2018.12.31月

 〇職場で大きな揉め事があり、複数のパートのおばさんたちから長いこと愚痴を聞かされ続けるが、少々厄介な状態になり、ちょっと困惑する。
 僕は普段から、いろんな人の不満や愚痴を個人的によく聞かされる。その理由を自己分析すると、おそらくはこんなところだろう。僕は古株だけにいろんなことに通暁していて、事実上、上の立場の人間になっているが、その割りには偉ぶっていないので、話を上げやすいのだろう。また、僕は基本的に、人の話の中には、その人のこれまで歩んできた経験が詰まっているはずで、それはかけがえのないことだと考えているから、どんなことでも一通り耳を傾けたいと思うし、ことさら苦痛には感じないので、あまりいやな顔もしない。そして、僕は時々だが、上下を問わず、ズケズケと人の批判もするので、この人なら言っても大丈夫だと思わせるところがあるのだろう(逆に警戒されもしようが)。そんなわけで、いろんな人たち(と言っても、特定の人だけだが)の溜め込んでいた告白を聞かされる。まるでカトリックの神父みたいだが、決定的に違うのは、当人は自分の行いを悔い改める気などなく、そのほとんどが不満や他人の悪口をまくし立てるだけだということだ。しかし、時には面白い話もあるし、ずっと秘めていたことを聞かせてくれるというのは、これまで知られていなかった有用な情報を含んでいるものだ。これによって正すべき事柄、例えば、少しでも先輩で優位に立っている人間が次第に手抜きをするようになって後輩に仕事を過剰に押しつけている実態が発覚したりもする。もっとも、内容の大部分は、はっきり言うと、些末な事柄だと言うしかない。ただ、そうして誰かに話すことですっきりするみたいだから、話を聞いてくれる人がいるということは、それだけでも有効で、決定的に必要なことだと感じる。
 そうして散々愚痴や不満を聞かされ続けて、個人的に驚いたことは二つ。一つ目、どうして皆こんなに言葉にこだわるのかということ。僕は基本的に、言葉は言葉でしかないと思うので、どんなことを言われたとしても、それほど気にはしない。だって、そんなの、ただの言葉尻じゃないか、と思ってしまうから。もちろん、最初からそうだったわけではないが、今ではもう、どんなにひどいことを言われても、あまり感情を揺さぶられない。そんな僕からしてみれば、ほんのちょっとした言葉や言い方によって、傷ついたり、怒り狂ったり、誤解や勘違いをしたり、衝突したりして振り回されている。大変な辛苦を労してまで。言葉や言葉尻に囚われ過ぎだ。その割りには、言いたいことを言ってしまうと、現状が変わったわけでもないのに、それで済ましてしまったりもする。大昔に読んだラカン派の本に、無意識を意識化(言語化)することこそ問題を解決することだと書いてあった覚えがあるが、言葉に囚われているからこそ、自分で言語化することが必要なのだろうか。言葉には言葉で解決するしかないのだろうか。
 二つ目。これは結局は一つ目と同じ言葉の問題であり文化の問題だが、どうして皆こんなに一律の平等意識と返報の原理を信奉し、見返りにこわだり続けるのかということ。愚痴の大半は、はっきり言って、妬み・嫉み・やっかみである。しかも、その理由づけは大体同じで、同じ時給をもらっているのに、同じ条件なのに、同じ人間なのに、あの人は優遇されている、依怙贔屓されている、自分は冷遇されている、自分だけ仕事を多くさせられている云々。あるいは、こっちはこれだけのことをしてあげたのに、これだけの気を遣ってあげたのに、向こうはそれだけのことを返してくれない云々。つまり、本来同じであるはずのものが同じになっていない、釣り合っていないことに対しての不満と憤りだ。こうした同一性と返報の発想や主張には、結構辟易する。
 僕は基本的に、人は皆違うと思っているから、別に人と同じにしようとは思っていないし、そうなっていないからと言って、何とも思わない。世の中にはいろんな人がいて、何かができる人もいれば、できない人もいる。それに向き不向きもある。そのことは理不尽かもしれないが、現実とはそういうもの。だから、時にはできる人は(多少のことなら)できない人の分までやればいいだけの話じゃないか。もちろん、できない人とやらない人に対してでは条件は異なるし、どこまでやるのかという程度の問題はあるにしても、どうしてそんなことで、いちいち嫉妬し、憤らなければいけないのだろう。見返りの計算に囚われ過ぎだ。もっとも、ここでもし比較対象の相手がすごく謙虚に下出に出るなどの行動を採っていれば、そうした感情は往々にして一時的にごまかされるので、問題はよく先送りされるのだが、きっちりと釣り合っているわけではないから(さらには、その釣り合いの幅が人によってまちまちで、こっちも釣り合っていないのだが)、結局は再燃する。
 こういう時には、平等だの対等だのいう文言が、すぐに一つ覚えのように出て来るのだが、そのことにもすごく違和感を覚える。そもそも平等や対等というのは、現実に機能している差別的・抑圧的な権力構造のひずみを正すために設定された戦略概念であって、それそのものが真理として実在するわけではない。なのに、どうしてそれを錦の御旗のように、こんなに簡単に、行動の原理や根拠として吹聴できるのだろう。ましてや、その主旨とはおそらく逆を向いているのに(どちらかと言えば、人を排斥するつもりで使っているのだから)。もちろん、不正やひずみを正すのは重要だし、それゆえ僕も原理原則を押しつけるパターナリトを自認しているが、そんなものは画に描いた餅だ。理想や原理に縛られるなんて、本末転倒。大体すぐに平等だの不公平だのと言って、人間を一律に扱って、同一性と返報の原理を持ち出す人は(この点では戦略概念として活用しているとも言えるが)、その言葉とは裏腹に、自分の現実の立ち位置に無自覚なのがほとんどで、自分が実はある面では優遇・特別扱いされ、その状態を既得権益化していることを棚に上げていることが多かったりする。だから、そういう愚痴に対しては、その言い分を認めた上で、だったらあなたにも平等の原理を適応して、これをしてもらわないといけないねとやんわり言い含めると、大抵はお茶を濁す(濁しもしない人もいるけど)。
 一応こちらの密かな思いをわかってくれそうな人に対しては、大体こう言う。その言い分はもっともだが、それは実は些細なこと、つまらないことだと思う。そんな細かな計算式にいちいち反応して、一喜一憂するのは勿体ない話だ。もっと重要なこと、大切なことがあるはずだと思うし、そっちに労力を使った方がいいような気がするけど云々。すると、「私はそんな悟りの境地に達していないし、悟りたいとも思わない」というようなことをよく言い返される。なるほど、僕の言っていることは、まさに仏教のお坊さんみたいで、我ながら、仏教のものの考え方にすごい影響を受けていると思い知らされるが、大分後になってから、結局は僕の言う通りだったと言われることもままある。余談ながら、こうした愚痴や嫉妬に遭遇する度に思い出すのは、昔ながらの宗教的な言説だ。そこでは、現行の不平等や不公平に対する不満があっても、「悪いやつは地獄に落ちる」とか「良い行ないをすると極楽往生できる」とか言って、返報の埋め合わせをすることができる。現実で報われないまま死ぬことになっても、「来世では良いことがある」と言って、無念さの帳尻を合わせることができる。逆に言えば、そうした人間感情を懐柔するために、こういった世界像が設定されたのかなと思う。僕は何度も、まだ宗教的な権威がまだ生き残っていて「他の人の分までやってあげれば、功徳になって救われるよ」と言うことで納得してくれるなら、どんなにか楽だろうと思ってしまう。
 さて、今日散々聴かされたのは、一人のおばさんをめぐってのこと。その人は全く悪い人ではないが、ある種の社会性がざっくり欠落していて、そのために節々で摩擦を起こしてしまう。最初のうちはまだ新人だからということで見逃されてきたが、時期を経て、大分馴染んでくると、こういうことが表面化する。それが今日、ついに爆発した。ちょっとしたことがきっかけで、その人に対する悪口を、複数の人から、休憩時間に二十分以上も聞かされてしまう。もう少し寛容になってほしいと思うものの、その内容はいちいち御もっとも。別に反論する余地もない(ただ、「あの人のすることが通用するなら、こっちだってその程度のことしかやらない」という落ちをつけるのはいただけない)。ところが、今回はその後で、当人が僕の所へこっそりとやって来て、「あの人たちは私について何を言ったのか教えてくれ」と血相を変えて迫って来た。僕がしばらく唖然としていると、「私に悪い所があれば、直しますから」と言って、エンエン泣き崩れた。
 はてさて、どうしようかと僕は考えてしまった。個々の行動については、彼女にはこれまでも幾度となく注意をしている。問題は最早、それ以上の領域に入っている。もちろん、今耳にしたばかりの罵詈雑言を言うつもりも必要もない。かと言って、あなたの話はしていないと嘘を吐くのも白々しい。仕方がないから、とりあえず「あなたが辞めるという噂があるが本当かと訊かれたので、知らないと言った」と答えた。これは本当に出た話で、彼女が一部の人にそう漏らしているのを僕は承知していたのだ。彼女はそれを聞くや、泣くのを止め「なあんだ」と言って、すぐに気を取り戻したように見えた。そして、涙声ながら「誰にも言わないでって言ったのに」とブツブツ呟くのが聞こえた。僕はその瞬間、わずかな安堵を覚えると同時に、強烈な違和感に襲われた。そして、僕はやはり自分が思っていることを言うべきではないのかと迷った。
 彼女は最初、何事に対しても謙虚で、上品な人という印象を受けた。ただし、とても依存気質の人で、何でも自分から率先してやろうという気概はなく、すぐに人に頼ろうとする所が目についた。また、失敗して注意されると、それをすごく気にかけて、落ち込み、半べそをかいたりした。そうなると、こちらも多少は気が引けて、あまり無理強いはさせないし、きついことも言わなくなるのだが、ともかく気が小さくて弱い人、そしていささか困った甘ったれとだけ思っていた。
 ところが、次第にそれでは済まない人だとわかり始めた。彼女は一見、何事に対しても腰が低く、おしとやかに見えるのだが、その実、自分本位の、強烈なナルシストだった。他者への配慮や自己反省を根本的にはせず、何でも自分の都合のいいように変形してしまう。だから、他人に迷惑が掛かっても、きちんとした謝罪ができず、言訳をするか半べそをかくかで自己正当化して、次第に周囲の反感を買ってしまう。例えば、注意して怒った人のことも「今日は機嫌が悪かったから」などと言いふらして、基本的には他人のせいにする。いちばん困るのは、彼女はやるべきルールをきちんと守れないということだ。きちんと守っているようで、いつの間にやら、自分のやりやすいように勝手に変えてしまう。それが見つかって、たしなめられると、「知りませんでした」「教わっていませんでした」と言って、半べそをかく。そして、グズグズ落ち込んで終わり。だから、彼女は何度も同じ過ちを繰り返し、たしなめられる。何らかの記憶障害かと思えるほどだ。
 彼女は失敗の度に落ち込んでいるが、どうも演戯でもなく本当に落ち込んでいるように見える。しかし、それは単に自己陶酔しているだけのことらしい。だから、彼女は自分に自信を持っていない、か弱い人のようだが、実のところはすごい自信家で、何でもできると素朴に信じているようだ。だから、忘れたり失敗したりしないように事前に策を講じるということをほとんどしない。そうした方がいいと提言しても、わかりましたと言って感謝して見せるが、結局はやらない。その癖、自分より後から入って来た仕事仲間が出来ると、すごく先輩面して、あれこれ指図しようとする。自分が場の中心でいたい仕切り屋でもあるのだ。しかし、ルールをしっかりと理解しているわけではないので、しばしば後輩に間違ったこと、余計なことを言って、よからぬ事態を招いてしまう。
 僕の職場にいる人は、物品や道具の扱いがぞんざいで、よく物を壊すが、彼女はいちばんその頻度が高い。それはその物に対する特徴や弱点を意識して使用していないためだ。人ばかりではなく、物に対する配慮や想像力も欠如している。ただ、そうして物を壊した際にも、彼女はそれをいたく気に掛けて、例によって落ち込んでいる。そんな折り、彼女の破損したものを、僕が修理したり新品と交換したりして元に戻すと、気持ち悪いくらい感謝されるのだが、その感謝の仕方もやはり自己本位的で、自分が抱えていたわだかまりを解放させて、自分だけすっきりしているだけで、それによって他人にどれだけ迷惑が掛かったのか、僕がこの後始末にどれだけの労力を費やしたのかということには考えが及んでいない。
 通常は何事もなく、それなりの仕事もできるのだが、突然こちらが驚くようなへまをやる。また、後輩に対して混乱させるような情報を広める。それをたしなめられて、半べそをかき、グズグズ落ち込む。しかし、しばらくすると、また似たようなこと、あるいは全く同じ過ちをする。その連続で、周囲も次第に彼女にうんざりして、彼女を爪弾きにしてしまう。それでも彼女は、火に油を注ぐように、周囲の反感を買うような振舞をする。自ら進んで地雷を踏む。彼女にきつく当たる人は、彼女は悪意を持ってそんな行動を起こしているのだと言い張るが、おそらくそうではない。平気で地雷を踏む人は、地雷があるとは思いもしないからであって、別に腹黒いわけではない。せいぜい泣きついたり媚びを売ったりすれば、許してもらえると経験的に知っているくらいだ。しかも、それは一部の男にしか通用せず、一部の女からの反感を余計に買うことになるのだけれども。
 要するに、彼女は僕よりはるかに年上なのに、全くの子供なのだ。そう言えば、僕が小学生の頃、こうした振舞をしがちな子供(嘘泣きっ子とか)がクラスに一人や二人はいたような気がする。とは言え、人間は成長するものだ。通常ここまで人生を積み重ねれば、どんな出発点であっても、いろんな体験をして、他者と向き合って、そこそこの社会性を身に着けると思うのだが、そういう機会はあまりなかったのだろうか。僕はまるで小学校の担任の先生にでもなった心境で、自分のことも振り返りつつ、どんな家庭環境で育ったのだろうか、親の顔が見たいと思ってしまう。
 しかし、今さら、どうにかできるのだろうか。そもそも「私の悪い所を言ってくれ」という時点で、自分と向き合うつもりも覚悟もないことがわかる。謙虚なようでいて、責任を全てこちらに押しつけているのだから(もちろん、それが精一杯の誠実なのかもしれないが)。彼女に僕が本当に思っていることを言っても、おそらくすぐには理解してくれないだろうし、その前に深く傷ついて、グズグズ泣き出してしまうだろう。大昔に読んだアボットアボットの奇想小説で、平面世界に暮らす二次元人が、三次元人に連れられて、上から自分の世界を見せられ、気が狂ってしまうのを思い出す。きっと彼女も、真実を目の当たりにして、ボロボロに泣き崩れて、収拾がつかなくなってしまうだろう。しかし、彼女はそれに耐え、立ち向かうよりは、演戯や自己陶酔の方向に、すぐに逃げ出してしまうような気がする。そして、結局は辞めてしまうに違いない。ただし、僕がそうしなくとも、このままの状態が続けば、いつか同じ結果になる。
 しばし迷った挙句、僕は結局、それ以上のことは何も言わなかった。これからの業務に支障を来たすこと、彼女が明日にでも辞めると言って今後の予定(特に年始の)が大幅に変更になることを恐れたからだ。さしあたっての現実を採ってしまった。なるだけそうならない言い方はないものかと考えてみたが、その時は、そんな言葉を見つけられなかった。休憩時間も終わろうとしていた。気を取り直して、辞めるという噂の真相を訊ねると、確かに一時期そう思っていたが今は保留なのだと言う。そして、こちらの反応を窺うような哀願の眼差し。なんだ、これもはったりなのか。全く性懲りもないし、ズルい逃げ方ばかりをすると感じた。僕は自分が口を噤んでいることについては、そんなに悔やむ気持ちはなかったのだが、その後、彼女がいつまでも、自分が内緒にしていた秘密が広がっていることを気にし、誰が漏らしたのかを問題にしていることがひどく腹立たしくなり、憮然として「秘密や情報というのは、自分の都合のいいようにコントロールできるものじゃないんだから、そんなことで腹を立てるのはお門違いだ」みたいなことを、幾分か叱責気味に、口に出してしまった。
 いずれにしても、何も解決していないから、これからも紛糾は続くだろう。一連の仕事が終わった後、やはり彼女にはきちんと言って聞かせないといけないだろうと思い直した。例えば、こう。「あなたは守り事に対する意識が低い。だから、それをよく破って失敗する。そして、それを繰り返している。また、守り事と同様に、周囲の人々への配慮もなく、自分の都合だけで行動している。それで人間関係をこじらせている。あなたは人に感謝するのは得意だが、謝罪するのは苦手で、いつも避けようとしている。しかし、感謝とは違って、謝罪はすぐにしないと事態を悪化させるから、そこから逃げて後回しにしてはいけない。そこがあなたの短所で弱点だ。そこを直すように心がければ、この職場はもっと楽しくなるはず」。きっとこれでも彼女はオイオイ泣き出すだろうが、仕方がない。そして、泣くなら、きちんと泣いてほしい。年上のおばさんを捕まえて説教をするのは気が引けるが、次に同じようなことがあった時には、躊躇なく言うことにしよう(と自分に言い聞かせる)。