2019.2.17月

 〇一仕事終えてから、写真美術館の恵比寿映像祭に赴く。この催しに来るのは二度目だが、前回は駆け足で映像ホールに入っただけだったので、今回はじっくりと見歩く。ルイーズ・ボツカイ「エフアネへの映画」とカロリナ・ブレグワ「広場」をきちんと観る。「広場」は劇映画だが、細切れにされているループ映像を順繰りに観るという趣向で、単純にどこからでも見れるようにするだけではなく、途中所々で隣りの映像と音響が混交し、不意にシンクロしたりすることがあり、それには流石に吃驚して唸った。
 そして、映像ホールにて、牧野貴「Memento Stella」(2018)を鑑賞。素晴らしかった。彼の作品はこれまでにも、ほんの数作だけ観たことはあるが、あまり印象に残っていない。いずれも具象を抽象に加工したもので、ブラウン管の砂嵐みたいだなという程度の認識しかなかった。もっとも、僕は砂嵐は嫌いではなく、そういうものも面白がってずっと見入ってしまう口なので、一つの抽象作品としてよかったと感じていたのだ。しかし、今回この大画面で高画質の作品に触れて、僕の理解は全く表面的で、牧野作品の中核を何もわかっていないことを思い知った。
 彼が描いているのは、抽象ではなく、具象と抽象のあわいだ。一見したところ抽象のようだが、時々何かの現物に見える瞬間がある。観客はそれに気付いて、自分の想像力で思わず補完しようとする。しかし、具体的にはよくわからず、確信が持てないまま、移ろい行き変容する画面に宙吊りにされ、はぐらかされる。とは言え、あまりもどかしさを感じることはない。なぜなら、一方的にバンバン画面が切り替わるわけではなく、観客が推測したり発見したり納得したり断念したりできるような間や流れを、丹念に与えてくれるからだ。つまり、観客を放置していると同時に、寄り添っている。観客の想像力を突き放しつつ信頼している。これはめくるめく美や驚異を一方的に見せつけようとする凡百の実験映画とは、一線を画すものだ。そして、この冷たい優しさは旧作にも貫かれていた筈で、僕の眼はなんと節穴だったことか。これで彼があくまで具象を抽象にする手法も得心できたし、彼が世界的に評価される一端も理解できた気がした。旧作も、もう一度じっくり観なければ。
 僕は彼の作品自体はそれほど観ていないが、彼がよく主催していた上映会には何度か観に行っている。そこですごく印象に残っているのは、牧野の歯に衣着せぬ言い方で、ある時は外国の実験映画祭の主宰者に選定を依頼した作品を一通り上映した後で「海外での上映を意識してか、いかにも実験映画らしい抽象作品を集めてくれたみたいだが、これだけ似たような作品ばかりが続くと、流石に飽きますよね」とケロッと言って、同意見の僕はすっかり感心してしまった。その他、若き日の昔話として、日本のいわゆる実験映画業界の悪口を散々述べていたのも面白かった。一般的に言って、強力な個性によって小さくまとまっている組織や団体は、開放的だと謳っておきながら、えてして権威主義的で風通しが悪くなりがちだとの印象は受けるので、さもありなんと思ってしまった。
 もっとも、彼の毒舌にいちいち共感・賛同するわけでもない。例えば、彼はある時「自分はアニメはただの技法としか思わないので、アニメだけを取り上げることに意味はない。アニメ映画祭なんて、クローズアップ映画祭のように馬鹿馬鹿しい」と発言していたが、少しも賛成しない。むしろ、クローズアップ映画祭なんて、すごくいいじゃないかと感じ入ってしまった(似たような思いつきは前にも書いた)。映画によって人間の顔は風景として発見され、乱歩の言う「顔面芸術」として花開いた。その系譜を辿るなんて、なかなか面白そうじゃないか(先日のイメフォフェスで観た佐川一政の親族についてのドキュメンタリー映画の異様なクローズアップも忘れ難い)。もっとも、彼は人間の顔のことを言っているのではないかもしれないけれど。
 僕は基本的に、不平不満に限らず、言いたいことは吐き出した方がいいと思っているので、牧野さんのような人には、どんどん舌鋒鋭い発言をしてほしいと期待する。かく言う僕も予防線を張りがちな人間とは言いながら、最近は予防線を張ること自体が目的化しているような苦々しい対応ばかりが増えているとも感じるので、大した実害がない限りは、いろんなことを表面化して、波風が立った方がいいと思う。
 上映後のトークで、本人が登壇し、「コラージュを通じて、自分の限界や制約を超えることができる」云々と言っていた。なるほどその通りで、コラージュも侮れないと再認識させられた。

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 〇ちなみに、業界なるものの風通しの悪さという論点は、過去の話では済まない気もする。例えば恵比寿と実験映像の絡みで言えば、金坂健二の取り扱いについて言及したくなる。
 金坂と言えば、ウォーホルのファクトリーに出入りしていた唯一の日本人として知られ、六〇年代から華々しく多くの文化/映画批評を行なっていた。ところが、ある時期から馴染みだったメディアから忽然と姿を消す。その経緯は今となっては写真美術館の紀要に掲載の遠藤みゆきの評伝に詳しいが、「フィルム・アート・フェスティバル造反事件」の扇動者として糾弾され、主たる実験映画業界筋から放逐されたのだ。そして、それ以降、写真家としての地味な活動と、キネ旬(これはメジャーだが)での映画評、ウォーホル絡みで言及される以外にはあまり露出することもなく、ひっそりと亡くなってしまう。
 しかし近年、若干の個展が開かれた他、彼の遺族が写真や映像作品を写美に寄贈したのを契機に、その全貌が少しづつ垣間見えるようになった(先の評伝もそれを受けて書かれたもの)。写美でも所蔵する作品の展示がなされるようになり、僕もそれらが出品されると聞きつけて、その展覧会を覗いてみた。ところがその際、図録の見本を手に取ってみて愕然とした。金坂についての記載が一切ないのだ。たまらず受付や案内の人に、なぜ展覧会の公式図録に一人だけ出品作家の情報が抜けているのかと訊ねてみたものの、わかりませんとだけ言われた(学芸員ではないらしい)。それ以上の問い合わせはしなかったが、遺族かそれ以外の人が掲載拒否でもしたのだろうか。金坂は今も干されているのか。
 展示して黙殺するとは、公共施設のなんと微妙な政治性だろう。

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 〇その後、シネマート新宿へ移動して、フランシス・リー「ゴッズ・オウン・カントリー」(2017)を鑑賞。昨年のレインボウ・リールで上映されて話題となった作品。スパイラルで別の作品の前売りを買った際に、この作品だけは売り切れですと言われた覚えがある。そのことも念頭にあってか、その後自主上映のような形で数回上映されると聞き、行く予定を立てたものの、満席で入れなかった。そして今回、日本での配給が決まり、ようやく観ることができた。
 ところが、別段面白いとは思わなかった。これはバリー・ジェンキンス「ムーンライト」と一緒で、設定こそ珍しいが、筋立てとしてはありふれた自己肯定譚で、少しも大した話ではない。差別や抑圧を乗り越える話としても陳腐でつまらない。これまでほとんど扱われてこなかった人々や舞台を取り上げたことは意義深いし、奇を衒わないのも好感が持てるものの、高みの地点から、勝手に葛藤して勝手に解決するというだけだ。どうしてこんなに絶賛されるのだろうか。
 最近一番ヒットしたゲイ映画と言えば、ルカ・グァダニーノ「君の名前で僕を読んで」だが、これもそんなに大した作品ではないと思う。観応えのあるシーンは目白押しだが、一言で言ってしまえば、脚本で参加する巨匠ジェームズ・アイヴォリー年寄りの冷や水で、何を今さら同性愛を、男同士の友情を美的に讃えようとする文脈で肯定しようとするのかと笑ってしまう。もっとも、その頭の硬さは大昔のゲイ映画とも通底するし、過去を考える上では参考にならないわけでもないが、これを美しいと言って絶賛するのは、二重に抑圧された一昔前のやおい女子のノスタルジーみたいなものだと思う。
 近年観たゲイ映画の中で一番面白いと思ったのは、ロバン・カンピヨイースタン・ボーイズ」で、これは「BPM」の監督の前作だが、テーマが少しもセクシュアリティアイデンティティとならないのに驚嘆した。
 ゲイ映画にありがちなのは、抑圧された状況下で自分の性を見つめ、自己肯定するというアイデンティティ獲得の物語で、アルモドバルみたいにその手前で屈折する変化球もあるものの、多くはその範疇にある。グザヴィエ・ドランジョアン・ペドロ・ロドリゲスみたいに、そこを起点にしながら周囲に広がっていく話、あるいはギロディみたいに、その押し付けがましさに反発して攪乱しようとする話も、その延長上にあるだろう。いずれにしても、個人の映画だ(もちろん、個人的なことは政治的なことだが)。
 ところが、この作品に登場する東部ウクライナの少年はゲイであるかどうかまるでわからないし、それを問おうともしていない(流石にパックスの国の作品だ)。監督の関心は不法移民や難民であって、一見アイデンティティと関わりそうなのに、これを軽々と躱して、個人の内面の問題に回収したり振り回されることなく、直接社会性に向き合おうとしている。そして、高みの位置にあるわけでもない。この点、ファスビンダーの「自由の代償」を思い起こさせる。ファスビンダー作品は全然同性愛をテーマにしない同性愛映画、アイデンティティには目もくれないゲイ映画で、この構えのなさは実に驚異的で、今後ますます評価されることと思うが、「イースタン」は、「代償」ほど性やアイデンティティに冷淡ではない。ただ、問うていないだけだ。その一方で、次の「BPM」は、エイズ・アクティヴィストの行動と心情に真っ正面から向き合って揺るぎがない。この二作を同時に作れる幅の広さには敬服する。
 僕はゲイあるいはLGBT映画と言えども、もっと変わり種の作品が観たい。そして、個人性を突き崩すような作品を観たい。個人の心情に共感するかしないかだけでは駄目だと思う。また、美しさに溺れるだけでもいけないと思う。個人性や美しさの成立する基盤自体も問われなければ。「ムーンライト」や「ゴッズ」は設定だけは珍しく見えるが、普通の私的なゲイ映画でしかない。そもそも当人にとってはそれが普通であり日常なのだから、そんなことは当たり前のことだ。もちろん、日常はそれだけで重要なものだし、そうした作品が一つや二つは確実になければいけないが、それを珍しいとか美しいとかと言って褒めるのは、本当はお門違いだ。珍しいとか美しいと言うなら、それよりもっと異彩を放つ変てこな作品を目の当たりにしたい。

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 〇ついでに、金坂絡みで思い出したことを少々。
 金坂と言えば、日本で初めてキャンプの概念を紹介した人だ。僕はかつて知り合いに頼まれて、ソンタグのキャンプ論を批判したD・A・ミラーの論文を邦訳した折り、日本でキャンプの概念がどう受容されたかを調べたことがある。現在、参照できるものが手許にないので、うろ覚えでしか書けないが、その時思ったことをまとめておく。
 まずはミラーの論。キャンプはゲイ文化に由来する。ソンタグはキャンプという価値観を世界に知らしめたが、彼女はキャンプという概念を脱性化・脱同性愛化したとミラーは批判する。キャンプは確かに、エスター・ニュートンがドラッグ・クイーンの研究書「マザー・キャンプ」で考察したように、ゲイ文化とは切り離せない(普通あの人はキャンプと言えば、ホモだという意味になる)。なのに、ソンタグは定義できないとしつつ、次々とキャンプの事例を挙げて、例えばガウディや日本の怪獣映画までもキャンプに含めてしまう。ここまで拡張すると、キッチュと大して変わらない。彼女は病から隠喩を排除したように、エイズから同性愛の汚名を駆除し、そしてキャンプからもゲイネスを小綺麗に昇華して排除した。これがソンタグのお上品さだとミラーは揶揄する。もっとも、ソンタグは、だからと言って、自分のサブカル的な出自について隠しているわけでもないし、特に晩年は女性の写真家と暮らしていたことも知られているから、少々言い過ぎの感がしないでもない。ちなみに、ここら辺の議論は、誰かが「ユリイカ」か何かに書いているのを読んだ記憶があり、そこでは、ミラーがソンタグを批判するのはゲイ的なマッチョ志向の故だと批判する誰かの論文も紹介されていた。
 ソンタグのキャンプ論が邦訳されたのは「パイデイア」の筈だが、金坂はそれよりずっと以前に、日本で初めて紹介し、その概念を使って多くの文化批評を行なっていた。ただし、面白いのは、彼はソンタグが脱性化したそれを、努めて同性愛と結び付けて語ろうとしていることだ。これは一見ソンタグとは逆のようだが、印象は似通っている。というのも、彼がこれ見よがしに同性愛に触れると、元のそれが無関係なもののように思えるのだ。これは当時の時代状況でもあるだろうが、当時同性愛は時代の最先端の「記号」であり、それとなく仄めかして、煙に巻くものであり、そもそも脱性化されていたのだ(岡部道男の「貴夜夢富」にしても同様)。とは言いつつ、脱同性愛化されているわけではないから、外部からすれば、ゲイ・フレンドリーにも見えるだろう。ところが、金坂はキャンプが流行ると、それは時代遅れだと言わんばかりに否定的に語り出す。そして、それを捨ててしまう。結局、ソンタグの邦訳が出た頃には、キャンプは消費され尽くし、日本ではそのゲイネスは二重に否定されることになる。
 キャンプが再び世に出たのは九〇年代になってからだ。それ以前のキャンプ論とは完全に断絶している。それはゲイ・リブ、そしてゲイ・ブームの時代であり、とりわけ伏見さんと小倉さんがそれをまさに的確に広めようとしていた。伏見さんは「キャンピィ」、小倉さんは「キャムプ」と言う言葉を使っていたと思う。それはおしゃれ路線と言うべきもので、ブームに便乗しつつ、ゲイ及びドラッグ・クイーンを肯定的に語ろうとする試みだった。しかし、それはおしゃれである限り、結局は上滑りのままであり、知っても知らなくてもいい教養として、消費されただけという印象を受ける(それでも意義深いが)。これは侮蔑用語だったものを、文脈抜きに「クィア」なんてさらっと表記して見せるのと同様、ミラーが批判して止まないお上品さの典型だと感じる(ちなみに、昨今はドラッグ・クイーンと書くと不適切と言われるらしいが、そんな規範を主張するなんて、まったくドラッグじゃないと思う)。
 では、キャンプをどう語るのか。キャンプと言って、おしゃれに語っては、少しもキャンプではないと思う。日本語にどぎつく訳した方がいい。小綺麗なままでは、その凄味が伝わらないと思う。キャンプはドラッグ・クイーンの専売特許かと言うと、そんなことはない。レザー系のハードゲイだって、普通っぽいダサいゲイだって、キャンプでいい。なぜなら、キャンプは、そもそもホモの隠語だからだ。だから、それを包摂できるような表現はないものかと考えてみた。日本の文脈でいちばん近そうなのは、例えば小指を立ててホモを差したり、手の甲を頬に充てて「あっちの人」と言ったりするニュアンス、そしてそれを故意に肯定して見せる反転攻勢、これこそがキャンプだろう。そこで、キャンプを差し当たって「そちら系」とか「あっちっぽい」などと訳してみた。これは同性愛という観点では今では廃れて通用しない表現だろうが、当時そのように訳してみると、不思議と当てはまるし、ミラーのソンタグ批判も明瞭になると思った。あの人はあちらの人。母なるそっち系。あっちぽさについてのノート。ジャック・スミスはそっちっち。ラドンやガウディもそっちっぽい。ミラー論文の訳文も全面的にそう変えてみたが、あまりにやり過ぎでわかりにくいということで、元のキャンプに戻してしまったが。
 ドラッグ・クイーンの日本語訳も試みました。あばずれ小町、ばった女子、食わせ姫、かび女房、ずれあま。どれもかなり無理がある。