2018.12.31月(続)

 〇大晦日なので、今年観た映画のベスト。個人的に心奪われてしまったもの。初見のみ。観た順。


 ・諏訪敦彦「2/デュオ」1997
 ・タウィー・ナ・バーンチャーン「サンティとウィーナー」1954
 ・リノ・ブロッカ「マニラ 光る爪」1975
 ・柳澤壽男「風とゆききし」1989
 ・岡部道男「クレイジーラブ」1968
 ・チャトリ・チャラーム・ユーコン「タクシー・ドライバー」1977
 ・きうちかずひろ「鉄と鉛 STEEL & LEAD」1997
 ・ダミアン・マニヴェル「パーク」2016
 ・三浦大輔娼年」2018
 ・マーロン・ブラント「片目のジャック」1961
 ・吉村廉+古賀聖人「虹の谷」1955
 ・コンスタンティネ・ミカベリゼ「私のお祖母さん」1929
 ・エミール・バイガジン「ザ・リバー」2018
 ・レオン・レ「ソン・ランの響き」2018
 ・ラヴ・ディアス「悪魔の季節」2018
 ・大西秀明「悪坊主侠客伝」1964
 ・アーネ・スックスドルフ「幸せは遠い雲の下に」1965
 ・ニック・デオカンポ「オリバー」1983
 (次点)イバン・コトロネーオ「最初で最後のキス」2016


 こんなに列挙できるなんて、今年は収穫が多かった。こうしてみると、僕がどういうものに魅かれるのか、朧気ながらわかる。強く生きようとする個人が社会の袋小路に陥って緊張感を強いられる姿に、心揺さぶられてしまうらしい。
 「最初で最後のキス」が次点なのは、この作品に致命的な欠陥があると考えるから。この映画は部分的にはとても魅力的で、特に主人公のゲイの青年の愛くるしい表情が素晴らしいのだが、それがこの作品の主題を踏み躙っていると感じる。本来このテーマなら、主人公はいかにもいやな奴で、観る者の反感を買うように見えながらも、それがそのまま次第に魅惑的になって共感してしまうという過程を経てなされるものだろう。だから、主人公がこんなにイケメンで最初からキュートだと、全てのことが綺麗事にしか思えなくなる。ベトナム映画「ソン・ランの響き」なら、それを素直に楽しんでいい。また、全編が美形少女漫画みたいなドイツ映画「僕の世界の中心は」は、重々しい設定ながら、まさにそれを十二分に堪能してと言わんばかりの演出に溢れて、小気味よい。しかし、このイタリア映画については、テーマを大いに裏切っていると感じるので、作品としては手放しで称賛できない。
 かつてフランス映画祭で「西のエデン」が紹介された時、監督のコスタ=ガヴラスが来日して、質疑応答を受けたことがある。その際、司会者の女性が「主人公の違法難民の青年が様々な困難をくぐり抜けることができたのは、イケメンだったことが大いに預かっていると思いますが」みたいな感想を率直に述べ、ひどく吃驚したのだが、監督はかなりムッとした表情になって、強く否定・反論していた。しかし、映画内にも冒頭部分で、わずかながらも、そういう展開があるのだから、少しも説得力がなかった。僕はその時点では知らなかったが、主人公を演じていたのはイタリアではかなり有名なイケメン売れっ子俳優で、その後観た何本かの映画にも、鳴り物入りで出演していた。だから、彼の起用は思い切り狙ってのことだったのだろう。もちろん、訴えたい現実やテーマがあるにしても、興行的にという以上に、広く観てもらわないと意味がないから、客寄せパンダを活用したいという事情もわかる。しかし、そうなると、やはりそれなりの見せ場も作らなければいけなくなる。だから、それは諸刃の剣。どっちに転ぶかは微妙なところだ。華はいいが、華があればいいというものでもない。
 今年いちばん考えさせられたのは、タイ初のカラー長編映画「サンティとウィーナー」で、ここで描かれるタイ人のものの考え方には、結構衝撃を受けた。この作品には心底悪い奴が出て来て、僧院で暮らす盲目の少年に執拗に嫌がらせをするのだが、怒りに震える主人公に、師匠の高僧はこう諭す。「悪い人間は業によって悪いのだから、その人を責めてはいけない」。この発想にはすごく吃驚した。
 日本人の感覚では、業というと前世からの因縁で、個人の運命を縛る抑圧的な枷みたいなものというイメージがある。だから、どうしようもない悪人ならば、変わりようもないのだから、徹底的に罰してしまえという議論にもなり得るし、それで終わってしまうような気もする。ところが、ここでは、そのこと自体に良いも悪いもない。実に自然体の受け止め方で、抑圧として機能していない。捉え方がまるで違っている。問題の中心は常に人間の側にある。運命にではない。タイ人は人を責めるよりも、自分の功徳を積む方が大切だと考えるとよく言われるが、これも同じような人間中心性、自分中心性に拠るのだろう。そして、おそらくその発想が、テーラワーダ仏教の神髄なのだろうし、微笑みの国と称されるような、独特のゆるやかさを生んでいるのだろう(僕はここでつい自分の身勝手な父親の逆説的な寛容さを想起してしまう。あるいは、僕自身の姿勢についても)。この結果としての寛容さ・ゆるやかさは、やはり貴重ですごいと思う。
 もちろん、そんな微笑みの国と言えども、悪いことは起こるし、タブーもある。他のタイ映画を観れば、タイ人はベトナム人を目の敵にし、ラオス人やイサーン出身者を田舎者と馬鹿にし、南部のムスリムに過剰な恐怖心を抱き、カンボジア人を得体が知れない者として気持ち悪がる。また、一般人の堕落には平気でも、出家者の堕落は決して許さない。ゆるやかさの土台を揺るがすものに対しては、不寛容なのかもしれない。
 いずれにしても、異文化を学ぶことで、自己の文化の輪郭を浮かび上がらせることができる。そのためにも、映画や文学は大切に鑑賞しなければと改めて思った。
 ところで、「私のお祖母さん」という邦題はひどくないか。いくら解説でその言葉が「後ろ盾」の意味の隠語だと説明されても。だったら、最初からそう意訳すればいいのに。ちなみに、この作品は旧ソ連時代のグルジア映画だが、今ではグルジアジョージアと表記しなければいけないらしい。当人たちがロシア語読みされるのを忌避しているからとの由。そのため、少し前に、ヨーグルトの商品名さえ変わってしまった。もちろん、その思いは尊重すべきだが、だったら、内名のサカルトヴェロにした方がよかったのでは。