2019.1.19土

 〇あちこちで映画を四本鑑賞。
 まずは、長谷部安春「皮ジャン反抗族」1978@国立アーカイヴ。最初この作品を観る予定はなかったのだが、折角時間があるからと思って駆けつけたもの。ところが、なかなか素晴らしかった。別にすごい傑作とも思わないが、ここで描かれる主人公の人物像が、外見的にも内面的にも、僕が昔から憧れるような理想型にはまっていて、思わず引き込まれ、すごく癒されてしまった。先日の「オリバー」にも僕はかなり癒されたものの、現実の苦々しさがどうしても残って辛いが、こちらは虚構としての安心感がある。これからいやなことがある時はこの映画を観ることにしよう。あるいは、観れると思って安心することにしよう。
 続いて、松田優作主演のテレビドラマ「死の断崖」を観たが、これは全くの期待外れ。その後、阿佐ヶ谷に移動し、帯盛迪彦「ヤングパワー・シリーズ 大学番外地」1969@ラピュタ。京橋から阿佐ヶ谷へはすごく遠く感じるので、普段ならこんな移動はしないのだが、この作品を観るには今日しか機会がなかったのだ。
 僕は隆之介時代の峰岸徹の大ファンなので、彼の主演作・出演作はなるだけ観たいと思っている。とりわけ「赤木圭一郎の再来」と言われた大映時代の初期は、本当に格好よくて、惚れ惚れしてしまう。東宝の峰健二の頃はまだ子供で幼すぎるが、大映の再デビュー以後は体を鍛えて見違えるほどで、赤木よりも魅力的ではないだろうか。闇を裂く一発、出獄四十八時間、殺し屋をバラせ、講道館破門状、どの作品も素晴らしい。正直に言って、哀愁のサーキット、ザ・ゴキブリ、混血児リカさすらいひとり旅、鬼輪番など、大映以後の作品は、主演作と言えどもあまりパッとせず、大して面白くない。しかし、名画座などで彼の特集上映が全く組まれないことが不思議で仕方がない。
 この「大学番外地」はシリーズ二作目で、峰岸は主役ではないし、そんなに出番があるわけでもない。しかし、巨大な大写しが度々出て来て、じっくり顔が拝めるので、そういう意味ではすごく楽しめた。ただ、このクローズアップはいささか破格で、ちょっと吃驚させられる。子供の頃に読んだ「天才バカボン」に、見開きを全部使ったクローズアップのコマを配した実験作があったのを思い出した。また、江戸川乱歩が探偵作家としてデビューする以前の草稿で「映画とは美しい人間の顔を鑑賞するための顔面芸術だ」と論じているのも納得する。もちろん、もっと大昔には「裁かるゝジャンヌ」という金字塔があるのだけれど、この当時ですら、こんなに顔だけを大きく写したものは、そうそうないのではないか。まあ、顔の部分を異様に引き伸ばして、気持ち悪さを煽っている石井輝男の「異常性愛記録 ハレンチ」はあるにしても。
 内容的には、学生運動特有の理屈の応酬が、この作品の見所であり魅力だ。もちろん、徹底して皮肉として戯画化されている。しかし、反差別や反抑圧の理屈が容易に差別や抑圧に転化するところなどはよく描けていると思う。「リーダーを求める心情は間違っている」などという台詞は、理屈に強い憧れを抱いていた一昔前の僕がいかにも言いそうなことで、結構身につまされる。学生運動家が小賢しい理屈を捏ね繰り回すところでは、しばしば場内から笑いが起こっていたが、僕はあまり笑う気にはならなかった。やはりこういうことを笑い飛ばしてはいけないと素朴に思うから。もちろん、それは失笑なのか嘲笑なのか自己卑下の苦笑なのか、よくわからないけれども。
 その後、渋谷に移動して、「未体験ゾーンの映画たち」の中から、ポルトガル映画ディアマンティーノ」@ヒュートラ渋谷。少し風変りな作品だろうと思って、興味を覚えて観る気になったもの。しかし、何だかごちゃごちゃしていて、それほど大した作品ではなかった。観た後で吃驚したのは、主演のイケメン俳優が「熱波」の主役だったこと。ということは、この人は草月ホールで行われたポルトガル映画(「パッション」という監禁映画など)の上映会で来日し、御目にかかったことがあるはずなのだが、ほとんど記憶にない。つまり、失礼ながら、僕はこの俳優の顔と名前を覚えられない。この人は確かにイケメンだが、僕には日本のデパートによく置かれている白人のマネキン人形にしか見えない。無味乾燥というか無特徴というか、クローン的な美しさで(だからこそ、この作品の設定には合致しているのだろうが)、とりたてて印象に残らず、素通りしてしまう。僕はそんなにポルトガル映画を観ているわけではないのに、こんなに遭遇するとは、本国を代表する俳優で、相当の売れっ子なのだと思うが、僕のこうした認識は個人的な趣味や偏見か。それとも、ポルトガル文化の美の基準や状況を反映しているのだろうか。まあ、そんなに大袈裟な話ではないかもしれないけれど。