2018.12.04火

 〇新宿ケイズシネマにて、東京ドキュメンタリー映画祭の「未知の大陸アフリカ」プログラムを観る。上映された三本の短篇は、全て学者や市民運動家の制作によるアマチュア作品。いずれも面白かったが、特に村津蘭「トホス」(2017)に衝撃を受けた。
 ベナン多神教、ヴォドゥン信仰(かつてのブードゥー教)では、障害者は神の化身とされ、大切に扱われる。身体障害者でも知的障害者でも、卜占師のお告げを通して、神と認定される。崇拝すれば功徳を与えてくれる超越者となる。この作品では、一人の知恵遅れの青年が、子供たちなどから侮蔑的な態度をとられる一方で、周囲の人々から水の神トホスとして丁重に敬われ、沢山の贈り物が捧げられる様子などが丹念に描かれる。そんな彼の方も、実に屈託なく大らかでのびのびとしていて、その姿は確かに世俗を超越して、神々しく見える。
 ひるがえって日本や欧米では、障害者はややもすれば穀潰し扱いされ、差別され、隠匿される傾向にある。そのために、障害者は、成長の過程で何らかのトラウマを抱え込んで、屈折してしまうことも多い。そうした悪循環は確かにあると思う。しかし、ベナンのこの地方では、障害者は、差別的な負の状況を回避、あるいは社会的に回復する仕組みに組み置かれている。その点は一種の叡知として、高く評価されるべきだろう。それを、キリスト教の宣教師がしゃしゃり出て、そんな考えは迷信だと否定したり、西洋の社会活動家がノーマライゼーションの発想を持ち込んで、障害者は一つの人格で健常者と平等に扱われる存在だなどと言って裁断したりすると、名目だけは立つかもしれないが、かえって状況をひどいものにしてしまう。名誉だけでは仕方がないのだ。一方ではトラウマを与え、一方ではアイデンティティの確立を自他ともに強要する。これこそまさに西洋思想のダイナミズムであり、限界だと思うが、アフリカやその他の地域で、これまでどれほどの地元の叡知が、こうした近代帝国主義、あるいは主体中心主義に蹂躙されてきたことだろうか。ベナンのこの地方では、これまでそうした暴力からとりあえず免れてきたようだが、今度どうなるかは何ともわからない。
 様々な動物神が憑依してくる祭りにも吃驚した。神が乗り移った者は、激しく踊りながら、捧げられた動物の首許にかぶりつき、平気で血を啜り出したりする。舞台挨拶に来た監督によると、これは神が降臨したことを示すべく、人間がやりそうもないことを敢えてやろうとしてするものであり、日常的な行為とは全く繋がらない、と説明していた。なるほど、その通りだろう。多神教では基本的に、非日常と想像できる日常が神の領域になる。動物は、人間ではないものとして、非日常の存在だから、当然神の領域に入る。だからこそ、神の行為として、身近に想像し得る動物の真似をすることができるわけだ。ついでに言えば、ここには、真の意味での非日常、つまり絶対者は存在しない。そして、人と神が地続きだからこそ、人が一神教の神のように独立独歩の主体を確立する発想も必要も出て来なかったのだろう。つまり、ここには多神教の叡智と限界も深く立ち現れているのだと思う。
 いずれにしても、ヴォドゥン信仰の事例はとても興味深いし、多神教近代主義の入り混じった日本はもちろん、人類にとって重要なトピックだと思うので、詳細がますます知りたくなった。村瀬さんの今後の活躍に大いに期待するところだ。今回上映された作品は、祭りと障害者を撮影した二つの記録映像を合わせたダイジェスト版らしいので、映像内でなされなかった説明をもっとたくさん付け加えて、さらに長尺のまとまった作品に是非とも仕上げてほしい。
 この映画祭で興味をそそられる作品はもっとたくさんあったが、スケジュールの都合で、このプログラムしか観ることは叶わなかった。