2019.2.7木

 〇先日、バルト9のラテンビート映画祭のチケットを買おうとしたら、Uネクストというネット映像配信社の会員になると無料になることがわかり、一か月間のお試し無料会員になったのだが、これまで見逃してきた作品がたくさん視聴できるのにつられて、契約解除するのをつい怠ってしまった。それから結局、映画館派の僕は何の作品も観ていないのだが、ポイントだけは溜まり、しかも間もなく失効してしまうので、急遽どこかの劇場でポイント鑑賞することにした。しかし、スケジュールの合うもので食指の動く作品はそう見つからない。ようやく新宿ピカデリーで上映される『ハバールの涙』『パシュランギおじさん』『夜明け』のどれかに絞ることに決め、最終的に午前中にしか掛からない『夜明け』に行くことにした。ところが、この劇場はネット上ではチケット購入ができない仕組みになっており、仕方がないので、例によって母親のスマフォを借り、面倒な手続きや認証をした挙句、ようやくチケットの手配ができた。
 そして、広瀬奈々子『夜明け』を鑑賞。先のフィルメックスで上映され、世評の高かった作品。世捨て人となった青年の彷徨と触れ合いと摩擦を描く。前半の謎めいた雰囲気もいいし、後半の緊迫感も素晴らしく、なかなか観応えのある力作だった。こうした微妙な人間関係を丹念に救いげるのは、とても重要で、好感が持てる。また、主人公の青年のみならず、そうした人物をある意味勝手に受け入れてしまう側の事情も照らし出しているのが素晴らしい。ただし、率直に言って、僕は主人公が自分の過去を捨てる動機づけには少々驚かされた。それは確かに苦しいかもしれないが、ここまで自己否定するほどのことではないのではと感じたからだ。
 僕は自分の職場での体験でもそうだし、最近の日本映画を観ても時折りそう思うのだが、この手の人物たちは、どうしてこの程度のことで、すごく傷ついて、すぐに関係性を断ったり、世を捨てたりできるのか。これは一種の勘違いであって、もう少し我慢してみればいいのに。僕も弱い人間でいつもくよくよしているが、それにしても、あまりに免疫力が無さすぎやしないか。ちょっと引いた所や別の角度から見てみれば、世界はそんなに狭いものではないのに、とつい言いたくなってしまう。あるいは、そういう自分以外の視点に立って世界を知ろうとするのは、そんなに困難な(いやな)ことなのかと思って、ある種のもどかしさやじれったさを覚えてしまう。これはおそらく、同時に、僕の思い描くような社会認識が一方的に否定・無視されているかのように感じられるためでもあろう。
 しかし、よくよく考えてみると、これは一方的な物言いであって、どんなにつまらなく思えることでも、当人にとっては大問題なのだろうから、他所からとやかく言うことは野暮かもれない。今の若い世代は全体像が定められた世界の中で狭い所に安住するように雁字搦めに縛られているのかもしれない。現状の位置に留まって、そこを掘り下げたり突き崩したりするのも一興だが、そこをさっさと見限って新天地に行くのも一興で、例えそれが安易に流れたり、結果的に間違っていたとしても、大海(つまり想像だけではない世界)を知る立派な契機には違いない。あるいは、同じような所でぐるぐる回ることになったとしても。だから、今の日本には、勘違いも含めて、そういう人が普通にいて、そういう人の考え方や行動や挫折感が共有できるもの、リアリティあるものとして作り手たちに映っているというのなら、そう受け止めるしかないし、歓迎して見守っていくしかない。ケータイもスマフォも使わず、ネットもたかだか十年前程度に始めたような僕みたいなアナログな輩は、幸か不幸か、もう相当に古い世代になってしまったようだ。
 作品の途中で、主人公の青年が飲食店で、いわゆる「使えない人」に二度遭遇し、その人が失敗を責め立てられ、ついには逆切れするのを目撃するシーンがある。この場面は、青年が自分の置かれている状況を改めて省みる契機となっている。一方的な目的主義の価値観に自分の生が規定されていることへの怒りと共感、そしてそれを彼のようにぶちまけることのできないもどかしさ。この意味では、彼も閉ざされた世界の中でずっと我慢してきたことがわかる重要なエピソードだが、その人(『丸』や『小さな声で囁いて』で主役だった人だね)の登場場面はそれだけで、その後のことは描かれない。もっと話が広がるのかと思っていたら、そうではなかったので、これにはちょっと拍子抜けして、残念だった。