幻の味をめぐって

 こないだ弟と話していると、「高いけどすごく美味しい焼肉屋で食べてから、他の焼肉が食べられなくなった」と言われ、いろいろと考えさせられました。自分も似たような体験があるからですが、少しばかり違っています。むしろ、発想は逆と言ってもいいかもしれません。
 それはとんでもないキムチとの出会いでした。十年以上も前のことですが、母親がパート先で、韓国から来た行商のおばさんが持ち込んだというキムチを手に入れてきたのです。おいしいから食べてみろと言われました。私は元々漬物が嫌いで、特にその臭いが嫌で嫌で仕方がなく、家でキムチや糠漬を漬けていたにもかかわらず、今まで一切口にしようとしなかったのです。ところが、どうしても食べてみろと言われ、口に含んでみると、なんという美味しさだったでしょう。それは今まで接したことの味で、世の中にこんなに美味いものが存在するのかと思ったほどでした。辛いのは辛いのです。途轍もなく辛いのです。しかし、その辛さに宿る旨み、そして広がる旨みと味わいに、まさに脳天が打ち砕かれる思いで、食でこれほどの衝撃を受けたのは本当に初めてでした。
 しかし、翌日ひどく下痢をしました。それどころではありません。唐辛子の辛味成分がかなり残存していると見えて、出口付近は煮えくり返った状態で、排出でこれほど汗をかいたのも初めてでした。かなり前に読んだ黒田春海『海峡は河なのに』(角川文庫1977)という本に、韓国でキムチを食べたら下痢をしたけど食べずにはいられない云々というくだりがあったのを思い起こし(うろ覚えですが)、全くその通りだと痛感しました。ただ、黒田さんはそのうち下痢をしなくなったように記憶していますが、こちらはそのキムチを食べていた間中、下痢のしっ放しでしたから、体質的に合わないということもあったのでしょうか。
 それから、三日ほど食べ続けました。その間、至福と苦行の繰り返しです。母親自身は辛いからと言って、あまりこのキムチを食べませんでしたから、結局ずっと食べていたのは私だけでした。しかし、とうとう尽きる日がやって来ます。また手に入れてほしいと母親に頼みました。すると、かのおばさんは数ヶ月に一度来る程度だとのこと。それより待つより他ありません。ところが、しばらく経って母親はキムチを買ってくれたものの、それはあのキムチとは全く違う味、似ても似つかない代物でした。訊くと、そのキムチは別のおばさんより購入したもので、前の人は日本にはもう来なくなったと言われたそうです(もっと後で、その人が何処の誰だか詳しく訊いてもらったのですが、韓国から来た埼玉の行商の人というだけで、氏も素性も全く把握されていませんでした)。あの味はもう手に入らなくなってしまいました。
 しかし、私はそれ以来、積極的にキムチを食べるようになりました。ここからキムチ(や漬物)に開眼したと言ってもいいのです。韓国直輸入は当然ですが、行商の露店物から、やや高価なものなど、いろいろと手に入れてみましたし、母親に教わって自分でも作ってみました。しかし、あの味には全く出会えません。下痢もしません。あれは夢か幻だったのか、どれも比べものにもなりませんでした。美味しいのもあります。それは美味しくいただきます。不味いのもあります。しかし、それでもいいのです。それはやはりキムチに他ならないと思うし、面影を食べることができますから。幻の味の面影を求めて(ふまえて)、キムチを食べるようになりました。
 つまり「すごく美味しい焼肉屋で食べてから、他の焼肉が食べられなくなった」どころか、あまりに美味しいものを食べたので、不味いものでも平気で食べられるようになったのです。
 もちろん、そこには違いがあります。元々好きだったかどうかという出発点が違うし、食べられる可能性があるかないかという機会の点でも違います。こちらは何処の誰が作ったともわからない、まさに夢のような代物ですが、あちらは十分手に届く範囲内にあるでしょう。具体的な店に行けばいいのですから。しかし、いくら美味しいものを食べたからと言って、それにしか眼を向けないのは勿体ない気がします。そこから広がる可能性に眼を向けなければ。
 ところで、唐突のようですが、フランス文学者の鹿島茂さんは、性に関する多くの卓見を披露する中で、「食への関心と性への関心は連動している」と述べています(『オン・セックス』飛鳥新社2001など)。確かにグルメの人は欲望に関してもグルメだと思うし、食に淡白な人は性に関しても淡白なような気が直感的にします。それになぞらえれば、初恋の人を想い続けながら、現実とそこそこ妥協してしまっていると言えなくもない。でも、初恋あっての恋じゃないですか。
 今となってあのキムチが食べたいかと問われれば、もちろん食べたいし、喜んで食べますよ。しかし、いつまでもゲリゲリで、お尻から火を噴いてばかりいるのはどうも、という気も少しだけしますね。それとも、もはや食べても下痢をしない体質になってしまったでしょうか。だとしたら、嬉しいけど、ちょっとだけ悲しいかも。幻に出会えなくても、出会えただけでも素敵なことです。夢や幻は現実に活用できるのですから。もちろん、現実化しても一向に構わないわけですけど。
 件の弟なら、それを訊ねて、韓国へ行くかもしれません。それも一つの生き方ではあります。現実派センチメンタリストではなく、夢想派ロマンチストとして。まあ、弟の性格を考えれば、実際にはそんなことはあり得ないのですけれど、これはこれで魅力的だなと思ったりもします。
 追記。最近、セルゲイ・パラジャーノフの「火の馬」(1964)という映画を観て、初恋にここまで溺れるのは、やはり悲劇だなと感じてしまいました。