2018.12.11火

 〇新文芸坐、旧フィルムセンターと映画を梯子した後、久々に東大に行く。文学部で開かれるミスタンゲット主演のフランス無声映画の上映会が目的。会場のホールには、数年前に東欧文学の公開授業でチェコ映画が上映された折り(ポーランド文学の沼野先生が司会だった)にも来たことがあるのだが、暗く小雨が降っていたせいも重なり、構内で少々道に迷ってしまった。僕はかつて一度訪れた場所や通った道はうっすらとでも覚えていたものだが、今回は来たことと二階だったことくらいしか思い出せなかった。やはり最近、記憶力がめっきり衰えている。
 ミスタンゲットと言えば、僕は何よりその猥雑さを含んだ舌足らずの不思議な濁声を思い浮かべる。僕は世界中の古い歌謡曲を、安価な輸入CDを手に入れては聴いていたが、ミスタンゲットもそのうちの一人で、その独特な歌声にすっかり魅了されたものだ。シャンソンの名曲集に大抵「サセパリ」か「私の男」が入っているから、それなりに名を残しているはずだが、歌手というよりはレビューに出演する舞台女優らしいとか、塚本邦雄は彼女の歌をあまり評価していなかったくらいの知識しか持ち合わせていなかった。だから、彼女の主演映画があると聞き、不意打ちを食らったように吃驚した。しかも、サイレントだから、彼女の声は全く入っていない。上映された三本の作品は、いずれもミスタンゲット自身が本人の役柄でパリの場末に潜入するという設定で、虚実綯い交ぜになったスター映画だった。声から受ける印象とは違って、意外と華奢な人だと感じたし、彼女のスターぶりについても十分知ることができた。オーソン・ウェルズの「ジョンソンに夢中」に映されたニューヨークの最初期の摩天楼と同様、ここに垣間見えるパリの風景も貴重で、すごく見応えがあった。
 三作品とも、片岡一郎さんの活弁付き。僕はどちらかと言うと、活弁はあまり好きではない。無声映画に伴奏はあった方がいいとは思うのだが、活弁は少々野暮ったさを感じる。とんでもない美声や奇声の持主であれば、それそのものに魅了されることもあるだろう(まさにミスタンゲットのように)。また、弁士が老若男女様々な声音を駆使し、使い分けるのは、流石に見事で感心する。しかし、映像を見れば了解できる事柄を、いちいち言葉で説明されたりすると、情報過多な気がして(何しろサイレント作品はパントマイム式に身振りが過剰なものが多いのだから)、時々うんざりしてしまう。もちろん、音声が失われてしまったトーキー作品や、活弁で説明されることを前提にしている最初期の日本映画の場合には、それは当てはまらないかもしれないが、弁士は多くの場合、沈黙に耐えられない。沈黙や余白の美をついつい蔑ろにしているような印象も受ける。
 また、これは字幕や一般の翻訳にも言えることだが、僕は日本語の女言葉の使い方が、気になって仕方がない。今時、実生活では、女言葉なんて、かなり年配の人か、オネエくらいしか使わない。つまり、ある種の女性性を演出する時にしか使われない、極めて行為遂行的な言葉だ。むしろ、オネエ言葉と呼んだ方が正確なくらいだ。だから、巷の女性が日常的にしゃべる言葉として、それが当然のように使われると、多少の違和感を覚えてしまう。それはもちろん、物事を分かりやすくするための一種の型であって、日本語には女だけではなく、子供・年寄・田舎者・有閑マダム・武士・渡世人・体育会系などが話すとされる言葉があって、それを使うと、その人の特徴がその場でわかる仕組みになっている。それはただのお約束事だから、実際にそういう人がそんな言葉を使うとは、誰も思っていないかもしれない。ただし、それはリアリズムとの緊張感を欠いている。ある種の時代劇のように、全て予定通りのステレオタイプで済むのならそれでいいのだが、だったら、ただの古典芸であろう。もちろん、それを極めるのも一つの手だ。
 初めて聴いた片岡さんの説明も、所々そういう印象を受ける。過剰な情報と、巧みな言葉遣いと声音の使い分け。しかし、時折思いも寄らないレトリックがあって、ハッとさせられる。なるほど、単なる説明でも敷衍でもなく、解釈ということなら、拝聴に値するし、活弁もじっくり聴いてみたいものだと思う。型を流暢に磨き上げるのか、多少の写実性を持ち込むのか。そのあらゆる可能性を、現代の活弁士は模索しているのかもしれない。
 型を作り型に徹することが写実になるのが物真似芸だと気が付いた。往年の時代劇スターの台詞を物真似で言うのも面白いだろう。きっとそういう弁士は、これまでにたくさんいたことだろう。

 *

 〇追記。オーソン・ウェルズの「ジョンソンに夢中」は「ジョンソンにうんざり」の誤りだった。僕はこの映画にすっかり夢中になっていたので、題名まで間違ってしまった。何より大昔の摩天楼の光景を様々な角度から眺められるのがすごく魅力的だが、ラッシュフィルムを機械的に繋いだだけの微妙な繰り返しも、同じように残された断片を張り合わせたと思しきジャック・スミスの「ノーマル・ラブ」みたいな中毒性があって、妙に面白かった。