2018.11.20水

 〇僕がこの社会に生きている上で感じる多少の違和感は、僕のパターナリズムにあるらしい。僕にももちろん好き嫌いはあるし、それによって自分の行動が大いに左右されていると思うが、これをやるべきだと思っていることは、いやでもやらなければならないと考えるし、そうでありたいと願っている。そして、それがいやなことだとしても、それを楽しむしかないと観念している。だから、いやなことは、そんなにいやなことではない。いやなことをわざわざしたいとは思わないが、どうせいやなことをせざるを得ないのなら、ただでさえいやなことを、いやいやながらするのは、いやの上塗りをしているだけではないか。楽しんだ方が圧倒的に得だし、まさに楽なのだ。だから、僕はいろんないやなこともしてきたし、いやなことをし続けている。必要なことだからだ(だからこそ、それを正当化する理由は、確実なものでなければならないし、そうでないと、怒り心頭に達してしまう)。
 ところが一般に、いやなこと(より具体的に言えば、汚いこと・穢らわしいこと・難しいこと・危険なこと・面倒臭いこと・間違うと責められること等)を人はいやがるし、それを避けようとする。かつまた、そんな姿勢に同情し、その状況を正当化し放置する。場合によっては、その状態を、何事もないかのように隠蔽する。そこでは、それでは駄目だという人間を、波風立てる存在として、煙に巻こうとする。そして、平穏な空気を作り出そうとする。しかし、それは決して平穏ではいられない。なぜなら、いやなことを避ける過程で、強い立場にある個人が、往々にして感情的に、弱い他者に、平気でいやなことを押しつけることができるからだ。
 また、そもそもそんな状況が成立しているのも、誰かが必要なことをしているからで、その人の恩恵を被っているのだ。人がいやなことを避けられるのも、いやなことをしている人間がいるからだ。つまり、皆がいやがれるのも、例えば僕のような存在が、いやなことを引き受けているからだ。別に僕の場合は、それほどいやがっているわけでもないから、やっても全然かまわない。むしろ、僕がやることでうまく収まっているのなら、それは素朴に良いことだろう。しかし、この状況は脆弱で、いつ破綻するかわからないし、人を利用し甘い汁を吸っているような体制を、このまま放置しておくことが良いとは到底思えない。まさに部落差別を容認し続けることができないように。
 ここで僕がパナータリスティックな主張をして、人にいやなことをさせても、そのこと自体は何ら問題にならないはずだ。例えひどい結果が生じたとしても。と思うところが、まさにパターナリズムなのだが。短期的にパターナリズムは穏便を目指す結果主義に敗北する。だから、結局は漸進主義を採らざるを得ない。しかし長期的には、その真価をきちんと見極めないといけない。感情的なエゴイズムの権力闘争とは決定的に区別しなければならない。
 思うに、自衛隊原発の置かれている状態も、方向性は逆だが、同じようなものだろう。

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  〇小川眞「キノコの教え」(2012岩波新書)読了。石炭が形成され、現代まで残っているのは、地球史上の過程で、植物(生産者)の特定の進化に対して、分解者(菌類)側の態勢が追いつかず、不均衡だった時期があったためとのこと。なるほど、完全な生態系は一朝一夕のうちに出来上がったものではない。歴史的な紆余曲折があったのだ。