2019.1.19土

 〇あちこちで映画を四本鑑賞。
 まずは、長谷部安春「皮ジャン反抗族」1978@国立アーカイヴ。最初この作品を観る予定はなかったのだが、折角時間があるからと思って駆けつけたもの。ところが、なかなか素晴らしかった。別にすごい傑作とも思わないが、ここで描かれる主人公の人物像が、外見的にも内面的にも、僕が昔から憧れるような理想型にはまっていて、思わず引き込まれ、すごく癒されてしまった。先日の「オリバー」にも僕はかなり癒されたものの、現実の苦々しさがどうしても残って辛いが、こちらは虚構としての安心感がある。これからいやなことがある時はこの映画を観ることにしよう。あるいは、観れると思って安心することにしよう。
 続いて、松田優作主演のテレビドラマ「死の断崖」を観たが、これは全くの期待外れ。その後、阿佐ヶ谷に移動し、帯盛迪彦「ヤングパワー・シリーズ 大学番外地」1969@ラピュタ。京橋から阿佐ヶ谷へはすごく遠く感じるので、普段ならこんな移動はしないのだが、この作品を観るには今日しか機会がなかったのだ。
 僕は隆之介時代の峰岸徹の大ファンなので、彼の主演作・出演作はなるだけ観たいと思っている。とりわけ「赤木圭一郎の再来」と言われた大映時代の初期は、本当に格好よくて、惚れ惚れしてしまう。東宝の峰健二の頃はまだ子供で幼すぎるが、大映の再デビュー以後は体を鍛えて見違えるほどで、赤木よりも魅力的ではないだろうか。闇を裂く一発、出獄四十八時間、殺し屋をバラせ、講道館破門状、どの作品も素晴らしい。正直に言って、哀愁のサーキット、ザ・ゴキブリ、混血児リカさすらいひとり旅、鬼輪番など、大映以後の作品は、主演作と言えどもあまりパッとせず、大して面白くない。しかし、名画座などで彼の特集上映が全く組まれないことが不思議で仕方がない。
 この「大学番外地」はシリーズ二作目で、峰岸は主役ではないし、そんなに出番があるわけでもない。しかし、巨大な大写しが度々出て来て、じっくり顔が拝めるので、そういう意味ではすごく楽しめた。ただ、このクローズアップはいささか破格で、ちょっと吃驚させられる。子供の頃に読んだ「天才バカボン」に、見開きを全部使ったクローズアップのコマを配した実験作があったのを思い出した。また、江戸川乱歩が探偵作家としてデビューする以前の草稿で「映画とは美しい人間の顔を鑑賞するための顔面芸術だ」と論じているのも納得する。もちろん、もっと大昔には「裁かるゝジャンヌ」という金字塔があるのだけれど、この当時ですら、こんなに顔だけを大きく写したものは、そうそうないのではないか。まあ、顔の部分を異様に引き伸ばして、気持ち悪さを煽っている石井輝男の「異常性愛記録 ハレンチ」はあるにしても。
 内容的には、学生運動特有の理屈の応酬が、この作品の見所であり魅力だ。もちろん、徹底して皮肉として戯画化されている。しかし、反差別や反抑圧の理屈が容易に差別や抑圧に転化するところなどはよく描けていると思う。「リーダーを求める心情は間違っている」などという台詞は、理屈に強い憧れを抱いていた一昔前の僕がいかにも言いそうなことで、結構身につまされる。学生運動家が小賢しい理屈を捏ね繰り回すところでは、しばしば場内から笑いが起こっていたが、僕はあまり笑う気にはならなかった。やはりこういうことを笑い飛ばしてはいけないと素朴に思うから。もちろん、それは失笑なのか嘲笑なのか自己卑下の苦笑なのか、よくわからないけれども。
 その後、渋谷に移動して、「未体験ゾーンの映画たち」の中から、ポルトガル映画ディアマンティーノ」@ヒュートラ渋谷。少し風変りな作品だろうと思って、興味を覚えて観る気になったもの。しかし、何だかごちゃごちゃしていて、それほど大した作品ではなかった。観た後で吃驚したのは、主演のイケメン俳優が「熱波」の主役だったこと。ということは、この人は草月ホールで行われたポルトガル映画(「パッション」という監禁映画など)の上映会で来日し、御目にかかったことがあるはずなのだが、ほとんど記憶にない。つまり、失礼ながら、僕はこの俳優の顔と名前を覚えられない。この人は確かにイケメンだが、僕には日本のデパートによく置かれている白人のマネキン人形にしか見えない。無味乾燥というか無特徴というか、クローン的な美しさで(だからこそ、この作品の設定には合致しているのだろうが)、とりたてて印象に残らず、素通りしてしまう。僕はそんなにポルトガル映画を観ているわけではないのに、こんなに遭遇するとは、本国を代表する俳優で、相当の売れっ子なのだと思うが、僕のこうした認識は個人的な趣味や偏見か。それとも、ポルトガル文化の美の基準や状況を反映しているのだろうか。まあ、そんなに大袈裟な話ではないかもしれないけれど。

2019.1.15火

 〇シエマヴェーラにて、日本のミステリー映画を三プログラム四本鑑賞。一つは日活だが、後は新東宝・大宝・日米映画と、いずれも新東宝絡み。こうしてまとめて観てみると、僕はプログラム・ピクチャーとしては、新東宝の作品がいちばん好きなのだとつくづく思った。丹波・天知・沼田・細川・国方伝などのお気に入りの俳優の姿が見られるし、また大蔵体制以降のB級C級作品のえげつなさにも思わず引き込まれてしまう。ざっくり言えば、東映大映はマンネリだし、東宝や松竹は予定調和的、日活はおしゃれ過ぎて、意表を突かれることが少ない。何より驚かされたい僕には、新東宝が打ってつけなのだ。
 とは言え、それ以前のいわゆる文芸作品にも秀作が多くて、そちらにもすごく興味をそそられる。ちょっと前に観た「虹の谷」も素晴らしかったが、とりわけ松林宗恵の「人間義魚雷回天」はとんでもない傑作だった。僕は基本的に戦争映画はあまり好きではなく、どんな作品を観ても、何らかの引っ掛かりを覚えるのだが、この作品の視点は、人間の複雑な思いを丹念に掬い上げて、奥が深くて、敬意を払わずにはいられない(もちろん、敵の姿が全く描かれないという批判はその通り)。そういう作品が生み出される素地や度量が新東宝には元々あるのだと感じる。
 ずっと見る機会を逃していた大宝作品「黒い傷あとのブルース」は、褪色がひどくて白黒にデジタル処理されているとの由。つまらない作品だろうと思っていたら、そこそこ面白かった。主演の牧真介(ここでは真史)は、中山義秀原作の「少年死刑囚」で大型新人としてデビューした日活俳優で、「洲崎パラダイス 赤信号」にも出ていたと記憶している。「少年死刑囚」を僕はフィルムセンターの田中絹代特集で観たが、信仰の逆説をえぐった作品として、「シークレット・サンシャイン」に匹敵する傑作だと思った(ただし、最後に主人公がへつらうように笑う演出には多少の疑問も感じなくもない)。だから、牧のこともとても印象に残っているのだが、そんな彼が結局大して売れないまま(一時期テレビで活躍していたらしいが)、こんなチンケな役所に流れ着いていたのかと思うと、一抹の虚しさを覚える。
 宇津井健主演の「警察官」は、後で調べてみると、十年程前に観ていた作品だとわかったが、観ていたことも含めて、何も覚えていなかった。筋立てとしては全くの子供騙しだが、出演者たちの立居振舞にやはりしびれてしまう。当時のメモ書きでは、僕はこの作品に低評価を与えているのだが、それは女の描き方があまりにひどくて、反感を覚えたからだと思い出した。この作品の池内淳子は全く浅はかな振舞をして、恋人の宇津井を窮地に陥れてしまう。女とは可愛いけど馬鹿な存在だということが、当たり前のように描かれる。戦前のマキノの推理劇「待って居た男」も、女の浅はかさなるものが堂々と立論されて幻滅させられるが、そのひどさといい勝負だと感じた。
 そう言えば、同じく宇津井主演の「スーパー・ジャイアンツ」の一作でも、科学者を脅迫する目的で悪人に誘拐された娘が縛られ、さらし者にされた時、ぎゃんぎゃん泣き喚いて、ひたすら見苦しい態度をとり続ける。おそらく今のヒーロー物であれば、子供だとしても正義側の人間がこういう無分別な行動をとることはまずあり得ないだろうが、子供とはこういうものだという認識がこの当時は頑として存在していたのだろう。ちなみに、僕は川島雄三の「青べか物語」が大好きなのだが、一つだけ不満なのは子供の扱い方で、作中で重要な役割を果たしているにもかかわらず、悪ガキの一群として、遭遇した群棲動物のように一絡げに描かれる。そこには何の個性もなく、子供は記号の束でしかない。女子供に対するそういう扱い方が、昔の日本映画にはふと現れることがある。おそらく後期の新東宝には、雑多な中で、それがいちばん剥き出しでさらけ出されている感じもする。
 その流れで忘れ難いのは、韓国のアニメ「テコンV」だ。僕は復元された第一作だけしか観ていないが、マジンガーZそっくりの巨大ロボットやマッハゴーゴーと似たような顔立ちの主人公など、日本のアニメをそのままトレースして作られているのに、まずは唖然とさせられる。しかし、それより驚かされるのは、作中人物の行動パターンであり、描かれ方だ。完全に適役の北朝鮮、醜い日本人が卑怯な真似しかしないのは、別に大したことではない。何よりも仰天したのは、主人公の恋人役の女の子の方だ。彼女は正義側の博士の愛娘なのだが、改心し悪の組織を裏切って主人公と親しくしようとするアンドロイドの少女に対して、あなたは所詮人間じゃないのよと平然と言い放ち、差別をする。もちろん、最後には取ってつけたように反省して和解をするものの、日本のヒーロー物ではあるまじき展開だ。その高慢ちきぶりは韓流ドラマに出て来そうだし、現代のナッツ姫のようでもある。ここにはあからさまな門地差別、そして女はそれを平気で公言し改心できるという女性蔑視が複雑に入り組んでいる。正義の観念の捉え方も違う。外観は日本のアニメの盗作ながら、中身は全くのオリジナルで、易々と看過できない。
 単に共感や蒙を啓かれるということだけではなく、反応や違和感を通じて、自己について、あるいはいろいろな文化や時代や視点について考えさせられること。これがいろんな時期、いろんな国の映画(や文学)に触れる効能であり醍醐味なのだと思う。B級も含めて。いや、B級こそが。
 日活「白い粉の恐怖の」の中原ひとみは怖かった。

2019.1.14月

 〇夜遅く、仕事の後、日本橋室町までてくてく歩いて、ブライアン・シンガーボヘミアン・ラプソディ」@TOHOシネマズ日本橋。今大ヒットしているフレディ・マーキュリーの伝記映画。職場のおばさん連中もかなり観に行っていて、良かった良かったと絶賛するものだから、その熱気に促されて、流石に観る気になった。今日はサービス・デイで割引がある日だが、折角だからと、初めてドルビー・アトモスの音響システムの上映会に入る。
 一応面白かった。確かに、ライブ・エイドなどの再現されたシーンは臨場感があって楽しめる。また。フレディに関する様々なエピソードもわかって、ためになった。彼がペルシャ系のインド人でゾロアスター教徒だったなんて、まるで知らなかったし、他のメンバーとの友情や確執や緊張関係も理解できた。
 僕は学生の頃、ちょうどフレディがエイズを公表してすぐに死んだ直後の辺り、いろんなジャンルの音楽を聴きつけていた友人から大量のCDを借りまくり、特にハードロック系の音楽をたくさん聴かせてもらったが、その筆頭がクイーンで、彼はとりわけ「オペラ座の夜」を賞賛していて、「ボヘミアン・ラプソディ」の転調がたまらないと大絶賛だった。当時の僕には、まだその良さがわからず、前作「シアー・ハート・アタック」の洗練された普通のロックの方に入れ込んでいた。そして今、改めてクイーンの音楽に触れてみると、中期の一皮剥けたような弾けっぷりのどれもこれもが素晴らしくて、自分の不明を恥じるしかない。そして、彼の見る目の確かさに頭が下がる。
 それにしても痛感したのは、時代の変化だろうか。このような作品が作られるに至ったのは、エイズやゲイに対する嫌悪感が徹底的に相対化できるようになったからこそで、まさに隔世の感がある。二十年前なら、とても考えられなかったことだ。昨年のノーザン・ライツ映画祭で、トム・オブ・フィンランドの伝記映画を観た時も、すごく吃驚させられた。アングラのズリネタ画家の生涯が従軍体験も含めて丹念に描かれていて、とても感動的だった。トムは今や、国を代表する芸術家という扱いなのだそうだ(きっと反発もあるだろうが)。フレディも、日本でこそ人気が高かったものの、本国では概ねイロモノ扱いだったはずで、死ぬ時の報道もスキャンダラスで散々だったと記憶している。
 ただし、この映画自体は、それほど大したものではないと思う。ライブのシーンは素晴らしくてよく出来ているが、だったら本物の映像を観た方が圧倒的にいい。そちらの方が、フレディの魅力的な気持ち悪さというか、エグ味のある色っぽさが、遥かに堪能できる。筋立てもあまりにすっきりしているので、話をざっくり端折ったり、事実を多少は都合よく改変しているような気がする(その点では、トムの映画もそうかもしれないが)。ただ、クイーンの熱心なファンなら、そんな瑣末なことにこだわるよりも、再現性にほくそ笑み、素直に夢中になれるのではないか。そういう優しさが全編に満ち溢れている。
 とは言いながら、多少の疑問がないわけでもない。周囲の人の絶賛の嵐を見ていると、別に水を差そうとは思わないものの、何だか簡単に感動し過ぎだと、すごい違和感を覚える。この作品はエイズやゲイへの偏見や差別や嫌悪感に批判的でなければ成り立たないと思うが、確かにそれらの罠から脱してはいるものの、そこを深く問い詰めるというより、まるで最初から無かったかのように、さらっと描かれている。だから、観客は少しも苦しむことなく、高見の視点に立って、物語の中を素通りできてしまう。もちろん、マイナスよりはゼロの方がいいに違いないし、そのことは全く悪いことではないが、かつてHIV感染者の死を見届けたことのある僕などは、ついこう思ってしまう。そんなに感動しているけれど、二十年前にエイズ患者を差別していなかったと言えるのかと。あるいは、今でも言えるのかと。例えばエイズ・アクティヴィストを描いたフランス映画「BPM ビート・パー・ミニット」とは違って、そういう観客への緊張感が、この作品にはほとんど欠けている。ただクイーンの素晴らしさに感傷的に没頭できるだけ(時には啓発される人もいるかもしれないが)。だから、大ヒットするのだろう。

  *

 〇余談。ちなみに、この映画の周辺で覚えた違和感は、「世界に一つだけの花」を聴いた時の印象とよく似ている。僕はマッキーやスマップのこの曲が大の苦手で、この歌を耳にしたり、絶賛する人に接すると、結構うんざりしてしまう。
 ここで歌われているのは「個性や多様性を大切にしよう」ということで、そのメッセージそのものには、別に異論はない。むしろ、素朴に素晴らしいことだと思う。しかし、その主旨とは裏腹に、この歌の物言いや世界観は、ひどく単一的で窮屈だと感じる。そして、僕はどうにもその狭さに入り込めないでいる。
 まず引っ掛かるのは、比較が優劣づけが、基本的にいけないものとされていること。これには結構吃驚する。だって、比較とは、そもそも個々の事柄をより際立たせるものであって、個性が個性としてはっきりと認知・発揮されるのは、まさに比較・分析によってではないのかと思うから。別に近縁なものでなくてもいい。全く無縁のものと比べるのも、思いがけない発見があって、ためになる。比較とは言わば、個性を輝かせる鏡みたいなもの。だから、個性を認めようと言っておきながら、比べることを否定的に語るなんて、自分の首を絞めるようなものではないか。
 比較がいけないのは優劣づけと連動しているかららしいが、その考え方にも少々驚かされる。確かにそれらは繋がっているだろうが、重要度の格づけは必要だし、個々の価値判断も決定的に大切なことだと思う。それもまた、個性を輝かせる重要な因子の一つだ。だから、思い切り優劣をつけても構わないと思う。もちろん、そうすることで、個人を全人格的に判別し、差別するとしたら大問題だ。しかし、比較・分析とは、所詮は作為的に切り取った一側面でしかないし、要はそのことに自覚的であればいいだけの話だ。ところが、この歌では、そうした一連の行為は、「一番になりたがる」卑しい心情に自動的に結び付けられて、一緒くたに否定されてしまう。むしろ、その発想に見られる無自覚な決めつけの方がよっぽど差別的なようにも感じる。
 おそらくこの歌の主旨は「人間は比べることで優越感や劣等感を抱いて駄目になるから、そうならないようにしよう」と言いたいだけなのだろう。しかし、それは比較を優劣づけのためにし、優劣づけを自己顕示欲のためにすると思っている人、あるいは、優劣づけで人を差別する気のある人にしか通じない話で、世の中には、そんなことに関心のない人もごまんといる(と思う)。そして、この歌は、そんな人々のことを、ちっとも想定していない。もちろん、この曲は最終的には、そんな無欲な人になりたいと願っているわけだが、その念願とは裏腹に、比較や優劣づけを一絡げに足蹴にすることで、そんな人の存在を、はなから無視しているように聞こえる。理想化されたものは存在するはずがないと決めてかかっているかのように。つまり、実際には、様々な個の存在を、ないがしろにしているのではないか。
 続いて引っ掛かるのは、何とも他人任せなところ。個人(あるいは自己)の判断や行動が、この歌では、きちんと評価されているようには思えない。改めて言うと、この歌によれば、世の人々は過酷な競争社会の中で、ナンバーワンになりたいと、あるいは、ならなければいけないと思わされている。競争の概念に囚われて、疲弊している。そして、本当はそうなる必要などないのだと、そこからの解放を訴えている。なるほど、そうした圧迫的な状況は、切実な問題として現実にあるのかもしれない。しかし、だったら、そこからさっさと降りてしまえばいいだけの話で、例えそう求められたとしても、追従しなければいいし、そう思わなければいいだけのことではないか。
 もちろん、そうした振舞は、一種の違反行為だから、多少の苦しみを伴うことにもなるだろう。ところが、この歌では、そういう行為が推奨されることはなく、自分からそう決断する気負いもない。個人の裁量で決断することはなく、皆で一緒にやろうというノリで、外からそれとなく後押ししようとするだけだ。これはやはり、背反の苦痛やペナルティを予想しているからで、それを回避させるために、個人が際立たないような体裁を踏んでいる。その主張は、周囲からうまい具合に、あたかも集団的あるいは没個性的に聞こえるようになされている。自己決断はあからさまに見えては困るのだ。つまり、この歌は、周囲に同調しがちな人・したい人に向けて、目立たず傷つかずに同調し行動してもらうことを当て込んでいる。だから、その聴き手は、ある種の外圧に、共感するしか選択の幅は与えられていない。その点で、様々な個の動きをあらかじめ封じているようにしか思えない。
 それは、ひどく矛盾に見える。競争を強要される現実。そういう同調圧力があるという現実。でも、同調ってことは、皆と一緒、均一になることであって、自己主張することではない。だから、競争して一番になることとは、本来的には釣り合わない。むしろ、競争をしないことの方が、同調と親密のように思える。そもそも同調で競争をするなんて、おかしな話ではないのか。だとしたら、それは偽の競争、あるいは、高が知れている競争ではないのか。いや、そんな御膳立てされた競争なんかよりも、同調の方がよっぽど問題ではないのか。にもかかわらず、競争の同調を、同調の手法で否定して見せる。改革や主張はずっと忌避されたままだ。しかし、それでは、同調しか残らないではないのか。
 ここに来て、僕はすごく恐怖を感じる。世の人たちは、こんなにも競争の概念に囚われており、しかも、その競争は同調によって煽られている。日本はそれほどまでに過酷な競争社会、いや同調社会なのか。さらには、そこから脱しようと思っても、比べること自体を拒否し、「ナンバーワンにならなくてもいい」との忠告に追従して、同調を計らなければいけない。競争すら呑み込む同調、競争以上に強圧的・根源的な同調の中で、人々は生きている。改めてそう思い知らされて、聴いていて、そら恐ろしくなってくる。
 もちろん、ここで競争への同調圧力に屈しない(同調しない)でいることは、所詮は個人的な力業でしかなく、そうしたからと言って、競争や同調そのものが変わるわけでもないから、せめて競争だけでも構造的に緩和されるのなら、次の同調にこぞって(つまり集団的に)身を委ねた方が、遥かにいいような気もする。その方が多少なりとも社会の構造には手を付けることになるのだろうから。つまり、急進ではなく漸進主義的に、理想の現実化を図ろうとする考えがあってもいい。ただし、それがいかに現実的に有効であっても、底が知れたものに違いない。その中では、結局のところ、競争や同調に屈しない発想は、見逃され続けることになるだろうから。同調による同調否定は、同調にも理想にも無関心でいられるだろうから。
 その点でやはり怖いと思うのは、率直に言って、この曲には、自己批判や反省、あるいは恥じらいがほとんど感じられないこと。競争社会への反省はある。ただし、その反省はどことなく牧歌的で、競争からの脱却の視点が持てたことへの喜びの讃歌に覆い尽くされている。素晴らしい理念に関与できたこと、そういう視点を発見できたことで自分だけ安心して、いい気分になっているだけのように見える。個の大切さという論理に自分だけ癒されて、重荷から解放されて(当人にとっては大切なことだろうが)、それで済ませているのではないか。もちろん、それ以上の広がりを持てれば素晴らしいことだ。しかし、むしろその理念やアイデンティティ固執し、それを絶対的なものとして崇める方に容易に転化しそうな気がする。そして、ある種の理想を自分(たち)だけの安全圏に排外的に囲い込んでしまうような気がする。
 というのも、これまで述べてきたように、この曲は内容的には、はっきりと個の大切さを歌っていながら、その対象は実は一絡げで、様々な個をほとんど想定していないからだ。登場人物はあらかじめ選別・特定されている。この歌は、ナンバーワンになったり、人を蹴落としたりすることを強要され、そのことに実はうんざりしている人たち(しかも、自分ではみ出る勇気は持たず、外からそう言ってもらわなければいけない人たち)にしか向けられていない。それ以外の人はこの世にはいないのかと思ってしまえるほどに。だから、まかり間違って、ナンバーワンになりたいと思う人などは、ここでは爪弾きにされるか、狂人扱いされそうな勢いだ。僕は別にナンバーワンになろうとも思わないが、なりたい人がいてもいいし、むしろいてほしいと思う。同調なしの競争だだって、いくらでもあるだろう。そして、そのことも認めないといけないと素朴に思うだけだ。
 個や多を尊重するなんて、実はとんでもなく大変なことだ。なぜなら、自分と違う意見や嫌いな相手も、真摯に認めなければいけないのだから(同調したい人・する人も含めて)。ところが、この曲の中では、その過酷さや矛盾や苦しみが、ある種の個人が少しだけ解放されるために、のどやかに覆い隠されている(かろうじて認められるのは一歩踏み出そうという自助努力だけ)。みんながそれぞれに才能を持ち、花を咲かせるというのは、素晴らしいことだが、才能がなかったり、花が咲かなければどうするのか。もちろん、それも一つの才能だと思えばいいのだが、この曲に感動している人は、そのことをちゃんと認めてくれるだろうか。むしろ、簡単に黙殺され、そんな水を差すなと、否定してかかられそうな気がする。ここで個性が尊ばれるのは、「花屋の店先」に並んだ選ばれた花でしかない。じゃあ、巷の雑草はどうなるのか。この雰囲気に僕は馴染めないし、あまり耐えられそうもない。
 思えば、九〇年代後半にミスチルの歌を聞いた時も、同じように感じた。ミスチルと「一つだけの花」とでは全く対照的だが、ミスチルの曲も、僕にいちいち引っ掛かりを抱かせる(逆に言えば、その点ではすごいことだなと敬服もする)。それはどちらも、聴き手を排外的に選別する同調ソングだからだと思う。もちろん、その人にとって辛い現実があり、それを折り合いをつけ、癒しを求めたりするのは、とても大切なことだ。しかし、世の悩みはそれだけではないし、そうではない人がいること(さらには、その不安のためにひょっとしたら自分が踏み躙っているかもしれない人がいること)にも、少しは思いを馳せた方がいいのではないか。あるいは、その余地を残して置いてほしいと思う。
 つまり、自分(たち)への応援ソング、あるいは集団的な共感強要同調ソングが、僕はすごく苦手なのだ(もっとも、これには僕個人の僻み根性や近親憎悪が多分に混じってもいようが)。だったら、単純に聴かなければいいのだが、期せずして聴かされる時もあるのだから、これくらいのことは言っておいてもいいだろうと思う。
 そして、映画「ボヘミアン・ラプソディ」の周辺にも、似たような「綺麗事」の雰囲気が醸し出されている気がして、少々げんなりしたという次第。

  *

 〇先の国民画家に関連して思い出したこと。今から二十年程前、神保町で古本漁りをしていた時、日本初の男色専門誌「アドニス」を何冊か見つけたことがある。千葉や江戸川にあった「かんたんむ」という古本屋が神保町に進出し、すずらん通り沿いに店舗を構えた直後、その店の二階のアダルト・コーナーの端っこで、ポルノ雑誌のビニ本として売られていた。値段は全て五百円。三島・中井・塚本らが参加していたこの会員誌の名前は知っていたが、現物を見るのは初めてで、すげえ掘出物だと思わず興奮した。他に「薔薇」もいくつかあり、もちろん全て買い占めた。同じ所に洋物の小冊子も二つ混じっていて、一つはビーフケーキ系のピンナップ誌、もう一つはトム・オブ・フィンランドの画集だった。共に値段は千円で、お金も興味もなかったので、こちらは買おうとも思わなかった。しかし、今から考えると、これはトムの伝記映画に出て来た海賊版、一夜の相手に持ち去られた絵がアメリカで勝手に出版され、トムが世に知られるきっかけとなった画集の、まさしく現物だった気がする。おそらくアドニスと薔薇のかつての所蔵者が同時期に手放したものだろうから、その可能性が高い。だとすると、大昔に海を(ある意味で)二重に渡って日本に辿り着いたものに、巡り巡って遭遇していたわけで、ちょっぴり感慨深くなる。当時は値付けが逆じゃないかと思ったが、これはこれで相当のレア物で、仮に黒塗りされているとしても、今ではそれなりの値がつけられるかもしれないなと思う。

2019.1.11金

 〇先日、神保町を探索しているうち、ふと百均ショップに入ったのだが、いつもは気に掛けない三つで百円のスナオシのインスタント袋麺が目に留まり、思わず手を出してしまった。一つは日本蕎麦、二つはタンメンにした。蕎麦はその日のうちに食べてしまったが、少しも美味しいと思わなかった。今日になって久しぶりに、残りの「サッポロタンメン塩味」に手をつけた。
 それはかつて僕がいちばん大好きだった即席麺だった。かつてと言うのは、数年前に味がリニューアルされて、すっかり変わってしまったからで、それからはは全然気に入るところとはならなかった。僕が好きなのはあくまで「胡麻入り」と袋に書かれた一昔前の「サッポロタンメン」で、こんなにコクのあるものが三つで百円とは、本当に驚かされたものだ。ところが、数年前のこと、大型のディスカウント・ショップで袋詰めのパックを見つけ、懐かしさも手伝って、大喜びで買い込んでみたものの、記憶の味とは全く違っていて、ひどくがっかりさせられた。野菜のコクやまろやかさが減少し、少ししょっぱくなり、生姜めいた香りがきつくなった気がする。つまり、タンメンというより、普通の塩ラーメンになってしまった。別会社の製品かとも思ったが、やはりこれに間違いはなかった。だから、それ以来、僕はその商品を見かけても、ほとんど気に留めることはなかった。
 それでも手を出したのは、味はさておき、久しぶりに、即席麺特有の麺の感触を味わいたい衝動に駆られたからだ。最近のインスタント麺の進化には凄まじいものがある。いろんな味だけではなく、生麺の再現性が追求され、全く遜色のないものも増えている。それはもちろん素晴らしいことだが、かつての安っぽくて炭水化物と脂肪の塊のような、いかにも即席麺といった量産品も、一種のジャンルを形成していたと思うし、捨て難い魅力もあると感じる。もちろん、それはジャンクフードであって、毎日食べ続けるような代物ではないと思うが、寒くて何もする気が起こらないような時、あるいは疲労困憊して塩分に飢えているような時に、手軽に一啜りするなんて、本当に至福の一時だと思う。
 僕は基本的にカップヌードルを全然美味しいと思わないのだが、ごく小さな時に、どこかのドライブインが何かで、自動販売機に仕込まれたチリ味を食べ、すごく体が温まって嬉しかった記憶がある。僕は元々インスタント麺を日常的に食べる習慣はないのだが、それでも時々は、この種の味を堪能したい気持ちになる。スナック菓子と同様、炭水化物特有の中毒性があると思うし、僕も多少はそれにはまっているのかもしれない。とは言え、カップにしろ袋入りにしろ、即席麺の安っぽさも、たまになら、いいものだ。どん兵衛でもいいし、ペヤングソースやきそばでもいいのだが、スナオシの縮れ麺が一押しだな。昔の味に戻してくれれば、もっと最高だけど。

 *

 〇ラーメンと言って思い出すのは父のこと。父は中華料理を主とした大衆食堂で修行した人なので、ラーメンにはえらいこだわりを持っていた。本格的に自分で作ったのを見たことはないのだが、食べるラーメンの選別にはうるさく、特定のものしか口にしなかった。飲食組合でのつき合いの関係で、近所の中華料理店に、休みに時々食べに行ったのだが、注文するのは決まって五目そばか炒飯で、不味いからと言って、決してラーメンは頼まないし、家族にも注文させなかった。父が唯一口にしたのが、当時小岩駅下のポポという商業施設(今の呼び名はシャポー)の地下の端っこにあった狭苦しい中華料理店「きんし苑」のラーメンで、休みの日に「ラーメンを食いに行くぞ」との父の一言で、長いことバスに揺られて、家族総出で何度も食べに出掛けた。基本的には、ラーメンしか注文しない。それは焼豚とシナチクの入った昔ながらの典型的な醤油ラーメンだったが、僕は子供の頃、そこのラーメンしかほとんど食べた記憶がない。普通に美味しかったと思うが、僕はそのラーメンよりも、一緒に注文できた餃子の方が好きだったし、小岩という都会に遊びに行けるという喜びの方が大きかった。そう言えば、近所で唯一ラーメンを食べてもいい店が、うちから少し離れた所に新しく出来たのだが、当時の僕には父の区別が今一わからなかった。
 父はインスタントラーメンについては、ほとんど認めていなかった。とりわけカップ麺は食品扱いされておらず、うちには常備されていなかったし、食べる習慣もなかった(それが僕にも引き継がれた)。そんな中、唯一の例外が明星のめん吉で、父はこの袋麺だけは好きで、暇な時に、卵と葱を入れて、よく作ってくれた。ノンフライ製法によるめん吉は、まさに醤油ラーメンの王道を行き、当時としてはいちばん生麺に肉薄した即席麺ではなかったろうか。最近のラ王やマルちゃん正麺は、生麺の再現性の高さが売りで、確かにその通りだと思うが、過去にもめん吉があったじゃないかと言いたくなってしまう。ちなみに、僕も人の家などで、サッポロ一番や日清チキンラーメンカップヌードルを食べる機会はあったのだが、これのどこがラーメンなのかといつも首を傾げていた。
 もっとも、その一方、僕が自販機のカップヌードルを懐かしく思ってしまうのも、インスタント麺が日常的ではなかったからこその反動と衝撃だったのかもしれない。

2019.1.10木

 〇仕事の前に後楽園に行き、ようやくバッドアート美術館展@ギャラリー・アーモに入る。無名の素人画家による下手だけれども魅惑的な絵画ばかりを収集したアメリカの個人美術館の所蔵作品展。今でこそ寄贈された作品が多いようだが、フリーマーケット等で叩き売られていたり、ゴミ捨て場に廃棄されていたところを拾って来たりしたものも数多く含まれていて、作者の来歴もよくわからなかったりする。普段はボストンの映画館の地下スペースに展示されているとのこと。
 とても素晴らしかった。110点も来日したそうだが、どの作品も曰く言い難い魅力に満ち溢れている。一種のアウトサイダー・アートなのだが(ただし、日本ではアウトサイダーの語が差別的だと誤解されがちなので、この展覧会ではその言葉は周到に避けられている)、偏執的な細部へのこだわりはあまりなく、シュールだったり、下手ウマだったり、突拍子もないコラージュ的な奇想ぶりが存分に楽しめる。やはり何事につけても、一生懸命にやるということは、人を感動させるものだと思う一方で、それでも狙いを外してしまう愚直さに、不思議な感銘を受けたりもする。自由に写真撮影してもよいとのことなので、気になった作品を、手持ちのデジカメで次々と撮りまくった。自分でもひどく絵を描きたくなる。すごく元気になった。
 いちばんのお気に入りは、スウェーデンのシェル・ヴァルデマール。
 それにしても、バッドアート美術館って、微妙な重語表現だな。いちばん近い日本語を探すなら、ヘタウマ美術館になるだろうが、少々あからさまなので、さらに意訳して、ヒドウマ美術館なんてどうだろう。あるいは、MOMA(近代美術館)の向こうを張ってMOBAと名乗っているのにちなんで、変大美術館とか(偏大・辺大もいい)。もしくは、問題美術館とか。 でも、よくよく考えてみたら、まさにこの重語的破格さこそが、バッドアートの魅力かもしれないとも思い直した。

2019.1.9水

 〇オフィル・ラウル・グレイツァ「彼が愛したケーキ職人」2018@恵比寿ガーデンシネマ。ゲイを取り巻く軋轢と関係性をテーマにしたイスラエルの映画。
 僕はイスラエルという国のパレスチナ政策に全く反対で、この国や政権を単純に好きになれないのだが、イスラエル及びユダヤの文化は大好きだと言っていい。例えばユダヤの音楽は、これをイスラエルと括るわけにはいかないだろうが、その独特の節回しにすっかり魅せられている。とりわけ古典詠唱のカントールには目がなくて、大分前だが、大量のCDを当国から取り寄せたこともある。届いたCDはケースがバキバキに壊れていたし、またそのうち一度だけ荷物が行方不明になって大損をしたのだが(その時、業者に何度も問い合わせをしたが一切返事はもらえなかった)、無事に届いたものは期待に違わず、どれも素晴らしくて、圧倒された。
 まだ動画投稿サイトなどが存在あるいは充実していなかった頃、僕は中古CDショップをめぐっては、二束三文で売られているワールド・ミュージック系の輸入版をよくジャケ買いしていた。そんな中で出会ったのが、カントールの大御所モシェ・クセヴィーツキイの音源だった。これにはすごく衝撃を受けた。僕は元よりファドやタンゴやミロンガやショーロやサンバが大好きで、またジプシー音楽、ティンベッカ、マケドニア民謡、スラブ歌謡、アラブ歌謡なども、よくわからないままに(文字が読めないままに)愛聴していたが、クセヴィーツキイを聴いてから(そして、その広がりでアル・アンダルス音楽を聴くようになってから)、その淵源は全てカントールにあるのではないかと考えるようになった。そして、自分の好きな音楽が一気につながったように感じて、震え上がったものだ。
 映画では、フィルメックスで紹介されたエイフラム・キション「サラー・サバティ氏」が忘れ難い。この作品の舞台となったキブツパレスチナ人を追い出した土地ではないかと頭をよぎるし、それは到底無視できないと思うのだが、それでも、ここで表現される人間の親しみとユーモアと男女平等志向は否定するべくもない。映画史上の名作だと思う。
 「彼が愛したケーキ職人」は、ドイツ人の青年と、恋人だったイスラエル人の男が本国に残した妻との因縁をしっとりと描いた作品。フランシス・キングの「家畜」を思わせるような、ゲイとヘテロ女性との微妙な関係性を提示して、なかなか興味深かった。イスラエルの同性愛を取り巻く現状に対しても一定の理解が得られる。サスペンス・タッチの前半部も面白くて、グイグイと引き込まれた。がっちり体系の主人公も魅力的で、あの大腕で捏ねられた小麦粉の生地は官能的で、出来上がったものはさぞかし弾力に富んで美味しかろうと想像させる。
 同性愛を扱ったイスラエル映画は何本か観ている。ゲイ物だけに限定すると、イスラエル初のゲイ映画と言われる「アメージング・グレイス」、「密告者とその家族」の製作者たちによる売専少年たちのドキュメンタリー「ガーデン」、イスラエル人とパレスチナ人とのまさに禁断の恋を描いた「アウト・イン・ザ・ダーク」など。中でもいちばん吃驚したのがは「ガーデン」で、イスラエルにもこんな生活をしている人たちがいることは衝撃的であると同時に、妙な安堵も覚えたりした。大昔のイスラエル映画祭で観た「アメージング・グレイス」は、よく綺麗な男性ヌードのスチール写真で紹介され、また「イスラエル映画史」という大部のドキュメンタリー映画でもそのシーンを含めたシークエンスが画期的なものとして引用されているが、実際には、その光景は主人公の頭の中にある妄想としてわずかに出て来るだけで、全体としては、HIV感染して絶望した男が悲痛な面持ちで右往左往しているだけの陰鬱な作品だったと記憶している。それに比べると、「アウト・イン・ダ・ダーク」はゲイのセクシュアリティに真摯に向き合っている一方、それがいかに社会的に認められるものではないかをまざまざと見せつける。ほんの一握りの希望だけを残した上でのアンハッピーエンド(題名が効いている)。それが「ケーキ職人」に至ると、激しい抑圧は描かれるが、それだけでは終わらない道をはっきりと指し示してもいる(もっとも、これは同性愛をあくまで過去の追想としてのみ語っているという口実に守られてのことだろうが)。こうして並べてみると、少しずつながら、確実に解放的な状況に向かっていることがわかる。
 後の二つの作品は、日本の紹介に当たって、イスラエル大使館の後援を得られているのも意義深い(確認できないが、ひょっとすると「アメージング」もそうだったかもしれない)。もっとも、イスラエルの政権は相変わらずパレスチナに対して非道な政策を続けているにもかかわらず、反体制的でそれに抗議して亡命までしたアモス・ギタイの作品を、今ではイスラエル映画の名作として堂々と後援するくらいだから、軟化したのか、外向けの二枚舌なのか、内にいろんな温度差があるのか、容易に判別はできない。民主主義国家の体制で、信教の自由が保障されている一方(例えば、イランから逃れてきたバハイ教にしっかりと安住の地を提供する)、厳然たる宗教国家の政策を取り、イスラーム系の自国民に対して堂々と不当な待遇をする。また、世界中のユダヤ人を受け入れているようで、その中でのほとんど人種的と言ってもよい差別を放置したままにする。絶対的な真理がまず先にあって、現実を常に再解釈するのがユダヤ思想の特徴と言われるが(儒教なら捏造するところだが)、そこら辺の詳細をもっと幅広く知りたい。

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 〇その後、国立アーカイブに行く予定を立てていたのだが、少しだけ間があるので、そのうち行かなければと思っていた近場の写真美術館の「小さいながらもたしかなこと 日本の新進作家vol.15」へ行く。そんなに余裕があるわけでもないのだが、恵比寿はうちから行き勝手が悪く、また来るのは面倒臭いし、写真を観るのはそう時間が掛からないだろうと高を括って、急遽入ることにした。ところが、入ってみると、思いの外、映像作品が多くて、少々面食らった。仕方がないので、時間一杯だけ、観れるところを観ることにした。森栄喜、ミヤギフトシなど、ゲイ写真家の作品を中心に、異端視されかねない者たちの少しも奇をてらわない日常を淡々と捉えたものが多くて、好感が持てる。この二人の映像作品に一通り接することができたのはよかったが、特段の感慨は持たなかった。僕は奇妙なものが好きな一方、かけがえのない日常にもとても心打たれる人間だと思うが、どちらかと言うと、ダラダラと同じ時間を追体験できるようなものの方に深く入れ込んでしまう。だから、ちょっとおしゃれで都会的で、細かく切り刻まれているような映像は少々苦手で、そんなに好きという感じはしない。
 そう言えば、何年か前に、新富町のギャラリーで大木裕之の映像作品展が行なわれた折り、無料なのをいいことに、何日間か通って、大量の作品を鑑賞したことがある。ある日などは、開館時間の間、何時間も暗闇の中をずっと座り続けていたので、ギャラリーの人もさぞかし驚いていたことだろう。他に誰もいないからと、最後には僕のリクエストに応えて、観ていない作品をかけてくれたりもした。そして、ほとんどの作品を観ることができたわけだが、ものすごく体力を消耗し、相当に疲れた。そこで観た大木の(デジタルの)作品は、断片的な光景や人物の映像が幾重にも重なって、流れるように推移していくのが特徴だが、重なれば重なるほど映像が白っぽくぼんやりとなるし、またシーンそのものがすぐに消えてしまうので、たとえ目を見張るシーンがあったとしても、個々の光景への執着を許してはくれない。だから、すごくゆるやかで大らかな作品のように見えるが、観ている側は圧倒されたり引き込まれたりする以前に、なんだかペースを奪われているような気がして、ストレスで一杯になる。じっくり観続けるべきではないのでは、とずっと思い続けた。フィルムで撮られた初期のものとは違う印象だ。デジタル時代の映像インスタレーションを最後まできっちり見ようとする僕の姿勢は、やはり根本的に間違っているのか。しかし、そう判断できるかどうかも、とりあえずは観続けなければわからないが。ところで、近年の会田誠草間彌生などの現代美術家の映像作品を観ても思うのだが、こうした作品インスタレーションは、コンセプチュアル・アートとしての評価以外に、本当に美的に評価されているの? あるいは、本当にお金になるの?
 最後に展覧会の図録を確認しようと、ほんの数分、ショップに立ち寄ると、「OSSU」なる男性ヌード写真の小冊子がいくつか売られていた。希少だろうし、面白そうなので、いろんな作家の作品が含まれていて、とてもお買い得の感じがする号を、一点だけ購入する。作家ごとに別冊子に分かれているのが帯で繋げられている。参加しているのは、森、ミヤギの他、サイモン・フジワラ、題府基之、川島千鳥、野村佐紀子など。
 男性ヌードと言っても、基本的には日常の延長という感じで、全体としてはさらっとしているが、野村佐紀子の巻だけが突出して異彩を放っている。野村と言えば、荒木経惟の愛弟子で、官能的な男性ヌードを一貫して撮り続けていることで有名で、僕もそれなりに興味を抱いてきた。僕はアラーキーの作品のどこがいいのかさっぱりわからず、私写真だって大したことはないし、膨大な官能写真にしても女を客体としてしか捉えないひどい代物だという認識で、浅田彰の罵倒に近い評価に全面的に賛成なのだが(ついでに言えば、学生の頃、多木浩二の授業でアラーキーが絶賛されているのに接して、ひどくがっかりした覚えがある)、野村の作品も、男をはっきり客体視しているという点で、同じ衣鉢を受け継いでいる。僕は野村の写真を見て、いつも思い出すのは、東郷健による雑民の会のエロ写真やエロ・ビデオで、男をズリネタとしてしか見ていない煽情的なゲイ・ポルノだ。あるいは、かつて御徒町にあったアテネ上野店というポルノショップの狭い店内の壁一面にベタベタ貼られていた自作SMビデオのスナップ写真だ。どちらも卑猥な雰囲気が実によく似ている。それが森やミヤギなど、日常性の中から立ち上がるそこはかとない官能性とは決定的に異なる点だ(あるいは、鷹野隆大のように、男の裸体を前面に押し出しながらも、即物的であまり卑猥な感じがしないのと違う点だ)。
 東郷と野村で大きく異なるのは、被写体の眼であり視点だ。東郷やアテネの中の青年は、視点も定まらず、はっきり言えば、目が死んでいる。お金のために無理をして、こんないやなことをしているという感じがありありと出ている(そして、そのことが余計に欲望を煽っているように想定して撮られている)。それに対して、野村の中の青年は、しっかりとカメラを見据え、時には媚を売るような眼差しを見せる。これは野村との個人的関係、あるいは撮影者との権力関係を如実に示している。僕は基本的に、東郷も野村もアラーキーも煽情ポルノだとしか思わないが、野村はセクシストでありながら、ファロセントリズムをかろうじて逃れているように見える。そして、愛の介在を錯覚させる。その距離感が、野村の独自性であり、魅力であり、問題点なのだと思う。 

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 〇大急ぎで国立映画アーカイブへ移動し、工藤栄一「ヨコハマBJブルース」1981を鑑賞。この作品は十年ほど前にシネマヴェーラで観たことがあり、あからさまに男色をネタにしているので、吃驚した記憶がある。だから、強烈な印象に残り、結構細かいことまで覚えているのだが、三島を媒介に男色と右翼を結びつけた同時代の「狂い咲きサンダーロード」や「日本の黒幕」と比べても、ここで描かれている同性愛はなんともちぐはぐで、今一ぴんと来ないままの感じもあったので、いつかきちんと確認・整理したいと思っていたのだ。そして再見したわけだが、やはり何とも変てこな描かれ方で、ますます訳がわからなくなった(ということがよくわかった)。
 この作品に出て来る同性愛は、全くの借り物で嘘っ八だ。女に飽きて男に目覚めたハードゲイなる者が若干出て来るが、これはアル・パチーノ主演「クルージング」の表面をちょこっとなぞって見せただけ(かつて一世を風靡したその作品にしても、今からすれば、ゲイのセクシュアリティを一種の感染症と描いた噴飯物だが)。また、財津一郎演じるヤクザの親分の男色趣味の設定も、ちゃんちゃらおかしい。彼がお稚児さんに何を求めているのか、男らしくあってほしいのか、少年でいてほしいのか、ヤクザとして立ってほしいのか、一途な愛情を持ってほしいのか、淫らに煽情してほしいのか、皆目見当がつかない。というのも、製作者たちはおそらく、彼を不可解な奇人変人として周囲に見せつけたいだけなので、彼の性格や内面や心理だのには何の興味もなかったからだろう。いや、もっと積極的に、そう手抜きして描くことで、何の興味もないという風にほのめかしたいのかもしれないとさえ感じる。
 その一方で、松田優作演じる主人公とお稚児さんとの疎外された者同士の友愛が、過剰なまでに執拗に描かれる。まるでジェームズ・カークウッドの「良き時悪しき時」みたいな展開だ。その小説でカークウッドは、同性愛を汚れた大人による肉欲的なセクハラ紛いの悪として糾弾しながら、少年同士の性欲抜きの友愛を、ほとんど官能的なまでに美しく謳いあげる。しかし、BJと決定的に違うのは、カークウッドは抑圧的なアメリカ社会に生きるクローゼットのゲイとして、自分の性向をギリギリの所で肯定しようとしている点。つまり、クローゼットの構造を逆手に取って、手垢まみれの同性愛を否定して見せることで肯定するという離れ業を、真摯にやってのけている。それに対して、BJが対比・仮託しているのは、腐れ縁のような大人の絆と裏切りであり、主人公がそういう社会の不可解さや悲惨さや醜さから逃れているように見せかけたいだけで、個人の性愛や思いははなから眼中にない。同性愛は前景としてほのめかされつつも常にはぐらかされるという風に、二重に隠蔽、あるいは公然と隠匿されている。全てが格好つけだ。だから、この友愛には、タナトスも含んだ隠微な少年愛の背徳性が始終付きまとっていて、主人公の美化・聖化にも失敗している。それを性や友情の肯定と捉えることができるかどうかは大いに微妙だ。ともあれ、その点も含めて、当時の日本の同性愛表象を考える上では見逃せない作品だと思う。
 この作品の松田優作は息子の龍平とそっくりで吃驚した。今回観ても、BJの意味はわからなかった。
 備忘。同性愛ないしは同性愛者を扱った日本映画のリスト。実見したものに限る。
 男の部(薔薇族映画以外)。惜春鳥、薔薇の葬列、銀河系、猟人日記、白昼の襲撃、日本の黒幕、狂い咲きサンダーロード、ヨコハマBJブルース、女王蜂の欲望、牝猫たちの夜、悶絶!!どんでん返し、レイプ25時暴姦、桃尻娘、セックスドキュメント性倒錯の世界、二十歳の微熱、渚のシンドバッド、その男凶暴につき、闇のカーニバル、暴力人間、PRISM、THE DEPTHS、新宿ミッドナイトベイビー、カミングアウト、クレイジーラブ、バイバイラブ、錆びた缶空、ストレンジハイ。
 女の部。花つみ日記、野戦看護婦、汚れた肉体聖女、女ばかりの夜、その場所に女ありて、歌ふ狸御殿、踊る竜宮城、美しさと哀しみと、番格ロック、続レスビアンの世界愛撫、淫獣教師、西北西。

2019.1.8火

 〇昨年末、能登半島沖で韓国海駆逐艦によって自衛隊哨戒機に火器管制レーザーが照射された問題が、連日メディアで報じられている。いろんな報道を見る限り、これが韓国側の過失であり失態であることは、ほぼ明らかだ。しかし、韓国側はそれを一切認めていない。これまで似たようなことが起こっても、水面下で決着を図っていたのだろうが、今回はおそらく安倍政権の意向で、表沙汰になった。ところが、そのことがかえって韓国を硬化・刺激したらしく、謝罪どころか、日本を非難・攻撃する動画を積極的に世界中に発信し始めた。
 これには本当に驚かされた。もちろん、韓国人がこのような行動パターンを採りがちなことは十分に予想できる。しかし、こんなに証拠が出揃っているのに、また状況を悪化させてはいけないはずなのに、そのことを全く認められないとは。しかも、韓国海軍上層部だけではなく、世論もこぞって反日一色らしい。流石にここまでひどいとは思わなかった。
 韓国人の発想については、近年では古田博司小倉紀蔵の著作によって、思想的な観点からも、詳細かつ批判的に明らかにされ、日本でも幅広く浸透している。僕も多くのことを教えられた。今では、いわゆるネトウヨですら、その議論を踏まえているくらいだ。そして、良心的と言われる左寄りのメディアでも、そうした気分を半ば共有していて、最近では日韓で政治的な摩擦がある度に、「韓国の政権は末期になると反日を声高に訴えるのが常套で」云々と、澄まし顔で解説したりする。いわば手の内がわかってしまった上で、嫌韓に靡いてしまう素地が形成されている。つまり、新たな潮目の変化が起こっているのだが、韓国の方はと言うと、日本のことはやはりどこ吹く風らしい。
 韓国は基本的に、儒教道徳に雁字搦めに縛られている社会で、とりわけ朱子学がものの考え方の基軸になっている。そこでは、他の儒教文化圏と同様、確固とした上下の秩序や権力関係があるわけだが、朱子学に特有なのは、人は道徳的であることを要請され、それが行動の指針になっていることだ。それは上下の秩序にもがっちり反映され、徳は上位の者が多く担うことになっている。そのため、上の者は自分が常に正しいように振舞うことが求められ、下の者を道徳的に叱責する一方、下の者は上の者の行いを正しいものと認めなければならない。それが序列の根拠にもなっている。こうした世界観で、あらゆる人間関係を把握しようとする。通常の人間関係もうそうだが、国際関係も例外ではなく、正統とされる中国文化の浸透度を根拠に、大陸・半島・島嶼を序列づけしようとする(それ以外の世界については必ずしも当てはまらないようだが、序列づけの影響は色濃く残っている)。
 そもそも思想というのは、生誕地よりも伝播地の方がよりラディカルになるものだ。生誕地には、ちゃんとそれが生み出されるだけの背景と意義と抑制機構がある。例えば、イスラム教は極めて厳格な宗教だが、その厳格性は、アラブ社会の現実主義や世俗主義に抗して生まれたものであり、アラブのゆるやかさを前提にしている。つまり、厳格に受容されないからこそ、厳格であることに意義があったのだ。ところが、その教えが理想主義的なペルシャに渡ると、その厳格性は本当に厳格に適応されるようになって、ゴチゴチの宗教に変貌した(当地でスンニ派ではなくシーア派が選好されたのは偶然ではないだろう)。だからこそ、そうした理念主義に基づいて、精緻なイスラーム哲学が華開いたわけでもある。また、西洋社会で発達した資本主義によってさまざまな環境変化がもたらされたが、西洋では自然と人間を峻別するキリスト教的な背景の下、環境は人間が管理するものという発想があるから、環境破壊はある程度抑制されてきた(それでも破壊が進んだのは、人知を超えた不測の事態だったからだ)。ところが、資本主義が移入された日本では、そうした強圧的な自然観はなく、漠然と自然と人間は一体化し、自然とは畏怖すべきもの、人間は自然の一部でしかないという発想があるために、かえって生産活動で出た汚染物質を平気で自然界に垂れ流し、その結果、凄まじい公害病を各地に発生させた。日本こそ資本主義の徹底した地域だとは、何十年も前に竹内芳郎が告発したところだ。そして、現代では、まさに中国が、日本以上に、そうした資本主義の徹底ぶりを暴走させている。その中国で生まれた儒教だが、当地では、その対抗軸として老荘思想道教の根深い伝統もある。儒教内でも、朱子学の批判勢力として、陽明学の強い伝統がある(ついでに言えば、儒教そのものを否定する共産党的なイデオロギーもある)。だから、朱子学的発想は、一応は牽制できる状態に相対化されている。ところが、中国文化が移入された朝鮮半島では、多少の例外はあっても、「性理学」こと朱子学がほとんど全てを席巻し、多くがその論理に内包されてしまった。特に十九世紀以降は、清の没落を受けて、自分こそが中国文明の真の体現者だと自己規定するに至り(元々清は漢民族ではなかったから、余計にそう思いやすかったわけだが)、事大主義から小中華主義に、つまり、辺鄙な倭国どころか、源泉の中国までも堂々と格下と見做す発想が生み出された。もちろん、その後、様々な歴史的経緯があるわけだし、現代資本主義の韓国において、朱子学的な伝統が無批判に残っているとは思わないが、少なくとも、依拠すべき正統性が常に想定され、かつそうした発想自体が正統なものだと自己証明する考え方が、中国以上に、厳然と確立しているのは間違いないところだろう。
 そして、儒教あるいは朱子学の恐ろしい所は、上下の秩序を徳や理に根拠づけしながらも、面子や体面として形式化することによって、事態を反転させてしまうことにある。正義や真実は常に上の者に仮託され、上の者は真や義であるという体面を保たなければならないが、次第にそれが形骸化して、正しいから偉いはずなのに、偉いから正しいことに逆転してしまう。体面を保つことが自己目的化するのだ。下の者も上の者の体面を第一に考えるように要請される。だから、結局は、上の者が好き勝手にできる状況を、逆説的に容認してしまう。韓国は事実上、とんでもない格差社会で、一部の権力者や財閥の人間が長らく政治や経済を牛耳ってきたが、その行動を見てみると、使命に燃えた立派な人物を輩出する一方で、極端に堕落した人物も次々と産み落とす。その意味では、両班が跳梁した王朝時代とそれほどの変化はない。
 また、もう一つ見逃せないのは、ここでは上の者の体面上の「真実」を守るために、往々にして、客観的な事実はないがしろにされるということだ。場合によっては、擬制された真実のために、事実の方が改竄・捏造される。中国の正史は、そうした状況の連続で書かれたものだし、日本も同じ儒教の国として、御多分には漏れないが、韓国の方が極端で、その硬直度は高い。例えば、中国四千年の歴史に対抗して、韓国五千年の歴史と称されるし、日本との歴史問題で言えば、現在でも、挺身隊と従軍慰安婦を同一視したり、独島の古地図の位置を入れ替えりしても、異論を唱えられない(ついでに言えば、韓国は美容整形大国としても有名だが、これも事実よりも「真実」を現実と見做す風潮に後押しされての結果だろう)。しかし、あまりに硬直して、物事が立ち行かなくなってしまうと、今度は、忖度の対象として敬意を払っていたはずの上位者を全否定して、叩き潰してしまう。まさに孟子易姓革命を地で行っていて、韓国はこうして歴代大統領を、政治的に次々と血祭りに挙げてきた。あるいは、横暴に振舞う財閥の特権者を、不道徳だとメディア上で袋叩きにしてきた。流石にここまで頻繁に革命と興亡が繰り返されると、そもそも真や義を全く信じていないのではないかと思ってしまうほどだ。
 韓国の映画を観ていると、体面に縛られて横暴で家父長的なひどい人物がよく登場する。そうしたエゴの塊のような人間のぶつかり合いが、まさに韓国映画のダイナミズムを生み出していると強く感じるが、同時に、そういう破天荒な人物を、普通にあるべきものとして容認しているような印象も受ける。ところが、最近観て驚かされたのは、ヨン・サンホのアニメーション映画だ(実写映画は未見)。「フェイク」にしても「ソウル・ステーション/パンデミック」にしても、とても灰汁の強い親父が出て来るのだが、最後には完膚なきまでに否定されてしまう。カルト教団を扱ったイ・チャンドンの「シークレット・サンシャイン」も冷徹な作品で驚かされたが、この否定ぶりはそれ以上で、まさに神も仏もない状況を平然と提示していて、全く衝撃的だった。これには韓国人も吃驚したのではないかと思うのだが、その一方で、韓国人は元より、こうした虚無の中に身を置いてきたのかもしれないとも思えて来る。
 日本との関係で言えば、日本とはそもそも格下な上に、そんな日本に併合された反発から、反日がほとんど絶対真理化していて、それに抗することはまずできない(かつては日本式の近代主義を正統なものと受容する動きもあったはずだが、一度失墜したものの復権はあり得ず、今ではその存在すら否認されている)。だから当然、歴代の政権も、例え実利的に隣国との関係を重要視しても、反日を唱え、反日的態度を採る。ところが、その政権が倒される時、その根拠の一つは道徳性、やはり反日なのだ。ここまで中身のない議論や戦略も珍しいと思うが、これは自身の根幹もスッカラカンだからに思える。小倉紀蔵によると、文化や道徳にしか目をくれない韓国社会の矛盾は、反日の他、IT革命の達成によって、隠蔽・先送りされてしまったのこと。しかし、それはいつまでも続けられるものではないだろう。確かに、硬直した上下関係にガチガチに縛られて、極端な格差社会が形成されてしまったことの歪みを是正することは必至で、そのためには文化性や道徳性を使うのが手っ取り早いのだろうし、それを根拠に設定しなければ、この構造の中にある上層集団の実害を排除することなどできないのかもしれない。つまり、この構造内で構造打破のために使える唯一の手なのかもしれない。ただし、そんな革命の言語ゲームの出しに、いくらひどいことをしたとは言え、現存する他者を利用するという状態は、それこそまさに不道徳だし、最終的には自他ともに不利益をもたらすことになると意識しておかなければ、相当に危険なことだと思う。
 もちろん、韓国はゴリゴリの儒教社会だと言っても、道徳志向だけで成り立っているわけではない。多くの映画が教えてくれるように、韓国は日本以上の温情社会で、至る所に優しさや思いやりの心に満ち溢れている。ただし、それは厳格な上下の秩序と矛盾していないどころか、その秩序を厳然と下支えするものともなっているようにも見える。例えば、それは身内や親しい者への優遇を公然と行えるのと表裏一体であり、後に革命で否定されるほどの社会の歪みを、むしろ増大させることに寄与しかねない。
 とは言え、当然のことながら、社会の構造がどうであれ、個々人の多様性があることを無視するわけにはいかない。僕がその点でとりわけ強く印象に残っているのは、山形ドキュメンタリー映画祭で紹介された「咲きこぼれる夏」という作品で、ここでは、エイズ・アクティヴィストの一組の若いゲイのカップルが対比的に語られている。一人は清廉潔白、真面目で爽やかで、正しいことのために道徳的に行動する、まさに韓国人の理想形のような好青年。まるで韓流好きのおばさんのように、こちらも見ていて惚れ惚れする。もう一人は、かつて売春していたことを気に掛けて、ずっとクヨクヨしている実に頼りのない青年。見ていて非常にもどかしく感じるが、同時に、韓国にもこうした割り切れない人物がいることに、妙な安心感や親近感を覚える。二人はもちろん、付き合っているから、好青年は愛情をもって、じれったい恋人を立ち直らせようとし、彼の方も過去と向き合って、その愛情に応えようとする。しかし、結局は、自己肯定できずに逃げ出してしまう。この煮え切れなさは、まるで木下恵介の「女の園」に出て来る高峰秀子演じる女学生のようで、既に結論が見えているにもかかわらず、思い切って踏ん切りをつけることができずに、いつまでもグズグズのた打ち回って、勝手に自滅してしまう。見る者をして、すごくやるせない気持ちにさせる、この喚起力はすごいと思う。もっとも、裏を返して言えば、ここにも韓国社会の拘束性が立ち現れているのかもしれない。現時点での日本なら、かつて売専をしていたからと言って、そんなに気に咎めるようなことだと僕には思えないが、まさに「女の園」の頃の日本のように(あるいは「ゼロの焦点」の頃の、と言うべきか)、売春や不倫や駆け落ちが決定的なトラウマになってしまうほどの心理的・社会的圧力が、かの国では今でも厳然としてあるのかもしれない。
 いずれにしても、韓国で自己省察も含めた多様性の声が上がることに期待を掛けるしかないのだが、レーザー照射問題を見ている限りでは、その過程はなかなか険しいもののように思える。確かに、日本と韓国は違う。日本では建前と本音の区別があるから、建前を突き放しつつ、形式として温存できるのに対し、韓国ではその区分はないから、形式を建前として相対化することができない。だから、それが嘘だと認定されてしまったら、全否定するしかない。それゆえ、日本で気軽にできることが韓国ではできない。しかし、逆も然り。構造的には、似たようなものだ。これまで韓国に関して辛辣に書いてきたことにしても、日本で生活する僕の経験や思い入れが色濃く反映されているはずで、現行の日本社会のことを言っているのとそれほどの大差はないようにも感じる。韓国だけの話ではない。
 だから、異論や多様性に寛容なこと、個々の動きを拾い上げること、やはりそのことが肝要だとなとつくづく思った次第。その上での韓国批判・日本批判でなければしょうがない。