2019.1.8火

 〇昨年末、能登半島沖で韓国海駆逐艦によって自衛隊哨戒機に火器管制レーザーが照射された問題が、連日メディアで報じられている。いろんな報道を見る限り、これが韓国側の過失であり失態であることは、ほぼ明らかだ。しかし、韓国側はそれを一切認めていない。これまで似たようなことが起こっても、水面下で決着を図っていたのだろうが、今回はおそらく安倍政権の意向で、表沙汰になった。ところが、そのことがかえって韓国を硬化・刺激したらしく、謝罪どころか、日本を非難・攻撃する動画を積極的に世界中に発信し始めた。
 これには本当に驚かされた。もちろん、韓国人がこのような行動パターンを採りがちなことは十分に予想できる。しかし、こんなに証拠が出揃っているのに、また状況を悪化させてはいけないはずなのに、そのことを全く認められないとは。しかも、韓国海軍上層部だけではなく、世論もこぞって反日一色らしい。流石にここまでひどいとは思わなかった。
 韓国人の発想については、近年では古田博司小倉紀蔵の著作によって、思想的な観点からも、詳細かつ批判的に明らかにされ、日本でも幅広く浸透している。僕も多くのことを教えられた。今では、いわゆるネトウヨですら、その議論を踏まえているくらいだ。そして、良心的と言われる左寄りのメディアでも、そうした気分を半ば共有していて、最近では日韓で政治的な摩擦がある度に、「韓国の政権は末期になると反日を声高に訴えるのが常套で」云々と、澄まし顔で解説したりする。いわば手の内がわかってしまった上で、嫌韓に靡いてしまう素地が形成されている。つまり、新たな潮目の変化が起こっているのだが、韓国の方はと言うと、日本のことはやはりどこ吹く風らしい。
 韓国は基本的に、儒教道徳に雁字搦めに縛られている社会で、とりわけ朱子学がものの考え方の基軸になっている。そこでは、他の儒教文化圏と同様、確固とした上下の秩序や権力関係があるわけだが、朱子学に特有なのは、人は道徳的であることを要請され、それが行動の指針になっていることだ。それは上下の秩序にもがっちり反映され、徳は上位の者が多く担うことになっている。そのため、上の者は自分が常に正しいように振舞うことが求められ、下の者を道徳的に叱責する一方、下の者は上の者の行いを正しいものと認めなければならない。それが序列の根拠にもなっている。こうした世界観で、あらゆる人間関係を把握しようとする。通常の人間関係もうそうだが、国際関係も例外ではなく、正統とされる中国文化の浸透度を根拠に、大陸・半島・島嶼を序列づけしようとする(それ以外の世界については必ずしも当てはまらないようだが、序列づけの影響は色濃く残っている)。
 そもそも思想というのは、生誕地よりも伝播地の方がよりラディカルになるものだ。生誕地には、ちゃんとそれが生み出されるだけの背景と意義と抑制機構がある。例えば、イスラム教は極めて厳格な宗教だが、その厳格性は、アラブ社会の現実主義や世俗主義に抗して生まれたものであり、アラブのゆるやかさを前提にしている。つまり、厳格に受容されないからこそ、厳格であることに意義があったのだ。ところが、その教えが理想主義的なペルシャに渡ると、その厳格性は本当に厳格に適応されるようになって、ゴチゴチの宗教に変貌した(当地でスンニ派ではなくシーア派が選好されたのは偶然ではないだろう)。だからこそ、そうした理念主義に基づいて、精緻なイスラーム哲学が華開いたわけでもある。また、西洋社会で発達した資本主義によってさまざまな環境変化がもたらされたが、西洋では自然と人間を峻別するキリスト教的な背景の下、環境は人間が管理するものという発想があるから、環境破壊はある程度抑制されてきた(それでも破壊が進んだのは、人知を超えた不測の事態だったからだ)。ところが、資本主義が移入された日本では、そうした強圧的な自然観はなく、漠然と自然と人間は一体化し、自然とは畏怖すべきもの、人間は自然の一部でしかないという発想があるために、かえって生産活動で出た汚染物質を平気で自然界に垂れ流し、その結果、凄まじい公害病を各地に発生させた。日本こそ資本主義の徹底した地域だとは、何十年も前に竹内芳郎が告発したところだ。そして、現代では、まさに中国が、日本以上に、そうした資本主義の徹底ぶりを暴走させている。その中国で生まれた儒教だが、当地では、その対抗軸として老荘思想道教の根深い伝統もある。儒教内でも、朱子学の批判勢力として、陽明学の強い伝統がある(ついでに言えば、儒教そのものを否定する共産党的なイデオロギーもある)。だから、朱子学的発想は、一応は牽制できる状態に相対化されている。ところが、中国文化が移入された朝鮮半島では、多少の例外はあっても、「性理学」こと朱子学がほとんど全てを席巻し、多くがその論理に内包されてしまった。特に十九世紀以降は、清の没落を受けて、自分こそが中国文明の真の体現者だと自己規定するに至り(元々清は漢民族ではなかったから、余計にそう思いやすかったわけだが)、事大主義から小中華主義に、つまり、辺鄙な倭国どころか、源泉の中国までも堂々と格下と見做す発想が生み出された。もちろん、その後、様々な歴史的経緯があるわけだし、現代資本主義の韓国において、朱子学的な伝統が無批判に残っているとは思わないが、少なくとも、依拠すべき正統性が常に想定され、かつそうした発想自体が正統なものだと自己証明する考え方が、中国以上に、厳然と確立しているのは間違いないところだろう。
 そして、儒教あるいは朱子学の恐ろしい所は、上下の秩序を徳や理に根拠づけしながらも、面子や体面として形式化することによって、事態を反転させてしまうことにある。正義や真実は常に上の者に仮託され、上の者は真や義であるという体面を保たなければならないが、次第にそれが形骸化して、正しいから偉いはずなのに、偉いから正しいことに逆転してしまう。体面を保つことが自己目的化するのだ。下の者も上の者の体面を第一に考えるように要請される。だから、結局は、上の者が好き勝手にできる状況を、逆説的に容認してしまう。韓国は事実上、とんでもない格差社会で、一部の権力者や財閥の人間が長らく政治や経済を牛耳ってきたが、その行動を見てみると、使命に燃えた立派な人物を輩出する一方で、極端に堕落した人物も次々と産み落とす。その意味では、両班が跳梁した王朝時代とそれほどの変化はない。
 また、もう一つ見逃せないのは、ここでは上の者の体面上の「真実」を守るために、往々にして、客観的な事実はないがしろにされるということだ。場合によっては、擬制された真実のために、事実の方が改竄・捏造される。中国の正史は、そうした状況の連続で書かれたものだし、日本も同じ儒教の国として、御多分には漏れないが、韓国の方が極端で、その硬直度は高い。例えば、中国四千年の歴史に対抗して、韓国五千年の歴史と称されるし、日本との歴史問題で言えば、現在でも、挺身隊と従軍慰安婦を同一視したり、独島の古地図の位置を入れ替えりしても、異論を唱えられない(ついでに言えば、韓国は美容整形大国としても有名だが、これも事実よりも「真実」を現実と見做す風潮に後押しされての結果だろう)。しかし、あまりに硬直して、物事が立ち行かなくなってしまうと、今度は、忖度の対象として敬意を払っていたはずの上位者を全否定して、叩き潰してしまう。まさに孟子易姓革命を地で行っていて、韓国はこうして歴代大統領を、政治的に次々と血祭りに挙げてきた。あるいは、横暴に振舞う財閥の特権者を、不道徳だとメディア上で袋叩きにしてきた。流石にここまで頻繁に革命と興亡が繰り返されると、そもそも真や義を全く信じていないのではないかと思ってしまうほどだ。
 韓国の映画を観ていると、体面に縛られて横暴で家父長的なひどい人物がよく登場する。そうしたエゴの塊のような人間のぶつかり合いが、まさに韓国映画のダイナミズムを生み出していると強く感じるが、同時に、そういう破天荒な人物を、普通にあるべきものとして容認しているような印象も受ける。ところが、最近観て驚かされたのは、ヨン・サンホのアニメーション映画だ(実写映画は未見)。「フェイク」にしても「ソウル・ステーション/パンデミック」にしても、とても灰汁の強い親父が出て来るのだが、最後には完膚なきまでに否定されてしまう。カルト教団を扱ったイ・チャンドンの「シークレット・サンシャイン」も冷徹な作品で驚かされたが、この否定ぶりはそれ以上で、まさに神も仏もない状況を平然と提示していて、全く衝撃的だった。これには韓国人も吃驚したのではないかと思うのだが、その一方で、韓国人は元より、こうした虚無の中に身を置いてきたのかもしれないとも思えて来る。
 日本との関係で言えば、日本とはそもそも格下な上に、そんな日本に併合された反発から、反日がほとんど絶対真理化していて、それに抗することはまずできない(かつては日本式の近代主義を正統なものと受容する動きもあったはずだが、一度失墜したものの復権はあり得ず、今ではその存在すら否認されている)。だから当然、歴代の政権も、例え実利的に隣国との関係を重要視しても、反日を唱え、反日的態度を採る。ところが、その政権が倒される時、その根拠の一つは道徳性、やはり反日なのだ。ここまで中身のない議論や戦略も珍しいと思うが、これは自身の根幹もスッカラカンだからに思える。小倉紀蔵によると、文化や道徳にしか目をくれない韓国社会の矛盾は、反日の他、IT革命の達成によって、隠蔽・先送りされてしまったのこと。しかし、それはいつまでも続けられるものではないだろう。確かに、硬直した上下関係にガチガチに縛られて、極端な格差社会が形成されてしまったことの歪みを是正することは必至で、そのためには文化性や道徳性を使うのが手っ取り早いのだろうし、それを根拠に設定しなければ、この構造の中にある上層集団の実害を排除することなどできないのかもしれない。つまり、この構造内で構造打破のために使える唯一の手なのかもしれない。ただし、そんな革命の言語ゲームの出しに、いくらひどいことをしたとは言え、現存する他者を利用するという状態は、それこそまさに不道徳だし、最終的には自他ともに不利益をもたらすことになると意識しておかなければ、相当に危険なことだと思う。
 もちろん、韓国はゴリゴリの儒教社会だと言っても、道徳志向だけで成り立っているわけではない。多くの映画が教えてくれるように、韓国は日本以上の温情社会で、至る所に優しさや思いやりの心に満ち溢れている。ただし、それは厳格な上下の秩序と矛盾していないどころか、その秩序を厳然と下支えするものともなっているようにも見える。例えば、それは身内や親しい者への優遇を公然と行えるのと表裏一体であり、後に革命で否定されるほどの社会の歪みを、むしろ増大させることに寄与しかねない。
 とは言え、当然のことながら、社会の構造がどうであれ、個々人の多様性があることを無視するわけにはいかない。僕がその点でとりわけ強く印象に残っているのは、山形ドキュメンタリー映画祭で紹介された「咲きこぼれる夏」という作品で、ここでは、エイズ・アクティヴィストの一組の若いゲイのカップルが対比的に語られている。一人は清廉潔白、真面目で爽やかで、正しいことのために道徳的に行動する、まさに韓国人の理想形のような好青年。まるで韓流好きのおばさんのように、こちらも見ていて惚れ惚れする。もう一人は、かつて売春していたことを気に掛けて、ずっとクヨクヨしている実に頼りのない青年。見ていて非常にもどかしく感じるが、同時に、韓国にもこうした割り切れない人物がいることに、妙な安心感や親近感を覚える。二人はもちろん、付き合っているから、好青年は愛情をもって、じれったい恋人を立ち直らせようとし、彼の方も過去と向き合って、その愛情に応えようとする。しかし、結局は、自己肯定できずに逃げ出してしまう。この煮え切れなさは、まるで木下恵介の「女の園」に出て来る高峰秀子演じる女学生のようで、既に結論が見えているにもかかわらず、思い切って踏ん切りをつけることができずに、いつまでもグズグズのた打ち回って、勝手に自滅してしまう。見る者をして、すごくやるせない気持ちにさせる、この喚起力はすごいと思う。もっとも、裏を返して言えば、ここにも韓国社会の拘束性が立ち現れているのかもしれない。現時点での日本なら、かつて売専をしていたからと言って、そんなに気に咎めるようなことだと僕には思えないが、まさに「女の園」の頃の日本のように(あるいは「ゼロの焦点」の頃の、と言うべきか)、売春や不倫や駆け落ちが決定的なトラウマになってしまうほどの心理的・社会的圧力が、かの国では今でも厳然としてあるのかもしれない。
 いずれにしても、韓国で自己省察も含めた多様性の声が上がることに期待を掛けるしかないのだが、レーザー照射問題を見ている限りでは、その過程はなかなか険しいもののように思える。確かに、日本と韓国は違う。日本では建前と本音の区別があるから、建前を突き放しつつ、形式として温存できるのに対し、韓国ではその区分はないから、形式を建前として相対化することができない。だから、それが嘘だと認定されてしまったら、全否定するしかない。それゆえ、日本で気軽にできることが韓国ではできない。しかし、逆も然り。構造的には、似たようなものだ。これまで韓国に関して辛辣に書いてきたことにしても、日本で生活する僕の経験や思い入れが色濃く反映されているはずで、現行の日本社会のことを言っているのとそれほどの大差はないようにも感じる。韓国だけの話ではない。
 だから、異論や多様性に寛容なこと、個々の動きを拾い上げること、やはりそのことが肝要だとなとつくづく思った次第。その上での韓国批判・日本批判でなければしょうがない。