2018.12.04火

 〇職場に新しく入ったおばさんが携帯電話を持っていないということが話題となり、その際、上司より「こんな人員の少ない所でケータイを持っていない人間が二人もいる」と、皮肉とも嫌味ともつかないぼやきを聞かされる。そのために緊急連絡先が出向先の事務所経由となることがあり、その場合、間に人が入って、気を遣うことになるのが煩わしいというわけだ。
 僕がこれまでケータイもスマホも持って来なかったのは、何かに拘束されることが嫌いな性分だったからということに尽きる。僕は元々電話とは縁遠い存在だが、電話それ自体はとりたてて嫌いなわけでもない。学生の頃は、親しくなった友人たちと、何時間も長電話したりすることも普通にあった。ただし、電話を掛けたり掛けられたりすることは、基本的に自分や相手の時間を奪うことになるので、少しいやだなというくらいの気持ちはあった。ところが、ケータイとなると、話が格段に違う。出掛けていようといまいと、どんな時でも電話が通じるというのは、常に個人の時間を奪い取るかもしれない状況を完全なものにしてしまうということに思えた。もちろん、ずっと繋がっているがゆえに、緊急非常事態に活用できるという有効性は見逃せないが、それでも四六時中、呼び出しされる状態に置かれるというのは、個人が安心して孤独になれる時間や空間が一切認めらないと言われているような気がしたのだ。そういう圧迫感や拘束感が何とも耐え難かったので、僕はずっとケータイを忌避してきたのだと思う。
 もちろん、そんな話は大袈裟もいい所で、今ではそんな論理は通用しない。ケータイは通話だけのツールではない。ネットと繋がって以降、様々な情報をすぐに手元に引き出せるようになり、通貨や書面の代行にもなる。撮影すらできる。この利便性を無視できる謂われも正当性もない。映画マニアの僕にとっては、東京国際映画祭のチケットがQRコード式に変更されて、当初は大いに困ったものだが、パソコンだけは使うようになっていたから、そういう時にパソコンのメール上に表示された各種チケットを手持ちのデジカメで撮影して、プレビュ-画面を提示したりれば、何とかなる(入場の際によく失笑されたり感心されたりはするが)。しかし、これはやはり変な努力だろう。ただ、持っていないと、ますます不便を強要されることになるのは必至で、はね返り者の僕としては、それには何となく抗いたい気持ちにもさせられるが、そんなことにかまけず、やはりさっさと活用した方が、何につけてもいいに決まっている。それでも拘束感がいやというなら、単に電源を切って、無視してしまえばいいだけのこと。だから、何か一つの切っ掛けでもあれば、近々に僕も持つことになるだろう。
 それには嬉しい得点もある。ある程度製品開発が進んだ方が、より使い易くなっているという点だ。これは後の者たちの役得みたいなもの。経験を積み重ねるのも一興だが、始めから最先端に触れるのも一興だ。遅れて来る者に幸いあれ。ただ一つだけ懸念するのは、僕もスマホを使い始めたなら、巷の人々と同様に、大量の情報に押し流されつつ、依存症的な深みに嵌まらないとも限らない。何かを得ると何かを失うということを心得ておいた方がいい。