あいつの名はポリスマン

 先日、警察博物館について書きましたが、警察をめぐって個人的に体験したことの中から、特に印象に残っている事柄を二つほど紹介してみます。
 一つ目。
 今から十数年前のことです。父に貸していた自転車が盗難に遭ってしまい、現場近くの派出所(駅前に新設されたばかりの大きな交番)へ盗難届けの手続きをしようとしたところ、その自転車には既に届けが出されていると言われました。
 実はその自転車は、二ヶ月程前に、私自身がちょっと遠い駅まで行った折りに、一度盗難に遭っていたのです。やはり駅前の派出所で、すぐに盗難届けを出しました。ところが、その後二週間程してから、犯人に乗り捨てにされ、放置された店の主から「店先に置きっ放しにするな」との苦情の電話を貰い(番号は泥除けに書いてあった)、引き取りに行ったのです。その帰路、いちばん近場の派出所に行き、盗難手配解除の手続きをしました。
 私はもちろん、その旨を伝えました。ところが、解除された形跡はないと言うのです。ややあって、奥の方にいた痩せぎすの中年巡査がひょこりとやって来て、こう一言、「その自転車は盗難車だ」と。また最初から説明のやり直しです。すると、今度は「民間人が勝手に見つけちゃいけないことになっている。見つけるのは我々の仕事だ」ですって。「じゃあ、直接連絡を貰ったら、警察に引き取りに来てもらうんですか」と言ったら、これにはだんまり。以下の問答、「ちゃんと解除の手続きをしたんですよ」「盗難届けを出した交番で手続きをしたのか」「いいえ、盗まれた所は別の場所で遠いんですよ」「同じ所でやらなきゃいかん」「ちゃんと解除の書類を受け取ってもらえましたけど」「そういうのは同じ所でやるんだ。だから解除されないんだ」
 そもそも解除がきちんとなされなかったのは警察側の怠慢になるわけだから、この点を断固として突くこともできたのです。しかし、それ以前に、こちらが何か軽く抗弁したとしても、その巡査は「民間人が勝手にやった」式の責任転換で応酬するばかり。私はすっかり閉口、というより呆れてしまいました。こちらも随分なめられたものですが(それほど怪しい格好をしていたわけでもないのですが)、当方がそれほど怯まずに言い返し続けるのにうんざりしたのか、あるいはさらに言い立てようとする気に転じそうな気配を察知したのか、突然こう切り出しました。「じゃあ、こうしよう。結局はまた盗難に遭ったのだから、このままでいいじゃないか。辻褄は合う」
 最後の「辻褄は合う」という言い方にすごく引っかかりを覚えましたが、基本的に異存はありません。何度も書類を書かずに済みますから。そもそも最初から結論(落とし所)はそこしかなかったでしょう。問題は、こちらが警察の手続き上の不備を言挙げするかどうかだけなのです。しかし、そもそも早く蹴りをつけたかった私は、最初から、そのことに直接触れずにきたのです。にもかかわらず、ここまで辿り着くのに既に二十分以上、なんと長い道のりだったことでしょう。もちろん、空白期間中に防犯登録確認などされて盗難車認定されたらどうするのだ、などと思わなくもないのですが、父も私も偶々そういう目には遭いませんでした。
 それにしても、この警官はかなりぶっきら棒で、余計なことばかり言って、事態をこじらせかねないのに、その中でもちょっと偉い人らしく、周囲の巡査たちは誰も何も言わないのです(困ったなあという顔はしていた気がしますが)。いや、むしろ偉い人だからこそ、平気でそういうことが言えるのでしょう。しかし、何のための主張だったのでしょうね。面子を守るためですか。何の? 警察の? でも、かえって汚しているんじゃないですか。汚されるための面子? 汚されようと何だろうとまずは保持されるべきもの、それが面子や体面なのでしょうか(あるいは、汚されない相手というのを想定していたのでしょうか)。
 自転車はその二日後にちょっと離れた所に乗り捨てられていたのを、母が発見しました。解除の手続きは、先と同じ派出所で済ませましたが、例の巡査の姿は見掛けませんでした。ともかく、「民間人」という概念をこのように濫用する警察官が本当にいるのだということに、とても驚かされました。
 二つ目。
 正確なことはあまり覚えていないのですが、十年程前に、警察関係の吹奏楽団の演奏会に行ったことがあります。とある警察署内の店で働いていた近所のおばさんから、こういう演奏会に招待されたんだけれど、行けないからどうだろうかと言われたのです。こちらもそれほどの興味があったわけでもないのですが、ちょうど暇だったのと、会場が出来たばかりの公営ホールであり、中に入ってみたかったという理由で、行ってみることにしました。
 今から考えると、それは警視庁の音楽隊警察ではなく、警察学校関連の楽団だったように思います。事前に演奏項目の記されたパンフレットをもらっただけで、チケットはなかったような気がするのですが、この記憶も定かではありません。いずれにしても、行ってみたところ、いきなり門前払いを食らわされました。受付の若いお兄さん方(制服っぽかったか)に、「もう席がないので入れません」と、にべもない返事を頂戴したのをはっきり覚えています。どうやら元々席が用意されている招待客と、そうでない人との区別があって、後者は早い者勝ちで残り物の恩恵に与れるおまけの存在らしいのです。他にも入場を拒否された人たちが結構いましたから(通りすがりの飛び込み客もいたはず)。折角来たのに、警察は官僚的で敷居が高いんだな、と思ったと同時に、私は本当におこぼれだから仕方がないけど、ちゃんと招待された(らしい)おばさんが来ても、こういう態度を取ったのだろうかと思ったりしました。
 そうこうするうちに、演奏開始の時刻が過ぎてしまいました。仕方がないので、私は外観からでもその施設を眺めようと、そこら辺にしばらくうろうろしていました(その間も遅刻した招待客はチラホラ見えていました)。ところが、十分ほど経ってから、奥から受付に四十代くらいのサングラスの男性(私服姿)が現れました。そして、そこら辺に屯している者たちを見て、そのことを訊ねたようなのです。お兄さんが何か応えると、その人は突如として怒号を張り挙げました。「せっかく観に来てくれた人たちを追い返すとは何事か! 立見でいいから、入れてやれ!」と一喝。そこからの対応はものすごく早かったです。あぶれ者の私たち(残っていた十名ほど)は呼び出され、席は無いという条件つきで、全員すぐに会場に入れてもらえました。まさに救世主の到来です。警察は硬直した官僚組織だけど、やはり義侠の人がいるのだな、と思いました。と同時に、恐るべき縦社会だ、とも。
 会場はすごく大きな所で、なるほど席は満員。前方は制服姿の人たちで埋め尽くされていたと記憶しています。演奏の方は可もなく不可もなしというところでしょうか。ブラスバンドなのに、演目の目玉は、サン=サーンス交響曲第3番「オルガン付き」。その会場は大きなオルガンが設置されているのが売りの施設で(と言えば、どこだかわかりますね)、わざわざプロのオルガニスト(新進の女性奏者)を呼んで、共演しているのです。ところが、第一楽章が終った時、誰かが手を叩いてしまいました。途端にそれが広がって、割れんばかりの拍手喝采が起こりました。それが退くまで演奏はできません。遠目ながら、指揮者たちは困惑していたように見受けましたよ。つられてしまったとは言いながら、ここの客層はあまりクラシックを聴きつけない人たちばかりだったようです。
 さて、入場後、私は他の十数名の人たちと同様、後ろにずっと立ちん棒でいました。ところが、十分も経たないうちに、一人のおばさんが近づいて来て、何やら話しかけてくるのです。「私は用が会ってこれで帰らなければならないので、よろしければこの席に座ってください」と、こう言って、座席番号の付いた紙片を渡されました。おおお、ここにも救世主が! こうして私はありがたくも、すぐに席にありついたのでした。しかし、これは単なる僥倖ではなかったのです。結局、時間差こそあれ、われらがおこぼれ組は、同じような形で全員次々と席を譲られ、早いうちから立見客は雲散霧消していました。つまり、これはほとんど必然的な事柄だったわけです。
 そこは会場のいちばん後方に当たる連なりで、演奏者の家族の招待席として用意されていたもののようでした。だいたいがおばさんで、年配男性と小中学生がチラホラ、前の列にはオペラグラスで「お兄ちゃんはあそこだ」などと言い合っている姉弟がいました。私に席を譲ってくれたおばさんも、演奏者のお母さまなのでしょう。その家族の人たちは、その大半が、お義理というか、音楽的な関心があってここに来ているわけではないのかもしれませんが、しかしその誰もが、立見客を黙って見過ごせないという義憤の持ち主なのです。
 私は感動しました。警察官当人はどうか知らないけど(失礼!)、少なくとも警察官の息子や娘を世に送り出すような家族の人たちは間違いなく立派なのだ、と。そして、さらに思いました。このような立派な環境の中で育まれた人たちが立派でないはずはない、と。人を見かけで判断してはいけないと言いますが、人を当人だけで判断する必要もないのかもしれません。警官はやはり品行方正で決まりです。そう思うと、奏でられる吹奏楽の響きも、そして周囲の雑音さえも、品よく聞こえるような気がしました。
 演奏終了後、ロビーに出てみると、その楽団の歩みを綴った写真パネルが展示されているコーナーがあり、制服姿の初老男性や、いかにも上品そうなおばさまたちが熱心に眺めては、滔々と話し込んでいました。私は緊張感というより、一種の安堵感を覚えながら、感動の余韻にひたったのです。
 蛇足。
 と、ここまで書いて初めて、公人警官と義侠巡査が同一人物ではないかという可能性に思い当たりました。そう言えば、見てくれと気負いはとてもよく似ていたような。