2019.1.9水

 〇オフィル・ラウル・グレイツァ「彼が愛したケーキ職人」2018@恵比寿ガーデンシネマ。ゲイを取り巻く軋轢と関係性をテーマにしたイスラエルの映画。
 僕はイスラエルという国のパレスチナ政策に全く反対で、この国や政権を単純に好きになれないのだが、イスラエル及びユダヤの文化は大好きだと言っていい。例えばユダヤの音楽は、これをイスラエルと括るわけにはいかないだろうが、その独特の節回しにすっかり魅せられている。とりわけ古典詠唱のカントールには目がなくて、大分前だが、大量のCDを当国から取り寄せたこともある。届いたCDはケースがバキバキに壊れていたし、またそのうち一度だけ荷物が行方不明になって大損をしたのだが(その時、業者に何度も問い合わせをしたが一切返事はもらえなかった)、無事に届いたものは期待に違わず、どれも素晴らしくて、圧倒された。
 まだ動画投稿サイトなどが存在あるいは充実していなかった頃、僕は中古CDショップをめぐっては、二束三文で売られているワールド・ミュージック系の輸入版をよくジャケ買いしていた。そんな中で出会ったのが、カントールの大御所モシェ・クセヴィーツキイの音源だった。これにはすごく衝撃を受けた。僕は元よりファドやタンゴやミロンガやショーロやサンバが大好きで、またジプシー音楽、ティンベッカ、マケドニア民謡、スラブ歌謡、アラブ歌謡なども、よくわからないままに(文字が読めないままに)愛聴していたが、クセヴィーツキイを聴いてから(そして、その広がりでアル・アンダルス音楽を聴くようになってから)、その淵源は全てカントールにあるのではないかと考えるようになった。そして、自分の好きな音楽が一気につながったように感じて、震え上がったものだ。
 映画では、フィルメックスで紹介されたエイフラム・キション「サラー・サバティ氏」が忘れ難い。この作品の舞台となったキブツパレスチナ人を追い出した土地ではないかと頭をよぎるし、それは到底無視できないと思うのだが、それでも、ここで表現される人間の親しみとユーモアと男女平等志向は否定するべくもない。映画史上の名作だと思う。
 「彼が愛したケーキ職人」は、ドイツ人の青年と、恋人だったイスラエル人の男が本国に残した妻との因縁をしっとりと描いた作品。フランシス・キングの「家畜」を思わせるような、ゲイとヘテロ女性との微妙な関係性を提示して、なかなか興味深かった。イスラエルの同性愛を取り巻く現状に対しても一定の理解が得られる。サスペンス・タッチの前半部も面白くて、グイグイと引き込まれた。がっちり体系の主人公も魅力的で、あの大腕で捏ねられた小麦粉の生地は官能的で、出来上がったものはさぞかし弾力に富んで美味しかろうと想像させる。
 同性愛を扱ったイスラエル映画は何本か観ている。ゲイ物だけに限定すると、イスラエル初のゲイ映画と言われる「アメージング・グレイス」、「密告者とその家族」の製作者たちによる売専少年たちのドキュメンタリー「ガーデン」、イスラエル人とパレスチナ人とのまさに禁断の恋を描いた「アウト・イン・ザ・ダーク」など。中でもいちばん吃驚したのがは「ガーデン」で、イスラエルにもこんな生活をしている人たちがいることは衝撃的であると同時に、妙な安堵も覚えたりした。大昔のイスラエル映画祭で観た「アメージング・グレイス」は、よく綺麗な男性ヌードのスチール写真で紹介され、また「イスラエル映画史」という大部のドキュメンタリー映画でもそのシーンを含めたシークエンスが画期的なものとして引用されているが、実際には、その光景は主人公の頭の中にある妄想としてわずかに出て来るだけで、全体としては、HIV感染して絶望した男が悲痛な面持ちで右往左往しているだけの陰鬱な作品だったと記憶している。それに比べると、「アウト・イン・ダ・ダーク」はゲイのセクシュアリティに真摯に向き合っている一方、それがいかに社会的に認められるものではないかをまざまざと見せつける。ほんの一握りの希望だけを残した上でのアンハッピーエンド(題名が効いている)。それが「ケーキ職人」に至ると、激しい抑圧は描かれるが、それだけでは終わらない道をはっきりと指し示してもいる(もっとも、これは同性愛をあくまで過去の追想としてのみ語っているという口実に守られてのことだろうが)。こうして並べてみると、少しずつながら、確実に解放的な状況に向かっていることがわかる。
 後の二つの作品は、日本の紹介に当たって、イスラエル大使館の後援を得られているのも意義深い(確認できないが、ひょっとすると「アメージング」もそうだったかもしれない)。もっとも、イスラエルの政権は相変わらずパレスチナに対して非道な政策を続けているにもかかわらず、反体制的でそれに抗議して亡命までしたアモス・ギタイの作品を、今ではイスラエル映画の名作として堂々と後援するくらいだから、軟化したのか、外向けの二枚舌なのか、内にいろんな温度差があるのか、容易に判別はできない。民主主義国家の体制で、信教の自由が保障されている一方(例えば、イランから逃れてきたバハイ教にしっかりと安住の地を提供する)、厳然たる宗教国家の政策を取り、イスラーム系の自国民に対して堂々と不当な待遇をする。また、世界中のユダヤ人を受け入れているようで、その中でのほとんど人種的と言ってもよい差別を放置したままにする。絶対的な真理がまず先にあって、現実を常に再解釈するのがユダヤ思想の特徴と言われるが(儒教なら捏造するところだが)、そこら辺の詳細をもっと幅広く知りたい。

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 〇その後、国立アーカイブに行く予定を立てていたのだが、少しだけ間があるので、そのうち行かなければと思っていた近場の写真美術館の「小さいながらもたしかなこと 日本の新進作家vol.15」へ行く。そんなに余裕があるわけでもないのだが、恵比寿はうちから行き勝手が悪く、また来るのは面倒臭いし、写真を観るのはそう時間が掛からないだろうと高を括って、急遽入ることにした。ところが、入ってみると、思いの外、映像作品が多くて、少々面食らった。仕方がないので、時間一杯だけ、観れるところを観ることにした。森栄喜、ミヤギフトシなど、ゲイ写真家の作品を中心に、異端視されかねない者たちの少しも奇をてらわない日常を淡々と捉えたものが多くて、好感が持てる。この二人の映像作品に一通り接することができたのはよかったが、特段の感慨は持たなかった。僕は奇妙なものが好きな一方、かけがえのない日常にもとても心打たれる人間だと思うが、どちらかと言うと、ダラダラと同じ時間を追体験できるようなものの方に深く入れ込んでしまう。だから、ちょっとおしゃれで都会的で、細かく切り刻まれているような映像は少々苦手で、そんなに好きという感じはしない。
 そう言えば、何年か前に、新富町のギャラリーで大木裕之の映像作品展が行なわれた折り、無料なのをいいことに、何日間か通って、大量の作品を鑑賞したことがある。ある日などは、開館時間の間、何時間も暗闇の中をずっと座り続けていたので、ギャラリーの人もさぞかし驚いていたことだろう。他に誰もいないからと、最後には僕のリクエストに応えて、観ていない作品をかけてくれたりもした。そして、ほとんどの作品を観ることができたわけだが、ものすごく体力を消耗し、相当に疲れた。そこで観た大木の(デジタルの)作品は、断片的な光景や人物の映像が幾重にも重なって、流れるように推移していくのが特徴だが、重なれば重なるほど映像が白っぽくぼんやりとなるし、またシーンそのものがすぐに消えてしまうので、たとえ目を見張るシーンがあったとしても、個々の光景への執着を許してはくれない。だから、すごくゆるやかで大らかな作品のように見えるが、観ている側は圧倒されたり引き込まれたりする以前に、なんだかペースを奪われているような気がして、ストレスで一杯になる。じっくり観続けるべきではないのでは、とずっと思い続けた。フィルムで撮られた初期のものとは違う印象だ。デジタル時代の映像インスタレーションを最後まできっちり見ようとする僕の姿勢は、やはり根本的に間違っているのか。しかし、そう判断できるかどうかも、とりあえずは観続けなければわからないが。ところで、近年の会田誠草間彌生などの現代美術家の映像作品を観ても思うのだが、こうした作品インスタレーションは、コンセプチュアル・アートとしての評価以外に、本当に美的に評価されているの? あるいは、本当にお金になるの?
 最後に展覧会の図録を確認しようと、ほんの数分、ショップに立ち寄ると、「OSSU」なる男性ヌード写真の小冊子がいくつか売られていた。希少だろうし、面白そうなので、いろんな作家の作品が含まれていて、とてもお買い得の感じがする号を、一点だけ購入する。作家ごとに別冊子に分かれているのが帯で繋げられている。参加しているのは、森、ミヤギの他、サイモン・フジワラ、題府基之、川島千鳥、野村佐紀子など。
 男性ヌードと言っても、基本的には日常の延長という感じで、全体としてはさらっとしているが、野村佐紀子の巻だけが突出して異彩を放っている。野村と言えば、荒木経惟の愛弟子で、官能的な男性ヌードを一貫して撮り続けていることで有名で、僕もそれなりに興味を抱いてきた。僕はアラーキーの作品のどこがいいのかさっぱりわからず、私写真だって大したことはないし、膨大な官能写真にしても女を客体としてしか捉えないひどい代物だという認識で、浅田彰の罵倒に近い評価に全面的に賛成なのだが(ついでに言えば、学生の頃、多木浩二の授業でアラーキーが絶賛されているのに接して、ひどくがっかりした覚えがある)、野村の作品も、男をはっきり客体視しているという点で、同じ衣鉢を受け継いでいる。僕は野村の写真を見て、いつも思い出すのは、東郷健による雑民の会のエロ写真やエロ・ビデオで、男をズリネタとしてしか見ていない煽情的なゲイ・ポルノだ。あるいは、かつて御徒町にあったアテネ上野店というポルノショップの狭い店内の壁一面にベタベタ貼られていた自作SMビデオのスナップ写真だ。どちらも卑猥な雰囲気が実によく似ている。それが森やミヤギなど、日常性の中から立ち上がるそこはかとない官能性とは決定的に異なる点だ(あるいは、鷹野隆大のように、男の裸体を前面に押し出しながらも、即物的であまり卑猥な感じがしないのと違う点だ)。
 東郷と野村で大きく異なるのは、被写体の眼であり視点だ。東郷やアテネの中の青年は、視点も定まらず、はっきり言えば、目が死んでいる。お金のために無理をして、こんないやなことをしているという感じがありありと出ている(そして、そのことが余計に欲望を煽っているように想定して撮られている)。それに対して、野村の中の青年は、しっかりとカメラを見据え、時には媚を売るような眼差しを見せる。これは野村との個人的関係、あるいは撮影者との権力関係を如実に示している。僕は基本的に、東郷も野村もアラーキーも煽情ポルノだとしか思わないが、野村はセクシストでありながら、ファロセントリズムをかろうじて逃れているように見える。そして、愛の介在を錯覚させる。その距離感が、野村の独自性であり、魅力であり、問題点なのだと思う。 

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 〇大急ぎで国立映画アーカイブへ移動し、工藤栄一「ヨコハマBJブルース」1981を鑑賞。この作品は十年ほど前にシネマヴェーラで観たことがあり、あからさまに男色をネタにしているので、吃驚した記憶がある。だから、強烈な印象に残り、結構細かいことまで覚えているのだが、三島を媒介に男色と右翼を結びつけた同時代の「狂い咲きサンダーロード」や「日本の黒幕」と比べても、ここで描かれている同性愛はなんともちぐはぐで、今一ぴんと来ないままの感じもあったので、いつかきちんと確認・整理したいと思っていたのだ。そして再見したわけだが、やはり何とも変てこな描かれ方で、ますます訳がわからなくなった(ということがよくわかった)。
 この作品に出て来る同性愛は、全くの借り物で嘘っ八だ。女に飽きて男に目覚めたハードゲイなる者が若干出て来るが、これはアル・パチーノ主演「クルージング」の表面をちょこっとなぞって見せただけ(かつて一世を風靡したその作品にしても、今からすれば、ゲイのセクシュアリティを一種の感染症と描いた噴飯物だが)。また、財津一郎演じるヤクザの親分の男色趣味の設定も、ちゃんちゃらおかしい。彼がお稚児さんに何を求めているのか、男らしくあってほしいのか、少年でいてほしいのか、ヤクザとして立ってほしいのか、一途な愛情を持ってほしいのか、淫らに煽情してほしいのか、皆目見当がつかない。というのも、製作者たちはおそらく、彼を不可解な奇人変人として周囲に見せつけたいだけなので、彼の性格や内面や心理だのには何の興味もなかったからだろう。いや、もっと積極的に、そう手抜きして描くことで、何の興味もないという風にほのめかしたいのかもしれないとさえ感じる。
 その一方で、松田優作演じる主人公とお稚児さんとの疎外された者同士の友愛が、過剰なまでに執拗に描かれる。まるでジェームズ・カークウッドの「良き時悪しき時」みたいな展開だ。その小説でカークウッドは、同性愛を汚れた大人による肉欲的なセクハラ紛いの悪として糾弾しながら、少年同士の性欲抜きの友愛を、ほとんど官能的なまでに美しく謳いあげる。しかし、BJと決定的に違うのは、カークウッドは抑圧的なアメリカ社会に生きるクローゼットのゲイとして、自分の性向をギリギリの所で肯定しようとしている点。つまり、クローゼットの構造を逆手に取って、手垢まみれの同性愛を否定して見せることで肯定するという離れ業を、真摯にやってのけている。それに対して、BJが対比・仮託しているのは、腐れ縁のような大人の絆と裏切りであり、主人公がそういう社会の不可解さや悲惨さや醜さから逃れているように見せかけたいだけで、個人の性愛や思いははなから眼中にない。同性愛は前景としてほのめかされつつも常にはぐらかされるという風に、二重に隠蔽、あるいは公然と隠匿されている。全てが格好つけだ。だから、この友愛には、タナトスも含んだ隠微な少年愛の背徳性が始終付きまとっていて、主人公の美化・聖化にも失敗している。それを性や友情の肯定と捉えることができるかどうかは大いに微妙だ。ともあれ、その点も含めて、当時の日本の同性愛表象を考える上では見逃せない作品だと思う。
 この作品の松田優作は息子の龍平とそっくりで吃驚した。今回観ても、BJの意味はわからなかった。
 備忘。同性愛ないしは同性愛者を扱った日本映画のリスト。実見したものに限る。
 男の部(薔薇族映画以外)。惜春鳥、薔薇の葬列、銀河系、猟人日記、白昼の襲撃、日本の黒幕、狂い咲きサンダーロード、ヨコハマBJブルース、女王蜂の欲望、牝猫たちの夜、悶絶!!どんでん返し、レイプ25時暴姦、桃尻娘、セックスドキュメント性倒錯の世界、二十歳の微熱、渚のシンドバッド、その男凶暴につき、闇のカーニバル、暴力人間、PRISM、THE DEPTHS、新宿ミッドナイトベイビー、カミングアウト、クレイジーラブ、バイバイラブ、錆びた缶空、ストレンジハイ。
 女の部。花つみ日記、野戦看護婦、汚れた肉体聖女、女ばかりの夜、その場所に女ありて、歌ふ狸御殿、踊る竜宮城、美しさと哀しみと、番格ロック、続レスビアンの世界愛撫、淫獣教師、西北西。