2019.1.24木

 〇昨年末より紛糾している韓国海軍によるレーザー照射問題に関して新たな動き。東シナ海上で韓国軍艦艇に対して海上自衛隊の哨戒機が低空威嚇飛行を行なったとして、韓国外務省が日本に抗議したと報じられた。流石にこれには吃驚させられた。自衛隊がこんな応酬をするとは俄かには信じられなかったが、一連の対応に不満を持つ自衛隊員だって少なくないだろうし、ついに暴挙に出てしまった輩がいないとも限らないと心配した。
 ところが、その後の詳細を確かめてみると、それはやはり杞憂で、物理的・論理的な証拠に照らしてみても、そんな事実はないらしい。だとすると、これは韓国側の一方的な言い掛かりということになる。まさかそう勘違いしたというほど、韓国軍も低レベルではないだろうから、これははっきり意図的な行為なのだろう。いずれにしても、事態はかなり深刻で、まさかここまでの行動に突き進むとは思ってもみなかった。
 韓国軍の行為は、自分の体面を守るためにヤクザがよくやる手法と一緒だ。自分の体面を守るため、例え自分に非があっても、それを認めるわけにはいかない。非を認め得ない自分を正当化するため、相手の非を持ち出して、これでお相子だと手打ちにする。もし相手に非がなければ、同程度となるように、捏造や粉飾も辞さない。いやむしろ、証拠が出せないような、ありもしない事態をでっち上げた方が、相手がきちんと反論できない分だけ、都合がいい。そして、相手を宙吊りの状態に持って行って、自分も同じように反証する必要はないとして免責するという手だ。おそらくはこれを狙っているのだろう。それで一応、自分の体面だけは保たれたような気にはなるだろうから。
 これは完全に内向きの発想でしかなく、これで現実の他者を裁断するのは話にもならないのだが、体面の中で生きている人間には、このことが見えにくいものらしい。個人よりも集団の方がより強固に体面に縛られるものだろうが、その一方で、公的存在には、それを制御する術や力を内に持っているものだ。しかし、韓国の軍や政府までがこんな振舞に出るとは、呆然というより恐怖を感じる。
 そもそも儒教文化圏の人間は、日本やベトナムも含めて、常に体面に縛られがちだから、妥協がすんなりとはできない。つまり、対話が気軽にはできない。現在それに対抗しているのは実利主義で、早くから資本主義化された日本では、その影響がいちばん強いから、その体面主義は常に相対化のリスクに晒されている(だから、僕のような撥ね返り者も生きられるわけだ)。中国やベトナムはあくまで社会主義共産主義という体面を頑なに堅持しつつ、その主導という名目で、実利主義を許容する。ところが、韓国では、実利主義を軽蔑するがゆえに放任しながら、その弊害を道徳と同一視された体面主義で断罪し、少しも相対化しない。中国は元々現実的・実利的な発想があるから、体面主義とのバランスを、自分の都合のいいように操作している印象があるが、韓国はその二つの間で自己を傷つけ合っているように見える。これはおそらく昔からの伝統で、こうした体面と実利、あるいは体面同士の争いに明け暮れて、少しも近代化しようとしない朝鮮王朝に業を煮やして、福沢諭吉は「脱亜論」を書いてしまったのだろうし、あるいは、朝鮮を植民地化するというより、まるまる併合・併呑してしまうという発想を日本の帝国主義者たちにもたらしたのだろう。
 こうした体面意識は、何も儒教文化圏に限ったものではない。マッチョな中南米諸国、王族支配のアラブ中東諸国にも、それなりの面子と体面がある。しかし、それ以上に深刻なのは、名実とも大きな領土を抱える大国で、現時点で厄介に思えるのは、中国もそうだが、ロシアの大国主義だろうか。ロシアは例えばGDPでは韓国やブラジル以下の国なのだが、大国としての面子と威信のために、実利を度外視して、旧ソビエト圏の周辺諸国に、いまだに平気で戦争と仕掛けてしまう。中国のチベット侵攻も然り。こうした国は領土問題などで妥協することはまずできないので(日本ですらできないのに)、よほどアクロバット的なことでもない限り(例えば面子のために面子を捨てることができるような状況が成立しない限り)、なかなか解決はできないだろう。これらは全て文化の問題だからだ。文化が変わらない限り、実質的には何も変わらない。そのためにはまず文化の相対化が認識されなければいけないだろう。
 蛇足。傍目で見ていて、韓国社会の大きな足枷となっているのは、極端な財閥支配と、ほとんどアイデンティティ化された恨の感情だと思っている。この二つは密接に繋がっている。この社会の風通しが良くなるためには、財閥解体が決定的に必須だと思うが、これを恨の勢いでやってしまうと、同じ袋小路に陥ってしまうだろう。大変なことだ。

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 〇ウラジーミル・メニショフ「モスクワは涙を信じない」は、僕が大好きなロシア映画の一本なのだが、後に主人公のおばさんと結ばれることになるおじさんが、すごく物わかりがいいのに、妙に体面にこだわり、些細なことで結婚を止めようとして、観客をハラハラさせるのは、今から思うと、とてもロシア的な着想と演出なのだ。
 モスクワは涙を信じない。モスクワでは涙は通用しない。泣いたところで仕方がない。メソメソしたって始らない。一見ミスマッチな題名を女に適当してみせるのは、いかにもソビエト的だが。