2019.2.7木(続々々々)

 〇話が随分脱線してしまったが、脱線ついでに、途中で言及した「使えない人」のもう一つの例、「人間関係が駄目な人」についても書いておくことにする。他人の心理を読み解くことが苦手なアスペルガーの人も、そういう点では大いに該当するが、ここではもう触れないでおく。
 そのような人たちとはそんなに多く接して来たわけではないし、多少昔の話になるのだが、大体において共通するのは、自信過剰で自己中心的という点だ。彼らは流石に自信家だけあって、確かに覚えも早いし、仕事もそれなりにできるのだが、その自信過剰さこそが仇になっている。なぜなら、結局は利己に傾き、自分を常に優先させようとするからだ。ここにはある程度のジェンダー差があって、比較的、男は攻撃的なエゴイストになり、女は温和なナルシストになる傾向があると思うが(以前に書いたことのあるおばさんは後者の事例だろう)、そんなにきっぱり分けられるわけではなく、両者は微妙に混合しているだろう。
 まず問題になるのは、与えられたルールをちゃんと守れないということ、つまり順法意識の欠落だ。そういう人は最初の段階では、仕事もきちんとこなして、ルールをきっちり守っているように見えるのだが、それは見せかけであって、やがては自分の都合のいいように変形したり、破ったり平気でするようになる。そして、多少の紆余曲折があったとしても、最終的には、人の目を盗んで、大なり小なりのズルや不正を行なうようになる。
 次に問題になるのは、共同作業をする上で、余計な波乱を引き起こすということだ。とりわけ能力不足の、つまり「要領が悪い人」との間に、諍いを起こしてしまう。特にエゴイストは、そういう人を厄介視し、かなり差別的・排外的な態度をとる(一方でナルシストならば、一見温情的と見せかけて、自分の家来のように取り扱おうとするだろう)。この場合でも、最初の頃は温和しく我慢しているのだが、そのうち慣れてくると、次第に偉ぶるようになって、自分のものの見方を押し付けて来る。そして極端な場合になると、いつしか、そういう人を甘やかしてはいけないと高圧的な態度に出たりもする。彼らにありがちなのは、実利主義あるいは新自由主義的な思考で理論武装しており、その方が実利的・効率的だとよく主張するのだが、「使えない人」に対して、まさにその使えないという理由だけで嫌がらせを始めたりする。この時、そういう要領の悪い人への指弾や攻撃は、じっと我慢している他の人たちの留飲を下げる効果があるので、一時的な喝采を受けることもある。しかし、彼らの実利主義は、はっきり言ってインチキで、本当に効率のことを考えるのなら、そういう人もいる現状の中で、そういう人も巧みに使って、一番うまくいく方法を模索すべきだと思うし、また本物の新自由主義者ならば、それなりの責任感や公共意識に裏打ちされているのが普通だと思うが、やはりエゴイストで順法意識が欠如しているので、自分のみが快適に行動できることにしか目が向けられない。だから、一時的に喝采を浴びても、そのうち、それ以外の人々とも何らかの形で軋轢を生じ、揉め事を起こすようになる。そして、結果的に仕事の効率を著しく下げてしまう。そうして仕事を回らなくさせるのだが、折りしもちょうどその頃には、ルールを守らず不正を行なったりしていることも発覚するので(半ば必然的に)、「要領の悪い人」以上に、まともに「使えない人」として、辞めたり辞めさせられたりすることになる。
 僕はそういう問題児の愚痴や意見もいろいろと聞いてきたが、大体において、彼らは自分の言い分が正しいと思っており、できない人と一緒に行動して、仕事の負荷が増えるのは「損害」であり「不正義」だと本気で思っている(らしい)。つまり、自分の理想を語るガチガチの理想家なのだ。しかし、彼らの理想は、当人の主観の中では全体を見通しているつもりのようが、煎じ詰めれば、どれも利己的なもので、少しも公共的あるいは第三者的な視点がない。自分のエゴイズムやアイデンティティの枠組みの保全だけであり、その焼き直しだ。そもそも自分と変わらない存在として圧倒的に他者が存在しているという想定や想像力を欠いている。他者は自分の世界に登場する下々のキャラクターでしかない。だから、実際には対話が成立していないと強く感じる。僕はやんわりとではあるが、そうでない視点を提示してみても、共感どころか理解してくれたという感触もない。
 さらに彼らに顕著なのは、できない人のみならず、弱者とされる人々をすぐにこき下ろすということ。そして、そういう存在を救済しようとする考え方に、とても懐疑的・批判的だということ。それはおそらく、彼らの世界観では、「使えない人」や「足手まとい」は必然的に弱者になるはず(なるべき)で、碌でなしに決まっているのだから、排除や冷遇されて当然だと思考されるのだろう。休憩時に彼らと一緒にニュースなどを見ていると、時の民主党政権や中国・韓国や生活保護の受給者など、異者や弱者やその味方とされる者をひどくこき下ろしていたが、今から思えば、彼らがまさにネトウヨの一翼を担っているような人だったのかと合点する(末端だろうが)。そして、彼らはそんな「弱者」を公然と否定したり(あるいは家来化したり)したりするのだが、自分も病気をしたり年を取ったりして弱者になる可能性があるなどとは思いつかないみたいだし、そもそもこんな職場に来たり、人間関係に失敗して仕事を転々としている時点で、自分も十分に社会的な弱者と見做され得ることに少しも向き合おうとしない。あるいは、目を瞑っている。むしろ、自分がこんなひどい状況にあるのは、社会の方が間違っていると、すぐに責任転嫁する。
 また、批判の眼差しは、弱者どころか強者にも向けられる。僕が度々驚かされたのは、彼ら複数が誰かを批判する際に、しばしば「上から目線」という言葉を使っていたことだ。これはその当時の流行り言葉だが、僕は最初その意味がよくわからなかった。確かに上からの一方的なものの見方は抑圧的で、多くの問題を含んでいるが、それでも一つの視点として重要な論点も含んでいるものだ。問題と言うなら、奴隷根性や忖度にまみれた「下から目線」だって似たようなものだ。特に日本では、下から(名でも実でも)上の者を操ろうとする発想がすごくあるし、また上の者もそれを承知した上で操られた振りを見せたりなど、とても入り組んだ権力関係が張り巡らされていて、そこで足元を掬われたりする状況があり、むしろそちらの方が問題だと思うくらいだ。だから「上から目線」の問題は、「下から目線」や「横から目線」(別に「裏から目線」でも何でもいいが)をぶつけて相対化すればいいだけの話であって、どうしてその程度のことで、鬼の首を取ったかのように言い放てるのだろう。そこでつくづく感じたのは、そう非難している人は、自分がまさに「上から目線」の人で、そのような見方しか認知できないので、それ以外の論点に出会うと、マウントをとられたように感じてしまうのだろうということ(裏を返せば、彼らが僕にそういうことを平然と口にできていたのは、僕が下々の者だからなのだろう)。彼らに他者への想像力がないと述べたが、おそらく自分と同じような「上から目線」の者としてしか強い他者を想定できないので、弱肉強食の論理を振りかざして、排除するよりどうしようもないのだろう。絶対者が二人いては困るわけだ。その点でも、自分で自分の首を絞めているなと思ってしまう。
 そして、もう一つ忘れ難いのは、おそらく彼らは仲間や近しい人も大切にしないだろうという点だ。一番頻繁に「上から目線」という言葉を使っていて、最後には問題を起こして辞めさせられた男性の例を挙げる。彼は自分の趣味や興味ある事柄に対して、とても熱心に情報を収集している人で、かなり細かいことまで知っていた。僕はSNSなどには全く疎いので、彼の情報通に一応は感心し、興味が重なることに関しては教えてもらうこともあった。ところが、ある時、あまりにリアルタイムのことを知っているので、「どうやってそんなことがわかるのか」と何気なく訊いたら、「そういう情報を発信している奴のツイッターとかを見る」と言うので、「そんな奇特な人がいるなんて、感謝しないといけないな」と応じたら、鼻で笑われ、「そんな必要はない。勝手にアップしているのを見てやってるんだ」と返されて、吃驚してしまった。彼によると、情報発信者は何の得にもならないことをしているバカで、自分が知っていることを自慢したいだけであり、それを有効に活用してやっているのだそうだ。僕はうすうすは感じていたものの、ここで明確に、彼が相当に厄介な危険人物だと思った。周囲の環境や自分が置かれている場所がどういう文化的・社会的な恩恵の積み重ねで成り立っているのかを考えず、ただそこにある客体として収奪し利用することしか念頭にない。そして、それが知恵だと自負している。僕はこんな十九世紀の帝国主義者みたいな人物が本当にいるのかと唖然とし(今からすると、新自由主義的なノリが讃えられる昨今では十分にあり得ることだが)、これから先のことが少々案じられた。そして実際、彼は「使えない人」にひどい態度を取り始め、一時的にもてはやされたものの、やがて周囲の人たちとも諍いを起こすようになった。そしてとうとう、どういうわけか彼を庇い続けた上司が入院して、しばらく休職している間に、彼に反感も持つ人たちのタレコミが続出し、僕も会社の上層部からいろいろと問い質されたので、彼が行なっている(そして上司が事実上黙認している)と推測できる会計上の不正行為を指摘したら、それが立証されて解雇されてしまった。
 ただし、僕は彼らを排除したくない。それは「要領の悪い人」と同じで、こういうトラブルメイカーだって、ここにいるんだから仕方がないでしょうと思うから。とは言え、彼らは何かにつけて、自分で蹴つまづいて、いなくなってしまうから、どうしようもない。おそらく彼らはここだけではなく、いろんな現場をそうやって転々とし、揉め事を起こして自滅し、疎外・迫害されていくのだろう。しかし、彼らは利己的な理想主義者で、社会の方が間違っていると考えているから、そのように追い込んでいく社会の方に怨嗟と敵意を募らせていくことになるだろう。そして最終的には、人々の日常をぶち壊そうとする無差別テロリストになるのではないか。だから、彼らを絶対に社会の何処かで受け止めていかないと、大変なことになると思う。人の居場所は絶対に奪ってはいけない。何かを排除すると、結局はその何かに寝首を掻かれることになると思う。まさに彼ら自身のように。
 前に「ヤクザと憲法」というドキュメンタリー映画を観た時、ヤクザは確かに反社会的勢力に違いないが、放って置けば無差別テロを起こしそうな危険人物をある程度は律するような役目も果たしているのではないかということが透かし見えていると思った。それは実は人的なセイフティネットだとも言える。二十年以上も前、いわゆる氷河期の初頭に就職活動をしていた時、理想的な御託を並べていたら、「個人のやり甲斐なんてどうでもいい」「こちらは慈善事業じゃないんだ」みたいな主旨の説教を延々されたことがあるが(ちなみに、それは財団法人での体験で、民間企業では建前としてそういうことは言わないから、そんなにひどい扱いを受けたことはない)、僕はまさにあらゆる企業や団体組織は慈善事業だと思う。どんな人でも空間的あるいは社会的な居場所は必要であり、その受け皿たるべきだろう。もちろん、それは同時に、外部にとっては(内部にあっても)抑圧的・暴力的に機能することもあるわけだが。
 僕はとりあえず、どんな人の愚痴や言い分も聞かされれば聞くし、そう言いたくなる気持ちも推し量ってみるから、右からも左からも、すぐに何かの同志みたいに見なされがちなのだが、そのうち僕が少しも理想家ではないし、視点をずらそうとしたり、反対勢力をも庇い立てするのに流石に気がつく。そして、物分かりはよさそうだが結局は高みの見物をしている現状追認日和見主義者、あるいは弱者を甘やかすだけのサヨクの敵キャラ扱いされて、それ以上には進まないらしい。それはそれで若干もどかしい。ただし、僕が弱者やできない人を擁護したがるのは、自分がその中にカテゴリーに入り得る、あるいは入らさせるというよりも、身近な隣人だったからということの方が大きい。だから、身近な分、異端視もしないが美化する気にもならない。むしろ、過剰に批判的かもしれない。これが僕の素朴な資質であり立ち位置なのだろうと思う。
 しかし、対話を擦れ違わないように成立させるために本当に必要なのは、相手に対する徹底的な慈愛であり全肯定であって、それ以外にはどうすることもできないのではないか。とは言え、件の僕にはとてもそんな芸当はできない。そう試みたしても、煩悩だらけの僕には、ギコチなくてとても耐えられず、ストレスを溜め込んで潰れてしまうに違いない。いつも余計なことばかりしたがる。そこまでの自己放擲はできるのか。隣人意識を溶解できるのか。だから、ほとんど絶対的な慈愛の人、どんな人に対しても笑顔で最高のおもてなしができる人には、すごいと思うし、心底頭が下がる。ごく稀にだが、自己の宗派性に捉われない宗教家に出会った時、敬意を払わずにはいられなくなる。僕は神も仏もない人間だが、人はないがしろにしてはいけないとは思う。だが、もう一線越える瀬戸際で、どうも右往左往してしまう。