2018.11.24土

 〇人と対話するということは、実に面倒臭いものだ。同じ言葉を使っていても、その人の体験や価値観や文脈がべったりと貼り付いていて、互いの意図が曲解され、きちんと伝わらないことが多い。特にそのことを自覚していない人と話すことは、まどろっこしくて疲れる。コミュニケーションとは常にディスコミュニケーションと裏腹で、そのストレスを甘んじて引き受けるしかないが、そこに賭けるより他に選択の余地がないのが、全くもってもどかしい。
 例えば、ある問題が発生して、その解決を目指している時に、拙速な実利主義者とは、なかなか話が通じない。そのことに、すごく気が滅入ってしまう。僕などは問題の直接的な原因だけではなく、その背景や周縁にある間接的な原因も重要だと考えるし、さらにはその問題も含まれた根幹的な構造自体も見逃せないと思ってしまう。そして、そこに手を付けなければ、最終的な解決とはならず、同じような問題がまた繰り返されるのを許すことになると危惧してしまう。しかし、多くの実利主義者は、そんな話をすると、すぐにいやな顔をして、議論の内容を検討するより先に、そんなのは屁理屈だと平気で切り捨てて来る。そして、表層的な事柄を適当に片づけて、それで済まそうと躍起になる。僕ももちろん、自分の言うようなことに実際に手を出すのは大変なことだし、それよりも応急処置的な対応をするのが先決だとは思うから、反対するどころか、積極的に関わりを持つものの、それはあくまで臨時措置という認識でしかない。しかし、そうして一旦落ち着いてしまうと、以前と同じような「日常」に戻ってしまい、さも何事もなかったかのように済まされがちになる。少しも教訓が残らない。そして、似たような問題が生じた時に、同じことが繰り返される。この「日常」の恐ろしさを、僕はいつも肌に感じてしまう。だから、それに批判的な僕の物の考え方が往々にしてシャットアウトされるのはよくわかるのだけれど、この考えだって、本当は実利的に使えるはずなのにね、とも思う。
 さらに言えば、先のような半端な実利主義者たちに限って、原因の段階や質の違いについて無頓着なものだから、問題にまつわる様々な事柄に引き摺られて、別個に分けるべき問題を、自分の議論の中ですら混同していることが多い。明らかにある何かが問題なのに、自分の感情的な思い入れによって、過大あるいは過少に評価された別の何かと重ね合わせ、それに対する非難や擁護も混ぜ込んで、事の筋道を捻じ曲げてしまいがちになる。だから、話が結構わかりにくくなる(そして、その点およびその感情に気を遣わないといけないから、反論し辛くなる)。もっとも、そこら辺に自覚的な場合もあって、これは自分の感情に過ぎないがと前置きして来る人も時々いるが、そういう開き直りはただの自己顕示で、実質的には何の意味もない。わかっているなら、言わない方がいい(これは自戒も込めて)。
 いずれにしても、その程度の認識や覚悟で、こちらの問題意識を切り捨てられては、たまったものではない。理屈は棄嫌に矮小化され、感情は愛惜に正当化される。こういう相対主義の悪用、いや似非相対主義には、ほとほとうんざりさせられる。