2018.12.18火(続々)

 〇ギャンブルをめぐって思い出したこと二つ。
 一つ目。僕のギャンブル嫌いに影響を与えたと思えるのは、パチンコの他にもう一つある。競艇だ。僕は小学生の頃、パチンコ屋に何百回も出入りしていたわけだが、競艇場にも何度か行ったことがある。うちの店に競艇好きの常連さんが何人かいて、彼らに連れ出されて、よく家族で出掛けたのだ。
 そういう常連さんに連れ出され何処かに行くというのは、僕の大きな楽しみの一つだった。競艇場に行くこともそうで、僕の言う通りの舟券を買ってもらって、うれしかった覚えがある。
 ところが、八・九歳歳の頃だろうか、ある常連のおじさんに連れられて、二人だけで行った時のこと。今では禁止されていると思うが、その競艇場にはその当時、一部の観客席の前に、長さ五メートル幅三〇センチほどのいい感じのコンクリート壁があって、そこに上がると全体を一望できるので、観客たちは席には座らずに、こぞってその場所に登って観戦していた。常連さんはレースの合間、皆が舟券を買いに行く隙に、僕をそこに居残らせて、自分のスペースを確保しようという寸法だった。つまり、場所取りのために僕を連れ出したのだ。
 僕はその期待に応えて、小さな体を広げて場所を取った。残りのスペースはすぐに埋まっていった。しかし、空き場所がない状態になってから、酔っ払っていそうなガラの悪い親父に「このガキ、どけっ」などとどやされて、無理矢理押し出され、追い払われて、完全にその場を奪われた。やがておじさんが戻って来たが、どこにも入る余地はない。彼は不審な表情を浮かべて、半べその僕の言訳を聞いた。そして、僕を押し出した親父としばし言い争っていたような記憶がある。僕はその常連さんのことを決して嫌いではなかったが、それ以降は、競艇場に行くことを渋り、拒否するようになった。たぶんそれからは記憶の限り、競艇場には足を踏み入れていない(今ではまた行ってみたいが)。この体験もずっと一種のトラウマの一つになっていたのかもしれない。
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 二つ目。父の行きつけのパチンコ屋は、すぐ近所と、徒歩十五分くらいの所と二件あった。客がたくさん来て、母(と僕)だけでは対応できなくなった時、父を連れ戻すのは僕の役目だった。出前用のスーパーカブの有無で行先を区別し、ある場合は近所、ない場合は遠方の店で、その時は片道のバス賃をもらって出掛けた(帰りは父のバイクに同乗するから必要なし)。電話で呼び出せばいいようなものだが、それでは父はなかなか戻っては来ない。自転車でも行っていたが、それでは時間が掛かり過ぎるのだ。
 近場の店の店員の何人かはうちの店の常連客なので、僕の顔を見たら、すぐに父のいる所を教えてくれた。遠方の場合は、マネージャーしか僕を認知してくれないので、店内を随分と探しまくった(どちらの店も現存しないが、大分後になって、更地となった遠方の店舗の跡地を見て、こんなに狭い空間だったのかとすごく驚いた覚えがある)。父は僕に発見されると、すぐにパチンコを止め、残り玉をさっさと打ち切って、僕と一緒に帰ったが、その時は別にいやな顔をされた記憶はない。もしかしたら煙草と同様に、形式的にやっていただけで、本当は中毒と言えるほどのものではなかったかもしれない。
 玉がたくさん出ているのに遭遇したことは滅多にない。父は原則として出玉は煙草としか交換しなかったが、僕が迎えに来た時に大幅に勝っていた場合には、珍しくも景品で僕に何か(チョコとか缶コーヒーとか)をくれたりした。多少の後ろめたさがあったのか、たまたま玉が余っただけなのか、それは今でもわからない。
 僕は父には嫌悪の思い出が山ほどある一方で、父のいいイメージを思い起こそうとすると、実は幼い頃の、この時の情景が思い浮かぶ。特に、遠くの店に迎えに行って、父のバイクに同乗して帰って来る時の感覚だ。小さな時は、座席の先端に、父の体に包まれながら、ちょこんと座っていた。少し大きくなってからは、後ろの荷台に跨り、じっとしがみついていた(そう言えば、マフラーの熱気のために、左足を火傷したこともあった)。前提は間違っているのだが、父がすぐにパチンコを止めて帰ってくれるのは、当時の僕にしてみれば、この上なくうれしく感じたものだ。
 父のバイクに同乗したのは、他にもある。浅草の酉の市に行って熊手を買った時や、河童橋に調理器具(焼肉用の網など)を仕入れに行く時などだ。しかし、こちらは長距離だし、しばしば道に迷うので、素直に喜べる感じはなかった。それに比べて、パチンコ屋の方は、懐かしさだけが甦る。僕の呼び出しに応じて一緒に帰ってくれた時の安堵感、珍しく何かをもらった喜び、父の生身の抱擁と温もり、風を切って走る爽快さ。矛盾しているが、これが数少ない父の美化された思い出だ。