにそう言うので、母も業を煮やしていたことだろう。そして、おそらく小学校に入る前後の頃だと思うが、こう口にした、「実はお兄さんがいたのだが、おまえが生まれる一年前に流産してしまった」と。それを聞いて、僕は悲しいよりは嬉しくなって、生まれなかった兄に思いを馳せた(姉の可能性は考えなかった)。ところが、ある時、兄の名前をせがんで、愕然とした。それは僕の名前だったから。僕は兄に付けられるはずの名前を付けられていた。つまり、僕は兄の身代わりとして生まれた。そして、もし兄が生まれていれば、僕は僕の名前ではないし、僕は僕ではなく、そもそもこの世に存在していなかったかもしれない(僕は元々有名人の名前に因んだ自分の名前が好きではなかったから、余計にそう感じた)。これは僕が物心ついてから初めて明確に感じたこの世の不条理で、僕はひどく絶望し、この世に存在するのが嫌になった。
 ところが、その後、七歳の時、大好きだった田舎の叔母さんが脳溢血で死んだ。苦しみぬいたものではないらしいが(腹上死だと聞かされたが、その時は意味がわからなかった)、顔が鬱血して紫色になったその遺体はかなり凄惨なもので、その異形を目の当たりにして(荼毘に付す前にお棺の窓を開けたら、田舎の山道に揺られた所為か、顔の下半分が血まみれになっていて、卒倒しそうになった)、僕はそれ以後、死ぬということの恐ろしさにも怯えるようになった。そして、いつも寝る時に、母や身近な人が死ぬことを想像しては震え、また自分が、このまま死んだらどうしよう、死体になったら、紫色になったら、血まみれになったら、と煩悶した。結局はそのまま眠ってしまうのだが、目が覚めると、生きていることに少しだけ安堵し、また同じ一日が始まることに不安になった。だから、存在したくもないが、死ぬのも怖いと思って、びくびくと生きていた。その繰り返しがやがては日常になり、慣れて鈍麻していった。僕が死んで無くなれば、死への恐怖も悲しみなくなるはずだと一度だけ思ったことがある。すると今度は、僕が無くなっても、世界は存続するということが、たまらなく怖くなって、そこから何も考えられなくなった。僕がもぬけの殻になる起点はこの辺りからだろう。
 そういう中、救いとなっていたことが二つある。一つは店の常連客の中に、温和しい僕を可愛がってくれる人が何人かいて、僕をよく遊園地だの動物園だの映画館だの潮干狩りだの銭湯だのに連れ出してくれたことだ。僕は彼らに憧れのお兄さん像を重ねて、欣喜雀躍していたと思う。もちろん、父や母にもいろんな所に連れて行ってもらった思い出もあるのだが、父はひどい方向音痴で、目的地に辿り着けなかったり、すぐに帰って来れなくなったりすることがしばしばあるので(実家の長野に向かって新潟に行ったくらいの人だ)、外部に怯え、迷うことに恐怖を感じやすい僕は、あまり一緒に行きたくはなかった(僕が道を覚えていなければという緊張感を常に抱いていた)。もう一つの救いは、書物の世界だ。父も母も本を読まないし、本や活字にはまるで興味がないのだが、家内には多くの本があった。店の常連客の中に本屋さんがおり、そのつき合いの関係上、僕の教育用という名目で継続的に購われたものだ。そのため、うちには大部の子供向け学習百科事典などが揃っており、僕は小学生に上がる前から、それらを貪るように眺めたり読んだりしていた。そこから、僕はどんどんと知識や物語の世界にのめり込んで行った。それは夢想への逃避には違いないが、後々、自分のことを物語のように見つめる癖が付き、例えば不快なことがあっても、鳥瞰的に突き放して眺めてやり過ごすことができるようになった。もっとも、その影響で、元々のひどい乱視の上に、かなりの近眼になってしまい、すると、眼が悪くなったことで父からも母からも責められるようになった。その後もずっと定期的に家には学習雑誌などが届いたが(同じ理由で、店には新聞も最大で五紙も配達された)、読書は叱責の対象や口実となるので、とても表立って読めるものではなかった。読書や学問はまさに悪徳だった。
 ちなみに、学校ではどうだったのかと言うと、僕は引っ込み思案で弱々しい子供で、いつも一人で行動し、友達はほとんどいなかった。例外的に親しくしていたのは、同じように孤立していた子か、僕の本好きに興味を示した子くらいだった。通常そういう気弱で「女々しい」浮いた子供はいじめの対象になりやすいと思うが、僕はあまりそうはならなかった(多少はあるが)。その理由は大きく三つある。一つは、僕は泣虫で軟弱だったとは言いながら、比較的体は大きく、いじめの口実になりそうな身体的なハンディを持っていなかったこと。もう一つは、父からの攻撃を逃げることを学んでいた所為か、いじめに遭遇するのを避けるように意識的に行動していたこと(だから、当時の僕は、いじめられっ子がわざわざいじめの口実を与えるような余計な振舞をするのが解せなかった)。そして、これが一番重要だと後で気付いたのだが、僕が焼肉屋の倅だったことだ。それは一つには、大衆食堂の中でも焼肉屋は多少高級と目されていて、素朴に羨ましがられていたということもある(ただし、蔑まれる要素もあるが)。だが、それ以上に決定的なのは、店を契機とした地域社会のネットワークに入っていたということだ。
 僕の当時の認識では、いじめに関して、こう考えていた。学校に通う子供たちには三種類の人間がいる。ワル、普通の子、そこからはみ出る子。ワルは皆が守っている規範に従わないことを格好いいと思って誇示している。普通の子は一見品行方正だが、周囲の目を気にして規範を守る振りをしている。そして、そこから外れて孤立しているのがいじめられっ子となる。いじめにはワルが直接手を下すものと、普通の子が間接的に嫌がらせするものと二種類あり、前者は個別的・短期的で、後者は集団的・長期的でより陰湿だ。そして、前者が引き金となって後者に移行するということが多い。だから、まずはワルに目を付けられなければいい。また、普通の子の中でも、要になるようなあざとい子がいるので、彼らに嫌われなければいい。そして、これは僕の偏見かもしれないが、ワルとなった子は大体職人や現場仕事の人の子供で、普通の子は圧倒的に勤め人の子供が多い。ところで、うちの店の客層は概して現場の人で(もちろん、近所の勤め人もいるが)、そのワルたちの多くはうちの店の常連さんの子供であり、僕は幼い頃から彼らと顔馴染みで、過去に遊んだこともあった。だから、仲良しではなくとも、親とも本人とも顔見知りだし、親に通報される可能性がすぐに想定できるから、僕には手を出さなかった。つまり、僕は自分の生まれた店の地縁によって守られていたわけだ。ちなみに、僕は逆に、そういう地縁のない「普通の子」たちによる嫌がらせには時折遭遇したが、そんな時にはむしろ、そのワルたちが僕を庇ってくれることさえあった。僕がいわゆる「普通の人」に距離を置き、近しかったいじめられっ子たちと同様に(あるいはそれ以上に)、悪人的な人物に親しみを覚えるのも、こういう積み重ねが背後にあると思う。
 さて、話を家庭内に戻す。そして、九歳の時に、弟が生まれた。生まれる直前まで胎児はずっと逆子で、母と子のどちらかが死ぬと聞かされていたので(僕の母はやはりこうした余計なことを言う)、僕は赤ちゃんが死んでほしいと願っていた。弟が生まれた時はひどい難産で、予定日よりも三週間も早く出て来たため、父は飲食組合の旅行中で不在で、母は陣痛が起こると自分でタクシーに乗り、産婦人科へと向かった。僕は少し離れた親戚の家にしばらく泊めてもらった。そして、母は男児を無事出産。僕は生まれた弟と対面したわけだが、母が死ななかったことには安堵したものの、可愛いものを愛でる気持ちはこれっぽっちもなかったので、別に嬉しくとも何ともなかった。むしろ、兄が欲しい僕に弟ができるなんて、やはりこの世は理不尽で嫌だとの思いを強くしただけだった。
 しかし、弟ができて兄になってしまった以上、これはどうしようもないとも思った。そして、父がだらしないからには、僕が父の代わりに弟に接しなければいけない。僕がこれまで欲しいと願っていた兄に、僕はならなければと思った。もっとも、これは義務感からというのとは違う。僕は元々絶望的に、死んだように生きて来たから、ただ仕方がないからというだけのあきらめの延長だった。また、僕は一方で、冷めているとは言いながら、日々の生活の中で自分の抱えている不安障害を克服しようとも意識していたから、ちゃんと兄になれば、この不安から逃れられるとの算段もあったと思う。だから、ある時、はっきりと腹をくくって、自分は兄になると決めた。ただし、父ではない。自分の夢想する兄として。そして現に、それ以降は、僕はぴたりと泣くのを止めた。親戚からも、お兄さんになって、まるで人が変わったようだと言われた。母も僕の「成長」を大いに歓迎していたと思う。いや、むしろ、母はどうしようもない父の代理として僕を活用して「背伸び」させ続け、その結果、僕の方でもすっかり冷めた「ませガキ」となり、やがて同世代の子らの行いを子供じみたことだと軽蔑するような子供になった(内心で嫉妬しながら)。当時の同級生からすれば、僕はとても鼻持ちならない奴だったに違いない。そして、それは絶望と理知への捻じ込みと自分への救済願望(と多少の環境適応)によるものであり、少しも愛情や道徳心があったからではなかった。
 だから、僕は弟に対しては、基本的に可愛いと思って接して来なかった。父のように気まぐれで横暴ではなかったのは間違いないが、ある意味では冷たく理性的で厳格な兄だった。僕には弟を世話したし育てたという自覚がある(例えば、これは大分後のことだが、弟が小学生の時、高校生の僕は、弟の担任の先生に保護者格として長文の要望書を提出したこともある)。ただし、以前にも書いたように、そういう行為は父の勝手な振舞によって、しばしば横槍を入れられ、僕の思いは台無しになったが、今から思えば、正義や教育の名の下で児童虐待するのを、結果的に阻止していたのかもしれない(店の接客の一環として、幼い弟に熱いお茶を運ばせて、大火傷をさせたこともある)。いずれにしても、僕は弟のためよりは自分の都合のために、自分の欲望をひっくり返し、捻じ伏せてやり過ごして来たのだ。
 こうして考えると、僕が自分のことをパターナリストと称し、そのような振舞をするのも、子供の時にやっていたことの反復だということがわかる。人は何と過去に縛られていることだろう。あるいは、何と周囲の人々からの影響を受けていたことだろう。そして、僕も、例えば弟に何某かの影響を与えているに違いない。僕と弟の間には父に対する思いがかなり違う。弟は子供の時から父と喧嘩ばかりしていたが、憎悪はしていないと感じる。弟は普通に可愛いものに目がない(そう言えば、捨て猫を拾って来て、母にこっぴどく怒られ、泣き喚いたこともあったが、「そんな汚いのは元の場所に返して来い」との母の言葉に、僕の方も胸が締め付けられたものだ)。それはやはり、僕が父との間に入り込んでいたためだろう。
 それからいろいろなことを経験したわけだが、長い年月をかけて、それらが相対化されて、僕自身が可愛いものを愛でるようになったのは、これまで封印してきた過去を取り戻そうとする願望なのだろうと思う。僕は率直に、子供らしい子供ではなかった。特に十歳以降は、僕は大人めいた振舞を余儀なくされて、子供らしいことは自分からも何もできなかった。する気もないと思っていた。それが今、解き放たれて、可愛いものが嫌いでなくなった時、それは実は可愛いものを愛でているのではなくて、自分が子供と一体になって共感し、一緒になって遊んでいるのだ(葬式での父のように)。そして、昔の願望を取り戻して、自分の夢を吐き出している。六十年目の春の如し。だから、子供になり直した僕は、今さら縛られるのは、とんでもなく嫌なのだ。その一方、昔取った杵柄で、パターナリストの兄にも簡単になってしまう。ただし、父ではない。しかし、本当はここからも解放されたがっている。これは大いなる矛盾。しかも、変え難い矛盾。
 しかし、もしこの父と母から生まれていなければ、そして弟が生まれていなければ(あるいは、近親者の悲痛な死に直面したり、焼肉屋に生まれていなければ)、僕の性格も発想も性向も、かなり別のものになっていたことだろう。そう考えると、過去とはかけがえのないものだ。恨みも憎悪も血肉。理不尽も血肉。突き放しも社会不安障害もまた血肉。この分裂も血肉だ。否定できるものは何もない。もちろん、多少違って別のものになったとしても、それもまた自分なのだから、似たようなことだろうが。むしろ、違う自分があった可能性について考えてみるのも面白いだろう。今の自分に縛られないためにも。
 それにしても、亡くなった父に、もっと父の過去のことを訊いておきたかったとつくづく感じる。もちろん、母と違って、それらを聞き出そうとした試みはことごとく挫折したのだが、それでも、もっと聞き出せればよかったと思う。

 *

 最後に一言。こうして縷々述べてきたが、やはり書いておかなければいけないのは、僕は常にストレスを感じ、この世に絶望して生きて来たからと言って、それはあくまで内面上の話でしかないということだ。つまり、精神的にはかなりの負荷だったと思うが、肉体的・物理的には何の問題もない。衣食住は十分に満たされている。実際に家から追い出されて、雨風に晒されているわけでもないし、食事を抜かされて飢えているわけでもない。身体へのひどい懲罰や虐待を受けて負傷しているわけでもない。疎外感はあるとしても、父は僕が何をしようと無関心で、その意味では僕は人並み以上に自由だったし、母が僕を突き放すのも愛情の歪んだ裏返しで、全面的に人格否定されているわけではない。書物へのアクセスも可能だった。そして外的には、店の地縁に守られていた。だから、当時の僕にしてみれば、ひどい環境に置かれていたとしか回想できないのだが、一般的に見れば、裕福ではないにせよ、そこそこ恵まれていたと言えるだろう。むしろ、そのように物質的に不自由なく生活していたからこそ、僕は精神的にグダグダと悩むことができた。言わば、贅沢な悩み。捨てられないからこその孤児意識だ。焼肉屋という特権的な安全圏。だから、僕は両親と徹底的に対立・抗戦することもなかったし(多少はあるが)、結局は家を出て行くこともしなかった(その前に店は父が潰してしまった)。自分が外に出て行くことなど考えなかった。自分が兄になろうと決意したのも、そういう基盤があったからのことだ。家庭はてんで崩壊していない。つまり、僕はある種の余沢の中で踊っていただけ。これが僕の保守性なのだろう(まさに母親譲りの)。そして、これは現時点でも言えることで、僕が何か新しいことを始めていれば、昔の内面などにかまける暇などないはずだ。大抵の人はそうやって生きているのだろう。僕はまだ外部に出るのが怖いのかもしれない。

2019.2.7木(続々)

 〇これまで述べてきた「使えない人」たちは、端的に言ってしまうと、いずれも発達障害だとまとめることもできる。僕はそれらに関する本もいくつか読んできたが、出会った個々の人たちに、ADHDアスペルガー症候群、あるいは自己愛性パーソナリティ障害などと、具体的な名前を与えてもいい。ADHDが圧倒的に多いだろうが、別に扱いづらい人として、普段の規定通りに動くことや、些末な順番だの配列だの手順だの、枝葉末節に過剰にこだわる人、あるいは役割分担に固執して自分のルーティン以外のことをやろうとしない人なども結構いて、「アスペルガーはしょうがないなあ」と思ったりする。僕もかつてはその言葉を使って、彼らのことを語ったり説明したりしてきたが、今では原則として使用しない。なぜなら、こちらの主旨が曲解されることがあまりにも多くて、辟易したからだ。
 僕はそういう人たちの性質は、身体的な特徴などと同様に、脳神経の繋がりの問題で、生来のものだし、自然の摂理でそうなってしまうのだから、一方的に責め立てても意味がないし、その傾向を見据えて、周囲がうまく回していくように対応すべきだと力説してきたのだが、大抵はいい方向に行かない。まずは、それを聞いて、病気なのかとドン引きされ、相手を余計に異物認定し、かえって排除の口実にされてしまう。もちろん、始めからそう反応しそうな人には易々と使ったりしないのだが、素直に受け止めてくれそうだなと思っていた人までが、そっちに傾いてしまうこともある。これまで曖昧で済んでいたものを明確化して、差別を理論化・正当化する方に流れ、結果として寝た子を起こしてしまったのか。また、そこまでいかなくとも、よくあるのは、僕の発言を聞いて、すごく気分を害し、そんなことを言うのはよくないと叱責して来ることの方だろう。僕は冷酷で差別的だとの烙印を押される場合もある。しかし、僕はそういう人たちを擁護するために言っており、むしろ、こういう概念を差別的だとしか認識できない発想の方がよほど差別的だと思うのだが(もっとも、他者を言葉で区切る行為は本質的に暴力的かもしれないが、少なくともそれが差別的に機能するのを阻止しようとはしている)、いずれにせよ、こうした差別的な「善意」を含めて、自分のことならともかく、他者のことについて述べるとなると、ことごとく裏目に出て逆効果なので、とりあえずこの言葉を使わないことにした。
 しかし、この概念や考え方はとても意義深い知見だと思う。僕は一時期この種の本にかぶれ、読み漁ったが、それによって個人的に大いに救われた気分になった。というのも、自分が抱えていた課題やコンプレックスが明確化され、洗い流された体験をしたからだ。
 そこには二つの局面がある。一つは父をめぐって。僕はこれまで父のことを書き散らかしてきたが、父ははっきり言えば、典型的なADHDアスペルガーだとわかった。物事を杓子定規に捉え、文脈を考えず、子供じみた振舞をして、非人情な父親。例えば、近所の葬式に行ったら、出された酒を呑みまくって会場で寝込んでしまうし、親戚の葬式では、退屈している子供たちと一緒に鬼ごっこや隠れんぼを始めてしまう。店の営業中でも、酒に酔い潰れて店内で仰向けにひっくり返ってしまうし、しばらく客がいないとなると、平気でパチンコに行ってしまう。あるいは、他人の話をじっと聞いていられず、噛み合った会話ができない。そして、機嫌が悪くなると、物を投げ壊し、周囲の弱い者に当たり散らす。そんな父に、僕は幼い頃からずっと振り回され、ストレスを溜め、傷つき、理不尽な思いをしてきた。僕の小さい頃の悩みの大半は、父にまつわる感情から来ていたと言ってもいい。つまり、僕はいわゆるカサンドラ症候群に陥っていたのだ。
 僕はずっと、この思いは特殊なもので、誰からも理解されないと考えていた。母はよく父への愚痴をこぼしていたが、僕がその当時感じていたこととは主点がズレていたし(その大半は父が普通の夫の役割を果たしていないというもので、全ての後始末は自分がしてきたとの苦労自慢が背景にある)、たまにこのことを誰かに語る機会があっても、「そんなことがあるはずはない」「親を馬鹿にするもんじゃない」と、逆にたしなめられるのが落ちだった。僕は小さな頃から、書物の物語世界に逃避していた子供だったが、その折り、丹羽文雄の「鮎」や椎名麟三の「ある不幸な報告書」、正木不如丘の「木賊の秋」、それに石川達三の「稚くて愛を知らず」などを読んで、登場人物の中に父の面影を見つけ、彼らに翻弄される人たちの苦悩に大いに共感した(特に石川の長編作品は、題名とは違って、かなり正確にアスペルガーの女性の行動を描いていたように記憶している)。しかし、それは私的な慰みでしかなかった。そして後年、発達障害関連の書籍を読むことで、名称が与えられて、事態が明確化したと同時に、もっと一般性のあることだと知り、遅ればせながら、相当の安心感を覚えたのだ。
 もう一つは自分のこと。父がそうだとわかったが、父ほどではないにしろ、僕自身もアスペルガーの傾向があると理解できた。幼い頃の僕を思い出してみると、まさにアスペとの診断が下せるような行動パターンを執っていた。父について書いてきたことは、ADHDの部分を除くと、すっぽり僕のことに当て嵌まると言っていい。僕もやはり人の気持ちをそれほど理解しない子供だったし(自分の昔の写真を見ると、眼付きの悪さに吃驚する)、人間関係がうまく行かず、違和感ばかりを覚えて、社会に出るのが怖くて仕方がなかった。また、小さな時から、好き嫌いも甚だしく、ひどい偏食も含めて、マニアックな情熱や収集癖や衒学癖など、オタクぶりの傾向が大だった(そもそも僕の冷たい人間観察眼や分析癖、こうした文章の書きっぷりも、アスペの賜物に違いないだろう)。もちろん、様々なコンプレックスや問題は、後天的な要因も無視できないどころか、実際にはその方が断然大きいとは思う。そして、そのことを自分なりに整理し、克服してきたつもりだったのだが、やはりある種の負い目や引け目をずっと抱いていたのだと思う。ところが、自分がアスペだと思い直してみると、そこからすごく解放された気分になった。つまり、自分がこうだったこと・こうであることは、自分の所為でもないし、まして親の所為でもない。生得的であって、育ちの所為ではない。そう宣告を受けることで、すごく心が浄化された気分になった。
 ちなみに、社会性を欠落しがちなアスペと言えども、成長すれば、それなりの社会性を持つもので、僕も何とか、曲がりなりにも、ここまでの社会性を身に着けることができた。これにはおそらく二つの契機が考えられるだろう。一つは父がADHDだったこと。そのため、そのような行動が他人にどのような影響を及ぼすのかということを思い知っていて、自分や相手の立ち位置や関係性を、比較的眺めやすい状態にあっただろうから。そして、もう一つは九歳の時に弟が誕生したこと。僕はそれ以降、ろくでなしの父に代わって、僕がしっかりして、弟を庇護・教育しなければならないという強烈な思いに捉われた。今からすると、過剰な責任感を背負い込んだものだが、それが僕に相当の影響を与えたことは間違いない。
 ともあれ、発達障害の人は、自分がそうであることを意識した方が僕はよいと思っている。特にアスペの人は、その方が圧倒的に楽になるのではないか。もっとも、今の日本のような状況だと、悪い烙印として機能することの方が多そうな気もするので、注意も必要だろう。僕はとりあえず、そう思う本人たちにはそのことを告げてはいない。外から言うと、やはりどうしても失礼になってしまう。また、同時に、十把一絡げに「人間はみな異質だ」「みんな発達障害だ」などと言って、問題を拡散させ、焦点をぼかしてしまう事態にもしばしば遭遇するが、それにも抗しなければならないだろう。その見極めも肝要だろう。