2018.12.18火

 〇夜の仕事が終わった後、職場の人たちと一緒に、そのまま会社の忘年会に行く。昼に仕事が終わった人たちは、少し前から先に飲んでいて、既に出来上がっている。以前はこの二段階方式のままで割勘にしていたから、金銭的に揉めていたが、年に一度、会社の経費でほぼ全額を落とせるようになって以降は、誰も文句を言う人はいなくなった。しかし、最近人間関係がギスギスしているので、始まるまでには多少の曲折もあった。
 僕はこれまでこういう席にあまり行ったことはないし、それほど行きたいとも思わない。はっきり言えば、苦手だ。というのも、僕は酒との付き合い方が多くの人と違っているらしいからだ。大体の人は酒が入ると陽気になり、普段口にできないことを口にするし、それが許されるとも思っている。当然ながら、酒の席は、鬱憤晴らし、憂さ晴らしの場なわけだ。ところが、僕はどうにもその主旨に沿わない質の人間で、酔ったり憂さを晴らしたりする暇や動機を、そもそもあまり持ち合わせていない。楽しく騒いでいる雰囲気はもちろん享受するものの、かえってストレスを感じてしまうことの方が多い。
 一つの大きな原因は、僕はまず体質的に酒に強いらしいこと。酒が入っても、なかなか酔わない。酔わないわけではないが、酔うには、かなりの量を飲まなければならない(これまでに二日酔いの症状を体験したのは一度しかない)。最近は年を取ったせいか、比較的弱くなって、少しの量でも酔うようになりつつあるのだが、それでも相手が酔い潰れる場に遭遇し、介抱役に回ることの方が多い。だから、飲んでも普通に冷静で、素面とそんなに変わらない。記憶も鮮明だ。酔ったら、体の方が先におかしくってしまう(飲み過ぎて吐いたことは何度もあるが、その時のことも鮮明に覚えている)。
 そのため、僕は普段から酒はほとんど飲まない。アルコールは嫌いではないし、日本酒と赤ワインは大好きなのだが、晩酌をするほどの興味や習慣もない。酔いたいとも思わない。どうせそんなに酔わないのだから。また、僕は自分がへべれけに酔っている姿を想像するのがどうにもいやなので、そういう自制も確実に働いている。ただし、変わったものへの好奇心は旺盛なので、珍酒や銘酒ならすごく飲んでみたい衝動に駆られる。だから、最初は「とりあえずビール」に合わせても、そのうちによくわからないようなものに手を出そうとして、不興を買ったりもする。しかし、そんなことでもなければ、わざわざ酒を飲もうという気にはならない。
 さらに、僕は普段から言いたいことを言っているつもりなので、とりたてて言いたいこともないし、酒の力を借りて晴らしたいような鬱憤も思いつかない。素面の方がよっぽど饒舌に(あるいは果敢に)しゃべっていると思う。それに、僕は基本的に、自分のことや言いにくいことを、あまり言うつもりもない。僕はなかなか変わり者すぎて、不用意に何か言うと、ドン引きされることが多いからだ。そういう自制心も少なからずあると思う。そして、ようやく酔いが回ったとしても、自制を解除するより先に、呂律が回らなくなって、言葉を発するのが億劫になって来る。だから、結局は人が話しかけているのに応えているか、人の話を聞いているかになってしまう。もっとも、思考だけは明晰だから、多少の気は遣って、適当な突っ込みを入れたりもする。だから、話の腰を折ったり、水を差したりはしないと思うが、話を盛り上げたりすることもほとんどないと思う。
 ところで、酒の席は鬱憤晴らしの場と言っても、ここで晴らされる鬱憤とは、多くの場合、上司の鬱憤でしかなかったりする。そもそもこういう席は、無礼講などと称しながら、上の者の言いたいことを、一方的に下の者に聴かせる場になりがちだと感じる。もちろん、飲み会の規模が大きければ大きいほど、個人はてんでんばらばらで、偉い者の愚痴や説教を聞かされる機会をうまいことかわすことはできるから、そういう意味で、逃げ場は十分にある。しかし、とは言いながら、それなりに気は遣っているので、僕にとっては、酒の席とは事実上、神経を擦り減らす所、ストレスや鬱憤を溜めに行くような場所になってしまう。時々酒が飲めなくて、飲まない人がいるが、よく酔っ払いの行動に付き合っているものだと感心する。
 この時、ちょっとした下心でもあれば、多少は違ってくるのだろうが、そんな興味はとうの昔に何処かに落っことしてしまった。また、とんでもなく魅惑的な面白い話が出会えるのなら、興味津々に聴くこともできるだろうが、出て来るのは大体はどうでもいいような与太話ばかりだ。酔いが醒めれば、皆忘れてしまっているような、他愛もない無駄話。しかも、往々にして矛盾だらけで、少しも整合性が取れていない。たぶん内容なんてどうでもよく、むしろ安心して忘れられるようなものでなければ、口にしてはいけないのだ。まさに忘年会の名や場に相応しい。そして、無礼講とは、上下の別なく話してもいいということではなく、酒の席で出た話は一切忘れて、何の責任も問わないという意味であり宣言なのだろう(さらには、皆で馬鹿話をして忘れたという同じ体験をして、ある種の仲間意識を共有しようという主旨も含まれているに違いない)。しかし、僕は持ち前の性分からか、その流れに乗る気もないし、ついつい話の中身を聞いてしまおうとする。そして、その無内容さに辟易して、あるいは辻褄の合わなさに苛ついて、次第に徒労感を覚えてしまう。こんな調子だから、僕が何か応えたとしても、面白いはずがない。僕自身もつまらないし、相手からも、飲んでつまらないやつということになるだろうと思う。
 それにしても、どうして巷の人々は、男女問わず、こうして酒を大量に飲んで、羽目を外したがるのだろう。集団性にかこつけて、普段抑えつけている欲求を放出させ、不満を解消しようというのか。あるいは、普段ではわからないようなその人の意外な一面を垣間見せて、ギスギスしがちな人間関係を和らげようというのか。しかし、僕に言わせれば、それは諸刃の剣で、場合によっては、事態をより悪化させることだってあるだろう。現に、時々そうなっているように見える(今日も始める前に一悶着あったばかりだ)。何しろ、いろんな人がいて、いろんな時と場合があるのだから、どっちに転ぶかはわからない。おそらくはその予防線として、最初から同調者をそれとなく選別しているような気もする。もちろん、それでも免責・忘却を強行するのが、無礼講の鉄則であり荒業なのかもしれないけれど。
 僕はこういう席で自分のことを話さないでいるのは、やはりその後の関係に支障を来たすと思っているからだ。別に自分の本性を隠す気負いもないし、さらけ出してもいいのだが、僕の感性は、多くの人を置いてけぼりにさせるらしい。安心して忘れられるようには、なかなか提供できないものだ。それは単に性的なことに限らず、些細なことでもよくそうなる(むしろ、酒の席ではない場合の方が、面白がられやすいような気がする)。そして、本格的に酔いが回れば、先に書いたように、そんな自制が解除されるより前に、体調の方が崩れて、会話どころではなくなってしまう。だから、仮に同じような傾向の人と飲んだとしても、結局はあまりしゃべらないのではないか。むしろ、全く異質の人と(全ての他人は根本的に異質だが)、違っていることを前提にして(面白がって)、雑談できればいいと思う。そのためには、酒が入っていない方がいいだろうし、入っていたとしても、主ではない方が、さらに集団よりも一対一の方がいいだろうと思う。
 僕はどちらかと言うと、ハプニングを楽しんでしまう質の人間で、多少の好き嫌いはあっても、どう転んでもいいやと思ったりするから、つまらない目に遭っても、これはこれで面白い体験だと感じたりもする。だから、一部の人のように、苦手でも、行かないと決めたりはしない。同調しないことにも何らかの意義はあるはずだと思う。しかし、こういう発想は、やはり相手(同調したい人々)を騙しているような感じもして、多少の疚しさを覚える。楽しく騒いでいる雰囲気だけを掠め取っているようなものだ。そのことも含めて、飲酒や宴会の文化(ついでにカラオケも)はつくづく自分に向いていないと、今さらながら感じてしまった。
 
 *


 〇ついでに、話すとよくドン引きされる(された)リスト。
 ケータイは持っていない、冷暖房は点けない、四駅くらいの距離なら歩く、日帰りでかなり遠くまで出掛ける、多少の食事を抜いても平気、虫を食べる、知らない料理を注文する、消費期限を気にしない、よく献血する、怪我や血も見ても何とも思わない、性病や性向やピンク映画の話をする、一日に映画館をいくつも梯子する、いろんな言語や文字を学ぶ、民族音楽や邦楽を愛聴する、裁判を傍聴する、宗教の施設に入ってみる、縁起を担がない、記念日や恒例行事に関心を示さない、自分の年齢を覚えていない、勝負事の結果に興味を示さない、今とは違うその人の昔の言動を持ち出してしまう、等々。つまり、普通の人が滅多にやらない(らしい)ことを「平気で」するということ。
 それに、僕の父親の話もあるか。僕は時々受けを狙って、父の仰天エピソードを披露するのだが、唖然とされるか、怪訝な顔をされるばかりで、あまり面白がってはもらえない。