発掘された映画たち

 あけましておめでとうございます。
 昨年8月後半から今までずっと、断続的に予期せぬハード・スケジュールに見舞われ、一度も更新できませんでした。でも、何とか再開します。書こうと思っていたことは、全て順繰りに書いていくつもりです。まだ(もう)半年以上も前の話題ですが・・・。気持ちとしては、2月までに追いつく予定。
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 (昨年)4月24日から6月1日までフィルムセンターで開催されていた上映企画「発掘された映画たち2008」が終了しました。
 フィルムセンターの数ある催しの中でいちばん楽しみなのがこの企画。埋もれてしまった歴史の奥底から、どんなお宝映像(特に無声時代の)が出て来たのだろう、と思うだけでわくわくしてきます。とりわけ戦前の作品は、無声・発声を問わず、可燃性フィルムの経年劣化の限界点が来てしまった中での復活ですから、まさに甦ったとの名に恥じない貴重なものばかりです。
 しかし、映画史に名を轟かすような名作や名品が、そう易々と見つかるわけはありません。前々回の『斬人斬馬剣』発見は流石にすごいと思ったけれど、今回は小粒もいいところでしたね。何せ当センターの一押しが、わずか2分の、現存する日本最古のコマ撮りアニメですから。その他、記録映画は別として、全米日系人博物館からの里帰り品や、伝説の収集家・安部善重氏の遺品などもありますが、これらもえらく小粒のような・・・・。もし安部コレクションから、本当に羅雲奎(ナ・ウンギュ)の「アリラン」や、溝口・大輔・小津・山中らの無声時代の作品が(断片だけでも)出てくれば、世紀の大発見となるはずだったんだけれど、やはりそうは問屋が卸しませんでした。
 プログラムをよく見てみると、新たに発掘されたわけでもないのに、編成上の都合上、紛れ込ませてみたというのもありますね。でも、こうでもしなければ、それらの作品はずっと上映され得なかったのかもしれないのですから、全くそれでいいのです。小粒もまたよし。羊頭狗肉も楽しみましょう。
 今回鑑賞できたのは、B級作品ばかり4プログラム7作品。全て5月中。


 吉村操「法廷哀話 涙の審判」1936大都/無声/67分(7日)
 山内俊英「怪電波の戦慄 第二篇 透明人間篇」1939大都/34分(7日)
 田坂具隆「月よりの使者」1934入江プロダクション/無声/98分(14日)
 丘虹二「由比正雪」1931河合映画/無声/58分(23日)
 後藤岱山「鐵の爪 花嫁掠奪篇」1935エトナ映画/45分(23日)
 石田民三天明怪捕物 梟」1926東亜キネマ/無声/52分(31日)
 高見貞衛「豪快 村越三十郎」1937甲陽映画/42分(31日)


 以下、適当な感想。
 「怪電波の戦慄」はSF的設定の冒険活劇の後編のみ。お気に入りの橘喜久子が「黒ダイヤのお咲」なる役で出演とクレジットされているので喜んでいたら、冒頭の第一篇のダイジェストのシーンにわずか数秒出て来るだけ。物語は目も当てられないほど子供だましで、殺人光線を発する操縦式の人間タンクと、発明者である老博士の美しい令嬢をめぐって、悪漢と好漢が争奪戦を繰り広げるという筋立て。しかも、アクション・シーンになると、何かと「天国と地獄」(運動会BGM)が流れるので、迫力も何もあったものではなく、拍子抜けすることおびただしい限り。人間タンクに怪電波を当てると透明になるという設定は、科学的というよりは、児雷也などの忍術映画の延長線でしかないのだけれど、まあ一応ロボット物なのだから、SFには違いありません。でも、これが現存最古の日本SF映画なのですかねえ(だったら、京都文化博物館の所蔵する尾上松之助主演の「弥次喜多 善光寺詣りの巻」(1921)というほとんど鑑賞に堪えない現存作品の末尾で、天狗たちが千里眼で遠くの風景を眺めるシーンの方が、よほどSFチックに見えたけど)。
 「月よりの使者」は入江たか子主演の大ヒット作で、今企画の目玉作品の一つ。入江たか子と言うと、私の母などはすぐに「化猫の人」と反応するのだけれど、元はと言えば一世を風靡した清純派ヒロインであり、その頃の作品をきちんと観てみたかったのです(溝口「滝の白糸」は未見)。本作では、複数の男たちから求愛される結核診療所の看護婦を熱演しています。しかし、作品自体はいまいちでした。なるほど入江たか子はすごく綺麗だし、飽きずには観ましたが、美談にするためのわざとらしい展開や語り口に少々辟易。また、この版は中央部が半分近く欠落、話がとんでもない飛び方をしていて、しばし唖然とさせられました(当センターの方で、痛んでいたオープニング・クレジットを編集・復元したのなら、物語が途切れる部分にも、わかるような区切りを入れてくれたらよかったのに)。入江たか子はすごく西洋人的な顔立ちで、宝塚というか、鳳蘭とか前田美波里みたいですね。彼女の自伝は所持しているはずなんだけれど、未整理の本の山のどこにあるのか不明で、ちょっと見つけられませんでした。
 「鉄の爪」はスリラー。8本しか作られなかったエトナ映画の、おそらく唯一の現存作品。しかも、連続活劇の真ん中の部分だけ。でも、かなり面白かったですよ。内容ははっきり言ってジュヴナイルの冒険探偵譚で、この回では、医学博士令嬢の誘拐を企んだ謎の怪人・鉄の爪(フック船長もどき)の正体が明かされます。明智ならぬ武智探偵(って絵本太功記かよ)が窮地に陥ったり、敵とも味方ともわからない黄金仮面(白黒だから色は違うかも)が不意に登場したりと、これはまるっきり、少年探偵団を抜きにした怪人二十面相の世界だな。役者陣は玉石混交で、所々、恐るべき棒読み、驚くべき芋芝居になるのですが、その昔に観たブルース・ラ・ブルースのニュー・クィア・シネマ『ノー・スキン・オフ・マイ・アス』(1990)みたいな気だるい趣きもあり、それが謎めいた雰囲気と相俟って、不思議と楽しんじゃいました。その他、名も無き悪の手先たちが妙にスタイリッシュで、格好いいのにも目を瞠りました。鉄の爪をあしらったロゴマークが左脇腹に入ったYシャツを全員着用、アクション中のネクタイの崩れ方なんかも様になっている。末尾のカー・チェイスや崖からの転落シーンも本格的。全体としての内容はしょうもないけど、細部と雰囲気が異様に素晴らしいという意味で、佐藤肇「怪談せむし男」(1965)に匹敵すると思う(うそ)。何度でも観てみたい(これはほんと)。
 「天明怪捕物 梟」は、快活で小気味よい時代劇。美しい染色版。監督の石田民三って、確か市川崑の師匠筋に当たる人で、後に撮った叙情的な作品で知られている方ですよね。この作品も、捕物劇というよりは、人情劇の要素の方が勝っているような印象を受けました。出演キャラとしては、主人公格の目明しや、覆面姿の義賊「梟」よりも、途中でちらっと出て来る怪優・団徳麿扮する怪老人にやはり圧倒されるのですが、個人的にはヒロインとして登場する売れっ子娘義太夫の容姿がすごく気になりました。髪の結い方・ほつれ方といい、着物の着こなし方といい、ひどく粗野で窮屈でムチムチしていて、現代の和装とは微妙に違っているのです。どこかで見覚えがあるような気がしたら、これは伊藤晴雨の責め絵に出て来る日本髪の女だ、と思い当たりました。晴雨の画を初めて目にした時、あまりリアリティを感じられず、かなりの違和感を抱いた記憶がありますが、実際にこういう風俗があり、こうした装いの女がいて、世の殿方たちの視線や欲望の対象となっていたんですね。水野悠子『知られざる芸能史 娘義太夫』(中公新書1998)によると、娘太夫は追っかけまで生み出した明治末期の書生たちのアイドル的存在で、私も当時の竹本綾之助(初代)の音源などを聴いてみて、なるほど昨今の女義の声音よりも多少は妖艶かなと思ったりはしたものの(年齢が違うしね)、太い声の義太夫語りには相違なく、これでよく時の殿方たちを熱狂させられたものだな、と軽いショックを受けた覚えがあります。美意識や官能の方向性は、時代性を抜きにして語るわけにはいかないんですね。
 「豪快 村越三十郎」は、豪放で粗忽な主人公のキャラ一つで押し切った戦国武勇伝。主演の羅門光三郎って、ほとんど高橋英樹ですよ。桃太郎侍ではなく、越後侍(越後製菓のCMに出来てくるやつ)の方ですけれどもね。
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 ところで、一昨年秋に長尺のインド映画に魅了されて以来、久しぶりに映画熱が再燃、今までにない勢いで、各地の劇場に通うようになっているのですが、そこでしばしば観客たちの怒号や小競り合いに遭遇するのには、結構驚かされました。
 フィルムセンター(の特に小ホール)の上映会で、散々並ばされた挙句、定員に達して入場できなかった人がきれまくるというのは別の話。同センターの対応や整理法に批判の余地はあるにしても、映画を観るために、こんなことは一度くらいは体験した方がいいと思うような事柄です(ちなみに、こうした状況を目撃できている私も、当然あぶれているわけですね)。
 ここで取り挙げようとしているのは、既に上映が始まっているというのに、それを妨害するかのように、凄まじい怒声が上がったりすることです。何事かと思っていると、「後ろから席を蹴飛ばされた」とか「鞄や袋を漁る音がうるさい」ということで、誰かがこっぴどく腹を立てているらしい。もちろん、それは当人(やその周辺者)にとっては由々しき事態に違いありませんから、何らかの対処をしようとするのは全く正当な行為です。しかし、相手方にちょっと注意を喚起すれば済みそうなはずなのに(おそらく、こちらが気づかないだけで、そうしている人も多いのだと想像しますが)、ひどく激昂して、ともかく喚き立てずにはいられないんですね。それで済むならまだいい方で、注意された相手が同じような手合いだと、すぐさま「(そっちこそ)うるせえ」「やってねえ(わざとやったわけじゃねえ)」と食ってかかり、その結果、怒号の応酬が、しばらく繰り返される破目になってしまいます。
 もちろん、ここで問題となるのは、本来ローカルな次元で解決すべき(あるいは解決可能な)トラブルを不用意に全体化してしまうという点です。ですから、これに憤った別の観客が、さらに「うるさい」と声を荒らげるのは(結果的に同じ穴の狢だとしても)全く正しいと言わざるを得ません。
 ともかく、その際にひどく気にかかるのは、この種のトラブルが往々にして、「この会場に来るな」とか「映画を観に来るな」とかいう捨て台詞で決着しがちになることです。つまり、相手の参与資格を問題にするという顛末に至りがちになるということです。しかし、これは完全な勇み足ですよね。要は、相手の行動を結果的に問い、修正を要求すれば(そしてその修正がうまいこと実現できれば)いいことであって、その内面や動機づけ、およびそこから推察される素質などは、さしあたってどうでもいい事柄ではないでしょうか。
 私は映画に一家言を持つ者ではありません。私は単純に、映画を楽しみのために観ています。つまり、娯楽だと思っています。娯楽映画だけではありません。芸術映画だって娯楽だと思っています。芸術だって楽しみの対象です。それどころか、人生だって楽しみであり娯楽だと思っています。到底そうとは思えないような人生であったとしても、そう言い切りたい気持ちでいます。だから、私は映画なんて、誰がどう観ても、どう楽しんでもいいと思っています。映画に一家言あったっていい、社会批評の出汁と捉えてもいい、鑑賞しながら眠り呆けても、飲み食いに興じたっていいと思います。公の劇場なんだから、みんな末席に座っているだけのことじゃないですか。ただ、誰がどう楽しんでもいいように、最低限の自由は確保(すなわち多少の負荷は覚悟)しなければならない、と素朴かつ頑なに思うだけです。
 ですから、この程度のことで、注意を与えるどころか、映画を観る資格や素質をいちいち問おうとするような行動に遭遇すると、実に怖い正義だなと感じてしまいます。こうした物言いや対応に接する度、内面の検閲をされているようで、ささやかな戦慄を覚えてしまうのです。
 思うに、そういう言動をなす方たちは映画が好きで好きでたまらない人なんでしょうね。しかし、映画愛にあふれる余り、自分の正当性が及ぶ範囲を認識していないとすれば、妄信的としか言う他ありません。映画館は宗教施設ではないのですからね(カルト映画や宗教映画についてはここでは問いません、それからピンク映画も)。これでは、ある種の愛国主義と一緒ではないですか。やはり愛好家気質(おたくスピリット)とナショナリズムは類縁なのかなと思ったりしてしまいました。
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 追記。ここで言及した松之助の「弥次喜多 善光寺詣りの巻」が、なんと廉価版DVDとして発売(2008年9月)されていることに気が付きました。吃驚です。
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 さらに追記。フィルムセンターHPの「所蔵映画フィルム検索」が3月末日をもって3年ぶりに更新され、その後新たに収蔵された作品の情報も見ることができるようになりました。ところが、そこでは「天明怪捕物 梟」の監督は、石田民三ではなく、原敏雄と記載されています。そもそもこの作品が2006年に初めて無声映画鑑賞会で復元上映された時には、石田民三は「原作・脚本」で、原敏雄が監督だと紹介されていました。しかし、実際の映像では、石田の監督だか演出とクレジットされていたような気が・・・。うーん、どうなのでしょう。(2009.5)