2019.2.7木(続)

 〇僕はもう二十年近く同じ職場で働いているが(会社は三回変わっている)、その間に、たくさんの「使えない人」「駄目な人」に遭遇してきた。明け透けに言ってしまえば、今でも三割強はそういう人たちと一緒に仕事をしている。かつてはそうでもなかったが、ここ最近は、新しく入る人たちの多くはそういう感じの人ばかりになっている。「できる人」は滅多にいない。できる人は来てもすぐにいなくなってしまうが(それでも残っているのは職場を変わるのが面増臭い怠惰な年寄りたちだろう)、そうではない人もそんなに長くは続かない。だから、常に入れ替わりが激しい所なわけだが、これまでに三十人以上は、そういう駄目な人たちと接してきただろうか。
 それでつくづく思うのだが、以下、不謹慎を承知で続けると、使えない駄目な人は、大きく二つに分けられる。一つは人間関係が駄目な人。二つ目は要領が駄目な人。そして、両者に共通するのは、想像力の欠落ということに尽きると思う。
 人間関係で問題がある人に関しては、話が別になるので、ひとまず置く。要領が悪い人には、男女を問わず、たくさん出会った。先の『夜明け』に出て来るのも、こちらの方。小さい頃、小学校でもそういう要領の悪い子がクラスに一人や二人はいたものだが、その子がそのまま大人になると、こういう人になるだろうなと思った。
 要領の悪い人は総じて、手際のいい仕事ができない。始めから覚えも悪いし、覚えてもすぐ忘れるし、行動も遅く、そして余計なこともする。何か一つでも得意分野があればいいし、そういう人も若干はいるのだが、どんなことをやらせても大抵はうまくいかない。しかし、そんな人たちと度々接してきて気付くのは、大体同じようなパターンにはまっていて、同じような発想をし、同じような行動をとるということだ。もちろん、生まれも育ちも性格も背負っているものも違っていて、それぞれに個性的なのだが、大筋では驚くほどよく似ている。
 まず、そういう人は物事を覚えたり、理解するのに、とても視覚的・表面的な捉え方をする。目の前の出来事にすぐに呼応し、何かが起こったら何かをするという風に、とても単線的・連鎖的で、機械反応的な行動をとる。ところが、世の仕組みは、それ以上に複雑かつ重層的で、そうすんなり行くものとは限らない。複数の事柄を同時進行しなければならないこともある。また、何につけても、物事には例外があり、そして例外にも例外がある。また、限られた制約の中で、時と状況に鑑みて、複数ある案件に優先順位をつけなければならないような事態も起こる。だから、それらに対応するために、物事の主旨や目的をまず押さえ、そこから逆算して、やるべき行動を判断する必要がある。しかし、彼らはそういう風に構造的・戦略的に考えるよりも、それら全ての物事を既定の事柄として、一元的・平板的に丸暗記することに腐心する。もちろん、最初は誰でもそうだろうし、それでもある程度対応できるのならそれでもいいのだが、そういう人は大体、作業記憶の容量も多くないので、そのパターンを全て覚え切れるわけでもない。新しいことを覚える度に、しばしば上書きしたり、混同したりして、うまく整理ができないことが多い(覚えようとして大量にメモを取ったりもするが、必要時に引き出せないので、ほとんど活用できない)。だから、覚えるのにすごく時間が掛かるが、得た知識にも斑がある。そして、ちぐはぐな知識のまま、重層的な事柄をも、単線的に処理しようと奮闘して、作業上、膨大な手間暇を浪費することになる。
 (逆に言えば、多くの人は普段何も考えていないようでも、それなりに知性や判断力を働かせ、その都度、創意工夫をすることで、記憶の容量を省略しているのだということがわかる。人類史的に見ても、人称を独立させることでラテン語サンスクリット語などの複雑な格変化を覚えなくて済むようにしたわけだし、そもそも文字を発明し記録を残すことで個人の頭の中で記憶しなくて済むようになったわけだ。それに、よくよく考えてみれば、この世のありとあらゆる例外や優先順位を覚えることなど、どんな人間にも不可能で、そんなことをしていたら、本当に不測の事態には決して対応できやしないだろう)
 だから、彼らはその行動がなされる条件節や文脈を、しばしば飛ばしてしまう。文脈をそう覚え切れないためだ(そもそも文脈とは覚えるようなものではないが)。そのため、脈絡はしょっちゅう無視されて、ある条件下でなされるべき限定的な行為が、いつの間にか一般化して、いつでも遂行されるような絶対的なものと化してしまう。仮言命題が定言命題にされてしまう。そのために、すべきではない状況でも、いつも通りの振舞をしがちで、しばしば事態の混乱を招く。
 さらに問題になるのは、その傾向にどんどん突き進んで、手段と目的が転倒するということだ。例えば、ある目的のためにある作業が必要だとしても、その作業をすることの方が目的化するということがしばしば起こる。そのため、作業がすぐに形骸化する。その具体例としては、流しやシンクなど、大きなものを清掃させてみるとよくわかる。彼らは綺麗に洗浄する目的で、洗剤を散布し、擦り、水で流すという作業をするわけだが、普段はあまり汚れないために、いつもの段取りに入っていない箇所が汚れていても一向に平気なのはもちろん、そのうちに、例えシンク自体にそれなりのごみが残っていて、洗い残しがあっても、それほど気にしなくなる。普段の通りに手を動かすこと、ルーティンを消化することが目的になっているので、綺麗に洗われているかどうかは、二の次になっていく。ちなみに、僕はそうした事態に何度も遭遇し、その都度たしなめてきたが、すると彼らはどう対応するかと言うと、今まで以上に洗剤を大量に投入するなどして、形式作業の強化を図るだけで、だから、そのうちまた、同じような状態になる(しかも、今度は、溶剤の使用量が増えた分だけ、ひどくなったとも言える)。このように、ある作業をする過程においてなされる付随的・副次的な事柄が、その作業をする主たる意味に変換・昇格されるという事態がよく起こる。だから、これは転倒と言うよりは、そもそも区別や整理がないと言うべきで、そのため、歯止めもないのだろう(なお、ついでに言うと、ルーティンは結構流動的で、常にギチギチに固定されているわけでもない。いつもの日課の延長線上で、逆に余計なことまで踏み込む場合もある。先の清掃の例で言えば、電気の配線や配電盤などが設置されていて、清掃には注意を要する箇所があったとしても、いつの間にかその配慮が失われて、周囲と同じように水を大量に掛けて洗うことが常態化してしまい、防水処置の限界を突破して、漏電や故障を引き起こしたこともある)。
 そうした混同は、時間の領域にも及んでいる。彼らに概ね共通するのは、昔から物覚えが悪いと周囲から責め立てられてきたらしく、そのことにすごく引け目やトラウマを感じているということだ。そのため、自分は「できない人間」だといつもくよくよし、あるいはある意味あきめて(開き直って)いる。その一方で、怒られることがないようにと、いつも気に掛けていて、そのための努力は惜しみなくする。ところが往々にして、その点ばかりに目が行ってしまい、怒られなさそうだと思えば、手を緩めて努力をしなくなる一方、かつて怒られた覚えのある失敗の再来を気に病んで、そうならない予防線を張ろうとするあまり、先走って前の作業を妨害したりなど、現時点でやるべきことを飛ばしたり、ないがしろにしてしまう。そうしたあべこべな失敗をよくする。ここでは、過去と未来の交錯と混同が起こっている。時間的な優先順位をつけることもできていない。先に想像力の欠落と書いたが、彼らの発想は決して形而下に留まっているわけではなく、想像力が仇になっている場合もある。
 だから、彼らは基本的に、他者との共同作業に向いていない。自分のしていること・認識していることに精一杯なので、共同作業をしている相手の動きに合わせて、自らの行動を律したり調整したりすることはあまり得意ではない。だから、それなりにできる人(や刺激を与える人)と一緒でなければ、共同でやる仕事は回らない。そういう人同士が隣り合わせになると、お互いのことを意識しない分、嚙み合わせが悪くなり、空回りして、仕事が大きく滞ってしまう。だから、そういう人の比率が少ないうちは何とかなるが、高くなればなるほど、掛算式に仕事の効率が悪くなり、多くのロスタイムが発生する。また、それ以上に危ういのは、失敗の連鎖と増幅が起こりやすくなるということだ。誰かが失敗したとしても、周りの誰かがそれに気づいて阻止すれば、問題は未然に防くことができるが、そういう人たちが合わさっていると、そもそも失敗や冗費が発生しやすい上、出て来た失敗は見過ごされ、ずんずん素通りし尾鰭が付いてしまって、最初は些細なケアレスミスだったものが、重大な過失にまで肥大化するということがよく起こる。
 僕は彼らが物事を錯綜したまま平板的に覚えようとしている(また本人たちもその膨大さにうんざりしている)ことは、はっきり無駄だと思うので、思考に重要度の段階的な差別をつけて整理すること、つまり主旨や目的をまず理解して、そこを基準に判断して行動するようにすれば、覚える量も少なくて済み、圧倒的に楽なのだといつも力説しているが、なかなかうまくいかない。そもそも覚える時だって、教える人の話をちゃんと聞いているのか疑問に思うこともあるし、それこそ、こちらの主旨を斟酌してはくれない。僕の言うことも、実際にする作業も、重要度は一律で、覚える対象としては等し並みに扱われている(いや、もっと言えば、形而上のことは軽視か無視されている)。そして、覚えるべき事柄を何度も何度も繰り返して、長い時間をかけて、短期記憶を長期記憶に変え、固定することに専念する。まさに定言命法的に。
 (ついでに言うと、その過程での困難もあって、これは一部の人だけだが、そうして多くの作業を反復・体験して、多くのことを覚えていけばいくほど、仕事がどんどん遅くなり、できなくなっていく人もいる。これはおそらく、以前は単純な知識と反応だけで作業できていたから平気だったものが、これまで考えてもいなかった知識が増えると、それが邪念のように機能して、不必要な行動や迷いを増幅し、作業効率を狂わせているものらしい。だから、そういう時には傍から余計なことを言ってはいけないのだが、いずれにしても、整理をつけないままだと、世界を知れば知るほど、情報の過多に惑わされることにもなる)
 もちろん、そうは言いながら、長い期間をかけて、それなりの事象を覚えて行き、段取りを習得していければ、どんな人であっても、手際は改善されるし、それなりの仕事や対応もできる。この時、些細な事柄でも重大事になっていて、絶対化・形式化しがちなのだが、通常業務上は、そんなに支障があるわけでもない。ただし、うまくいくのは、いつも通りに事が進んで行く時の話で、事情が変わり、やるべきことの主旨や目的が一定以上変化してしまうと、それが通用しなくなる。いつもの段取り通りでなければ、途端に仕事ができなくなる。また、時間の制約で、行動を簡素化や省略することもできない。主旨や目的をわかっていれば、変化に合わせて、行動も微調整できるのだろうが、そういう可動性はあまりないので、一からの覚え直しになってしまう。新しい段取りを構築しなればいけない。
 ところが、ここで厄介なのは、彼らにとって、やっとの思いで獲得した長期記憶は一種の財産であり、拠り所となっている点だ。だから、それらは往々にして、すごいこだわりと化している。そのために、いざと言う時には、不必要となった昔のやり方を、なかなか捨ててはくれない。つまり、潰しが効かないのだ(とは言え、絶対化されてはいるが、流動的で形骸化もしているので、新しく変わったと言って、外から全否定する分には、それほど難しいことではない。より困難なのは部分否定の方で、この微調整は本人に委ねるしかないために、どうしてもこだわりの箇所が残ってしまう)。そして、さらに問題になるのは、それなりに長くやっていると、後から入って来た人たちに対して、先輩や年長者として、必要以上に権威的にふるまうような場合があることだ。どうでもいいような些末事を語る程度ならまだいいのだが、もはや過去に属すること、手段が目的化していること、主旨とは懸け離れてしまった弊害ある事柄をも、既定の絶対知のように、後輩に強制しようとすることがある。まさに知は権力とはよく言ったものだ。これこそ畑村洋太郎の言う「偽ベテラン」の振舞だろう。
 僕はそういう人たちと一緒に仕事をすることにやれやれと思うし、また大きな過ちをやらかした後始末をすること、そしてそれを繰り返されることに、確かにうんざりしているが(この愚痴の一端はここに書き散らかしてきた通り)、相手として存在し、一緒に仕事を回さないといけないのだから、ともかくそういう人の作業がうまく行くようにと考える。だから、彼らの間違いそうなこと・混同しそうなこと・誤解しそうなことを避け、こちらからなるだけ言わないようにするし、彼らが忘れがちな所を忘れないように促し、それでも飛ばすのなら代わってする他ないと思う。さらに、失敗の連鎖の阻止にも、常に気を配らなければいけない。もちろん、それでも、立ち行かない所はたくさんある。ところが、ここで困ってしまうのは、周囲の人たちとの関係で、普通にできる人たちのほとんどは、こうした人たちと一緒に仕事をするのに耐えられず、すごく不平不満を抱く。まずは相手ができないことに苛々し、自分の仕事量が増えることに苛々し、そしてその理不尽さに苛々する。大抵は平等主義の論理を持ち出して、不当だと言う(その論理には承服しかねるが)。できる人・わかる人がやらなければ仕事が回らないということには渋々承知でも、できない人の効率を落とさないために、できる人の方が気を遣った方がいいなどと言ってしまうと、反感を買って逆切れされる。そして、僕がそういう人たちを甘やかすから、つけ上がるのだと非難される(なるほど、僕は共同作業の成就のために、良い意味でも悪い意味でも、相手に踏む込み過ぎている)。もっとも、僕はできない人の行動を決して不問に付しているわけではないし、対する人の不満や言い分も一通り聞くから、そんなに責め立てられはしないのだが、自分が苛々していることに苛々しない人がいるのは許せないという態度を取られることもままあるので、一応は共感する振りをする。いや、一方では共感しているのだが(同じような発想や生き方を強要される感じへの反感と同時に)、それは本筋ではないし、些末なことだ。できない人がいると、そういう波風が確実に立ってしまうが、僕はどちらかと言うと、そっちの軋轢の方によりうんざりする。
 なぜかと言うと、だってできない人は全体の足を引っ張っているにしても、それなりにやっているわけだから、問題にしても仕方がない。それを補って、全体を回すことの方が、よっほど重要だと思う。そして、共同作業の足を引っ張っている点では、非難する方もまさに同質であり、しかも意図的にやっているのだから、より始末が悪い(まあ、その意味では「偽ベテラン」と化した人の方が、さらにひどいとも思うが)。もちろん、実利的に、できない人を責め立てて、うまく行くのならまだいいけれども、長期的に見れば、どうもそうはならないだろう。責め立てているのは、大抵の場合、鬱憤晴らしをしたいためだ。だから、その延長線上で、差別や排斥に容易に転換すると僕には見える。もっとも、僕のような態度は結構誤解されがちで、できない人たちから過度に感謝されたり、微妙に執着されたりすることもあるので、逆効果になるというのも一理はあると感じる。だから、その見極めや匙加減は難しいと思うのだが、個人的な感情で留飲を下げてみても、仕方がないと思う。もちろん、時には留飲も下げておかないと、これまた紛糾して、全体が立ち行かなくなるだろうから、その点では息抜きも懐柔も必要だとも思っている。そういう意味では、僕はいつも、どっちつかずの中立だ。いや、価値判断もしているし、多少の結論はあるから、中立とは言えないか。しかし、日和見主義ではない。僕は人から聞かされる見え透いた平等主義の主張など鼻で笑っているが、公平ではありたいと願っている。それは、進んで蝙蝠になること、二律背反の境に置かれることだと思う。
 ここでふと、自分の立ち位置について考えてみると、僕はひどく隔絶していて、何かに同一化し共同意識を持って自己を確立するということをそれほどして来なかったし、未だにそういう思い入れがあまりないのだろう(多少の憧れを抱いていないわけでもないが)。いつもふらふらしている。だから、そういう枠組みではなく、すぐに全体のことを考えてしまうが、その全体だって、何かが実在するというものではなく、漠然とした朧気なものでしかない。僕はやはり空っぽな人間なのだと思う。しかし、よくよく考えてみると、それこそが実は大きな要になっている。例えば、単純に、今の仕事の現場で僕という緩衝材がなくなることを考えると、方々で破綻を来たすだろう。もちろん、そうして摩擦を起こして、ガラガラポンと秩序の入れ替えをした方がいいような気もするし、そうしたい衝動に駆られないわけでもないのだが、まあ、そんなことはしない。その意味で、僕は何と保守的なのかと思う(そう言えば、橋口亮輔の『二十歳の微熱』を劇場に観に行った際、一緒に誘った友人が、この映画の「僕がなりたいものは、なんでもないもの​」というキャッチコピーにえらく共感していたが、既に空っぽの僕は、そんなの少しも大したことじゃないよと笑ったものだ)。
 それはさて置き、いずれにしても、使えない人を排斥するのは、すごい違和感を覚える。なぜなら、それも含めて世界なのだから。もっと言って、そういう人たちがいて、世界は成り立っているのだから。僕はそういう人たちも含めて、他人のことを散々こき下ろしてもいるが、尊厳を奪おうとも思わないし、そんなことをしているとも思わない。ただし、多少の名誉を傷つけているかもしれないので(責任を追求しないのは人格として認めていないからだと言われたら、反論するのは厄介かもしれない)、失礼かもしれないくらいのことは思う。だから、反省はする。しかし、誰かが一方的に差別され、排除が正当化されるような状況に接したとすれば、それはやはり許し難いことだし、食ってかかるだろう。目の前の人をどうして否定できるのか。ただし、言葉尻がどうか偏見がどうかとは、その意義にこだわりを持つ人にお任せする。想像の共同体に住むことは、どんな規格であっても、人を救済すると同時に傷つけることだとも考えるから。ともかく、異質なものも含めて世界だということをわかった方がいいと思うだけ。排斥者も含めて。何事にも寛容が肝要だよ。
 (なお、ついでに言っておくと、この話と労働の対価は別物で、公平性の観点からも、能力差や仕事量の違いが、ある程度は賃金差に反映されるべきだと思っている。だから、できる人は賃金的に優遇されるべきだろう。何でこんなことを書くのかと言うと、そうなっていないことが結構あるからだ。僕のいる職場でも、御多分に漏れず、人材をコストとしか見ない新自由主義的な発想が跋扈しているが、それが先鋭化する一方で、変な逆転現象も起こっている。普通は効率を重視し、労働者をコストと見做す発想の中では、できない人は低賃金・低時給に留め置かれるかと思いきや、実際には全く逆。というのも、できる人が入った昔は概ね買手市場の時で、ある程度の選抜と制約を受けているのに対し、できない人が入ったのは概ね人手不足の売手市場の時で、好条件での契約になっていたりする。そのために、場合によっては、ベテランよりも最初から高い時給が設定されていることもある。経験値などはどこ吹く風、新自由主義どころか、労働者は市場原理に委ねられるだけの頭数でしかない。もちろん、これは上層部の内々の対応なので、基本的には秘密事項なのだが、流石にこの事実に気づいた時は、問題だと思い、「このことが知れ渡ったら辞める人が続出するぞ」と上の者を半ば脅して、早急に是正するよう進言した。その後どうなったかはちゃんとは確かめていないが、ベテランの時給を上げて、最低限同一賃金にするという辻褄合わせで終わったらしい。しかし、これで初めて、見え透いた平等主義を批判できるとは、何という皮肉だろう)

 
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 〇蛇足だが、できない人同士が隣り合わせで仕事をする時に生じる効率の悪さを、数値に置き換えてみたことがある。そして、一つの目安として、考えついたのが以下の公式。自分がうんざりするのを紛らわすために考えたただの印象論で、何の科学的根拠もない。そもそも数式というのは、綺麗だが胡散臭いものだ。藤田博史ラカンの解説本(すごくわかりやすくて勉強になる)を読むと、その見事な数式に魅了させられるが、はっきり言ってこじつけで、実は何の証明にもなっていない。放送電波が霊界の証明になると主張するのと、大して変わらないと思う。クザーヌスの数学的神秘主義も似たようなものだろう。
 普通にできる人の能力を1.0とする。すごくできる人なら例えば1.2、できない人なら0.8となる。通常一人の人に与えられる仕事量も1.0になるが、仕事量が1.5の時は、二人で共同作業するしかない。二人でやれば、単純に足算をすれば、能力は2.0なので十分に対応できる。できない人が二人でも、0.8+0.8=1.6なので、対応できそうに見える。ところが、現実にはそうではない。実際に発揮される能力は、1.0以下の時には、前後の数値の影響を受け、掛算が介在する。そこには可逆性と不可逆性の区分があり、ほぼ対等な共同作業(チーム競技など)なら前者、時間的に流れるライン作業なら後者。前者の場合、最初のAの能力が0.8でも次のBの影響を受けて、0.8×0.8=0.64となる。Bも同様に0.64。したがって、両者の共同作業能力は0.64+0.64=1.28となり、1.5の仕事には対応できない。後者の場合、Aは0.8のままなので、0.8+0.64=1.44になるが、これでも対応できない。ちなみに、できる人との掛け合わせだと、前者1.0+0.8=1.8、後者0.8+0.8=1.64。すごくできる人だと、前者0.96+0.8=1.76、後者はただの足算なので1.2+0.8=2.0となる(はず)。
 もっと人数を増やすと、それだけ掛算が多くなる(よって1.0以下だと効率は悪くなる)。ただし、全ての人から影響を受けるというのは考えにくい。したがって、前後に連なる人からの直接的な影響だけに留まるとする。前者も隣り合う両者から、後者も同様。これを数式化すると、三人(A・B・C)の場合、いずれの能力a・b・cも1.0以下として、前者はab+abc+abc=ab(1+2c)、後者はa+ab+abc=a(1+b(1+c))となる。四人では、前者ab+abc+abcd+abcd=ab(1+c(1+2d))、後者a+ab+abc+abcd=a(1+b(1+c(1+d))))。もっと数を増やすと、前者ab(1+c(1+d(1+2・...))))、後者a(1+b(1+c(1+d(1+...)))))となる。これがどんな数式に整理できるのか、僕には知識はないが、要は1.0以下なら確実に掛算が介入してくるということだ。そして、始めの方の影響力は、後にも間接的に掛かって来る。
  そのため、効率の悪化を防ぐには、まず、予め足らない部分を補填する必要がある。掛算される前に、例えば1.2の人は0.8の人に自分の中から0.2を加算するしかない。ただし、そのままスライド式に移行できるわけではなく、多少は目減りするので、0.3くらいは必要になるかもしれない(したがって、先に挙げた1.2+0.8=2.0の足算は単純には通用しない)。そのために、自分が1.0以下になっては、首を絞めることになるので、そうならない程度に譲渡するしかない。そして、それはあくまで事前でなければならない。後から移行しようとしても、以降に1.0以下が重なっていると、掛算された後だと、補填量が増えてしまう可能性があるからだ。そして、始めの方の影響力を回避するために、先頭には1.0以上の人を配した方が無難だろう。また、途中で効率の悪化があったとしても、そのまま作業を繋げるよりも、一度流れを断絶する措置を講じて、過失の連鎖を断つことも必要だろうから、その繋ぎ目にも1.0以上の人を配した方が無難だろう。
 しかし、ここまで書いておきながら、事はそんなに割り切れるわけではない。そもそも能力や仕事量の数値の設定も極めて恣意的で、それがある程度確定できたとしても、常に単純計算できるわけでもない。現実的には、1.0以上なら足算だけで済むように思えても、掛算の余地がないとは言えないし、1.0以下であっても、一切ブレない場合もあるだろう。補填するに当たっても、移行がすんなりと行くとは限らず、想定以上に多くの手間が掛かって、激しく目減りする場合もあるだろうし、本人の拒絶や混乱等、移行そのものが不可能な事態も起こるかもしれない。あるいは、不可逆的に思えても可逆的に反応してしまう場合、あるいはその逆も大いにあり得る。つまりは、全ては個人差であり、条件差に依るので、確定的な法則では、何も仕切れない。人は逸脱するものであり、逸脱は個性なのだ。ただし、ある程度のパターンはあると思うので、その枠組みを見据えておくのは、戦略的に必要なことだろう。それを絶対化・権威化しないためにも。

2019.2.7木

 〇先日、バルト9のラテンビート映画祭のチケットを買おうとしたら、Uネクストというネット映像配信社の会員になると無料になることがわかり、一か月間のお試し無料会員になったのだが、これまで見逃してきた作品がたくさん視聴できるのにつられて、契約解除するのをつい怠ってしまった。それから結局、映画館派の僕は何の作品も観ていないのだが、ポイントだけは溜まり、しかも間もなく失効してしまうので、急遽どこかの劇場でポイント鑑賞することにした。しかし、スケジュールの合うもので食指の動く作品はそう見つからない。ようやく新宿ピカデリーで上映される『ハバールの涙』『パシュランギおじさん』『夜明け』のどれかに絞ることに決め、最終的に午前中にしか掛からない『夜明け』に行くことにした。ところが、この劇場はネット上ではチケット購入ができない仕組みになっており、仕方がないので、例によって母親のスマフォを借り、面倒な手続きや認証をした挙句、ようやくチケットの手配ができた。
 そして、広瀬奈々子『夜明け』を鑑賞。先のフィルメックスで上映され、世評の高かった作品。世捨て人となった青年の彷徨と触れ合いと摩擦を描く。前半の謎めいた雰囲気もいいし、後半の緊迫感も素晴らしく、なかなか観応えのある力作だった。こうした微妙な人間関係を丹念に救いげるのは、とても重要で、好感が持てる。また、主人公の青年のみならず、そうした人物をある意味勝手に受け入れてしまう側の事情も照らし出しているのが素晴らしい。ただし、率直に言って、僕は主人公が自分の過去を捨てる動機づけには少々驚かされた。それは確かに苦しいかもしれないが、ここまで自己否定するほどのことではないのではと感じたからだ。
 僕は自分の職場での体験でもそうだし、最近の日本映画を観ても時折りそう思うのだが、この手の人物たちは、どうしてこの程度のことで、すごく傷ついて、すぐに関係性を断ったり、世を捨てたりできるのか。これは一種の勘違いであって、もう少し我慢してみればいいのに。僕も弱い人間でいつもくよくよしているが、それにしても、あまりに免疫力が無さすぎやしないか。ちょっと引いた所や別の角度から見てみれば、世界はそんなに狭いものではないのに、とつい言いたくなってしまう。あるいは、そういう自分以外の視点に立って世界を知ろうとするのは、そんなに困難な(いやな)ことなのかと思って、ある種のもどかしさやじれったさを覚えてしまう。これはおそらく、同時に、僕の思い描くような社会認識が一方的に否定・無視されているかのように感じられるためでもあろう。
 しかし、よくよく考えてみると、これは一方的な物言いであって、どんなにつまらなく思えることでも、当人にとっては大問題なのだろうから、他所からとやかく言うことは野暮かもれない。今の若い世代は全体像が定められた世界の中で狭い所に安住するように雁字搦めに縛られているのかもしれない。現状の位置に留まって、そこを掘り下げたり突き崩したりするのも一興だが、そこをさっさと見限って新天地に行くのも一興で、例えそれが安易に流れたり、結果的に間違っていたとしても、大海(つまり想像だけではない世界)を知る立派な契機には違いない。あるいは、同じような所でぐるぐる回ることになったとしても。だから、今の日本には、勘違いも含めて、そういう人が普通にいて、そういう人の考え方や行動や挫折感が共有できるもの、リアリティあるものとして作り手たちに映っているというのなら、そう受け止めるしかないし、歓迎して見守っていくしかない。ケータイもスマフォも使わず、ネットもたかだか十年前程度に始めたような僕みたいなアナログな輩は、幸か不幸か、もう相当に古い世代になってしまったようだ。
 作品の途中で、主人公の青年が飲食店で、いわゆる「使えない人」に二度遭遇し、その人が失敗を責め立てられ、ついには逆切れするのを目撃するシーンがある。この場面は、青年が自分の置かれている状況を改めて省みる契機となっている。一方的な目的主義の価値観に自分の生が規定されていることへの怒りと共感、そしてそれを彼のようにぶちまけることのできないもどかしさ。この意味では、彼も閉ざされた世界の中でずっと我慢してきたことがわかる重要なエピソードだが、その人(『丸』や『小さな声で囁いて』で主役だった人だね)の登場場面はそれだけで、その後のことは描かれない。もっと話が広がるのかと思っていたら、そうではなかったので、これにはちょっと拍子抜けして、残念だった。

2019.1.28月(続)

 〇さらにもう一題。映画を観るという体験は、それを観た場所と分かち難く結びついているものだ。僕はビデオやDVDやネット配信などで映画を観ることはほとんどない。それは第一には、目の前に広がる大画面で観賞したいという気持ちが強いからだが、第二には、普段に行かない所へ行き、他人と一緒に観るのも、それなりに面白い経験だと感じるからでもある。
 かつて自由が丘の武蔵野館のレイトショーで『恐怖奇形人間』を観た際に、周囲の人たちが終始大爆笑で、歓声を上げ、最後の場面で万歳三唱するのに接した時には、流石に吃驚し閉口した。しかし、ずっと後に同作をシネマヴェーラで観た時、たまに失笑が聞こえるだけだったと比べると、あの時得難い思い出をしていたのだと懐かしく思い出す。あるいは浅草名画座で、先にも話題にした『君よ憤怒の河を渉れ』を観た時は、スクリーンの下を鼠が駆け巡り、誰かの残したお菓子のおこぼれでも預かろうと、時々こちらに近づいて来るのを追っ払いながらの鑑賞で、すごく緊張感を強いられたことを覚えている。だから、僕がこの腑抜けた音楽に好意的なのも、この体験に多分に影響を受けているのかもしれない。ついでに言えば、続く『昭和残侠伝 唐獅子牡丹』が終わってから外に出ると、師走の夜、辺りは一面の銀世界となっていて、駅まで雪を踏みしめながら帰ったことも忘れ難い。映画館を出た後も、高倉健の世界はずっと続いていた。また、時に昔の映画館では、有名人やら変人やら痴漢やら、様々な人たちとも出会ったりしてきたが(その時の浅草でも不倫の密会をしているらしき人たちを目撃した)、それもいちいち貴重な体験だったと思う。
 僕はかつてピンク映画館にもよく通っていたが、ここでは中に入ること自体が一つの体験であり思い出となっている。痴漢や発展目的で来る人への対応を意識しなければならないからだ。数々の難事にも遭遇した。新橋では、同じ列に座ったおっさんがずっと手淫をしていて、途中急に立ち上がり、スクリーン脇のトイレに駆け込んだ。上野では、三つ隣に座っている人が尺八をされていた。また横浜では、ぐでんぐでんに酔っ払ったおっさんに終映時まで外に出ようと絡まれ続け、「映画を観たいんです」と丁重に断っていたら、最後に逆切れをされた。これはピンク映画館ではないが、銀座のシネパトスでピンク映画特集をやった折り、僕と同じ列に座っていた若い男女のカップルの後ろに、光沢でんすけに似たおっさんが座り込み、途中立ち上がっては、女の人に向けてハアハアと息を吹きかけ続けているのを目の当たりにした時には唖然とした。しばらくはそのままだったが、カップルはそれに気づくと、すぐに別の席に避難したのだが、ピンク映画館ならいざ知らず、ピンク映画を上映するからと言って、一般の映画館まで来て、こんなことをしでかす人がいるのかと吃驚した。同時に、やはり女性は性の対象として、過酷な状況に置かれているのだと、まざまざと思い知った。
 僕が一番好きだったは、浅草シネマと世界館で、ここは一番安いし安全で、スクリーンは小さいものの、映画を鑑賞するには持って来いの劇場だった。トイレに行くには細い長い通路を登ったり降りたりしなければならないが、その雰囲気はまるでショッカーの秘密基地に潜入したかのようで、いつもゾクゾクされられたものだ(世界館の方が長くて良い)。同じ建物内にある浅草新劇場とトイレの水回りはまとめられていただろうから、どこでどう繋がっているのか、いつも気になった。ピンク映画館にしては痴漢の出現率が低い(たぶん)のは、もっと安価で発展場として有名な新劇場が横にあるから、わざわざこちらには寄り道しないのだろう。
 世界館で一番記憶に残っているのは、滝田洋二郎の「下着検札」を朝一で観に行った時だったか、一作目が終わると、最前列の僕の二つ隣りの席に、鼻にチューブをつけて酸素ボンベを引き摺った小太りのおっさんが座ってきた。そして、女のヌードシーンがある度に、「いい肌してんなあ」「いい乳してんなあ」の二語だけを、ブツブツと言い続けた。その声はうざいながらも妙に面白くて、僕は終始笑みを浮かべていた。ところが、次の作品になって、おっさんの隣に痩せぎすの男が座ったのだが、彼はしばらくすると、すごい形相をして、右腕で酸素ボンベのおっさんに何度も肘鉄を食らわせ始めた。おっさんはその度にうっうっと呻いて、ややあって、ほうほうの体で僕の隣席に逃れ移って来た(体力的にすぐに移動できなかったのだろう)。事はそれで終わったのだが、あれは一体どういうことだったのか。痩せ男は好みの席に座られた恨みでもあったのか、あるいはぼやきのBGMが許せなかったのか。また小太りの方も、それ以後はやや静かにはなったものの、まるで何事もなかったかのように、ちょこんと座って映画に没頭していた。その反応の仕方も妙な感じだった。以前にも同じ目に遭ったことがあるのだろうか。のっぺりとしたフワフワ感とエロへの執着。そして、よくわからない確執の交差。僕はそれから立ち去ってしまったが、その日は作品よりも、そのことばかりが強く印象に残った。出る前に例の長いトイレに入ると、本当に異次元の世界に来たような気分になった。ともあれ、こういう会場に入るには、痴漢の対応を含め、何が起こるかわからないという緊張感を伴っている。
 今回、議員会館に入る際の緊張感も、割りと面白いものだったが、こんなにスリリングなのは、やはり普通の映画館ではない場所での上映会が多い。そういう時は往々にして、ただの鑑賞というのではなく、場違い者や異分子になるという覚悟で臨むことになるからだろう(もちろん、そう思わなくてもいいのだが、僕はついこう思ってしまう)。これは対痴漢意識の緊張とは違うが、それはそれで苦しくも楽しい体験には違いない。
 そういう上映会の思い出も、いくつか書いてみよう。やはり宗教施設に入るのには少々勇気がいる。先に触れたように、性的搾取を糾弾する映画を観に救世軍の本部に入った時も、ちょっと緊張していた。中には簡素な祭壇があり、シスターらしき姿のおばさんたちと、制服風のネクタイを着用した同じ格好の青年たちが、合わせて十数人いた。上映前に挨拶したシスラーらしきおばさんがいかにも優しそうだったので、すぐにリラックスはできた。私服の人も何人かいたが、おそらく関係者(信者)でない人は僕一人だけだったと思う。そのアメリカ映画『ネファリアス』は、世界の性的人身取引を告発する前半部と、トラウマを抱いた被害女性が神への信仰に出会って立ち直っていく後半部とに分かれているが、僕はとりわけ後者の過程に興味をそそられた。しかし、ちょっと驚かされたのは、上映後の歓談で、制服で身を固めた青年幹部みたいな人が、キリストへの帰依によって被害者が救済されるというのは一般的に受け入れられないだろうと疑問を呈していたことで、ここは意外に風通しがいいのかなと思った。それとも、僕にはわからないが、細かな教義上の違和でもあったのだろうか(ちなみに、この時、私服のおじさんが、この問題は重要だが、従軍慰安婦問題と絡めて取り扱われることを警戒しなければいけないと、余計なことを述べてもいて、結構保守的なのかもしれないとも思ったりした)。ともあれ、そうした彼らの凛とした態度と優しさには、素直に心を打たれるものがあり、やはり何かの信仰を持った人は、格好がよくて素晴らしいなと感じた。
 ろう映画祭に初めて行った時のことも忘れ難い。僕は最終日に上映される深川勝三の作品を観たくて、前売りを買って出かけたのだが、会場のユーロスペース2Fはいつもの雰囲気とは違っていた。かなりの人が屯あるいは列をなしていたが、そこにいる人のほとんどはろうの人らしく、皆手話で会話していた。時折の咳やくしゃみ、そして笑い声だけしか音は聞こえなかった。何の音声的なアナウンスもなされないので、誰が主催側で観客なのかもよくわからないまま、僕は情報が得られず、結局、最後の最後に会場に入る羽目になった。この時の疎外感は全く貴重な体験で、普段は似たような思いをろう者に強いているだろうこと、あるいは手話が音声言語と遜色のないものだということがよく了解できた。僕にはろう者の知り合いはいなかったし、ろうに関係するものと言えば、ちょっと前に全編手話のウクライナ映画『ザ・トライブ』を観たり、その昔、地球人と宇宙人の会話が手話という設定のSFポルノ(カナダのBL作家キャロ・ソレスが男名義で書いたゲイ・エロティカ)を面白く読んだ程度で、別段近しい接点があるわけでもない。しかし、この会場にあっては、見るもの聞くものが全て新鮮で、一つ一つのことが刺激的だった。その後、酒井邦喜『言語の脳科学』(中公新書)を読んで、手話には日本語の音声をそのままスライドしただけのものとは違って独自の文法体系を持った日本手話があること、また手話が脳科学的には音声言語の獲得と何ら変わりのないことを教えられた。なお、二回目以降の上映回では、音声アナウンスが普通になされていたので、初回だけ、人手不足か何かの事情で段取りが悪かったものらしい。ところで、この時に観た深川勝三の作品は全く素晴らしいもので、特に遺作の「たき火」(1972)は、残された大量のフィルムの断片を近年に繋ぎ合わせたものながら(僕が見れたのはそれでも短縮版)、映画史上の重要作であり傑作だと思う。これは是非とも国立映画アーカイブで収蔵し、復元・保存・紹介されるべき宝だ。
 他に緊張感と言って思い出すのは、渡辺文樹監督のゲリラ的な自主上映会に行った時か。初めて彼の作品に触れたのは、なかのZEROホールだったが、その時は確かに噂に聞いていた通り、会場の周辺には公安警察官のような人が複数立っていたような記憶があり、始まる前から、只ならぬ緊張感を強いられたものだ。もっとも、実際に本物だったかどうかはわからないし、そう思い込んでいただけかもしれない。しかし、その割りには、意を決して中に入っていると、周囲の喧騒(と思ったもの)とは打って変わって、だだっ広い会場に、観客は十数人しかいない。そして、この静かな空間にバランスをとるかのように、監督は上映前から作品の音声だけを大音量で流している。上映が開始されると別に何でもないのだが、始まるまでの違和感は強烈で、これを体験しただけでも、ここに来た甲斐はあったというものだ。その後大分経って、高円寺のせせこましい会場での上映会にも何日間か通い詰め、渡辺監督のほとんどの作品を観ることができた。この時のことなどを人に話したら結構驚かれたのだが、初めて風俗店に行った時と同じで、初回は確かに覚悟はいるかもしれないが、一旦覚悟を決めてしまえば、入るしかないので、実際にはそんなに圧迫感を覚えるわけでもない。『島国根性』『腹腹時計』『ノモンハン』が僕好みで面白かったが、結構荒削りの近作でも、映画を観たという気にさせられる勢いがあり、確かにすごいと感じる。高円寺の時に、少し迷って、本にサインをもらい損ねたのは、ちょっと残念だったと思う。
 ここまで書いてみて反省。僕はどうやら理想家・信仰者フェチらしい。これは言わば心の闇。正しいことかはわからない。。

2019.1.28月

 〇午後から仕事だが、間に合いそうなので、その前にドキュメンタリー映画の無料上映会に出掛ける。犬肉の輸入禁止を訴える目的で政治家や世界愛犬連盟が主催したもので、会場は参議院議員会館。内容的も場所的にもそれなりの興味をそそられたので、思い切って行ってみることにした。この手の上映会に出掛けるのは、性的人身売買の被害に遭った女性をキリスト教の信仰で救済しようとするアメリカのドキュメンタリー映画を観に、救世軍の本部に入った時以来か。お金を節約したかったので、神保町から永田町まで、皇居の側を往復テクテク歩いた。
 ある区画を過ぎると、警察官の姿を頻繁に見掛ける。議員会館の入口にも青い服の警護官たちがいる。その前の道沿いには、複数の警官が列をなしていた。今日は何かがあるらしい。何だか入り辛かったので、警護の人に「通っていいですか」と訊いてみたら、「どうぞどうぞ」と丁重に応待された。そして、建物内に入ったら、金属系の物を提出を求められ、手荷物を機械に通され、税関並みのチェックを受ける。その上で総合受付に行く。すると、ちょうど同じ場所に行こうとする女性(このイベントのスタッフだと言っていた)が先にいたので、同じ行先だと告げる。チラシには通行証を受け取って入場してほしいとの記載があったので、ここですんなり貰えるのかと思っていたら、「向こうでお待ちください」と言われる。少しだけ戸惑いつつ、その直後にやって来た同じ目的地の女性ともども、傍らで立ち尽くす。ところが、そのままずっと待たされているうちに、上映開始の時刻が近づいてしまう。スタッフだという女性もジリジリしているのが見て取れるが、ただ待っているだけ。やがて、僕の後から来た女性が業を煮やして、応待した受付嬢の所に駆け戻って、「まだなんですか! もう始まるんですよ!」と、強い口調で食ってかかった。すると、受付嬢は「今呼んでますから!」と、これまた怒号に近い調子で一喝。女性は押し黙ってしまった。このやり取りにはちょっと吃驚した。後から知ったことだが、議員会館のセキュリティチェックを抜けるチップ入りの通行証は目的先の議員が直接預かっており、来訪者はそこから来た関係者によって面通しをされ手渡しをされないと中には入れないという仕組みになっていたのだ。それにしても、この受付嬢の気負いは只者ではない。警察関係者とかなのだろうか。
 さて、十分近く待たされた挙句、ようやく議員秘書らしい人がやって来て、関門ゲートを抜け、案内されて会場に入る。完全な部外者は多分数人で、スタッフの方が多いようだった。そして、北田直俊「アジア犬肉紀行」(2018)を鑑賞。二時間越えの大作。後から遅れて来る人もボツボツいたようなので、途中からずっと明かりがつけられたままだったのだが、しばらくすると、先の女性が怒り出したので、会場は再び暗くなった。
 内容は初めて見聞きすることばかりで、とても勉強になった。韓国の犬肉料理は有名なので知っていたが、中国やベトナムでもよく食べられており、日本でもそれらの料理店で時折り犬肉料理が扱われ、かなりの量が検疫を通じて輸入されていること、またそれらの肉には盗まれたペット犬がかなり含まれているらしいこと、そして日本でも動物愛護の観点から犬肉食と犬肉輸入を法的に禁止しようとする運動があること等々。まさにこの上映会自体が、この運動の一環なわけだ。
 この作品は中国や韓国での犬肉食の状況や反対運動、そして日本の運動家の活動を追いかける。とりわけ中国(広西チワン族自治区)で、犬肉祭りといったイベントが行われる一方、当局からほとんどタブー視されている情景を捉えている点は興味深い。しかし、全体としては、その題名にも象徴されているように、いかにも牧歌的で、政治的な主張はあるものの、高見の見物をしているような感が否めない。予想される屠殺などの残虐シーンもないこともないが、外国の告発作品からの引用として、小さな画面で映り込むだけ。犬肉食は時代の趨勢によってどっちみち世界から消え行くものだから、こんな風習もあったと回顧できるように、今のうちに記録しておこうという軽いノリで作られている(と僕には思えた)。
 しかし、正直に言うと、この上映会に参加しておきながら、僕はこの政治的な主張に全く賛同できない。犬肉食のどこがいけないのか、それを法的に禁じなければいけないのか、さっぱりわからない。ジビエ料理などに関心のある僕はむしろ、機会があれば、何の肉でも食べてみたいと思ったりするくらいなのだ。主張者の基本的なトーンは素朴な動物愛護で、「犬は人間のペットであり家族の一員なのだから、殺して食するなんて野蛮で残酷極まりない」という点に尽きる。しかも、それが普通(の現代日本人)の感覚だと信じて疑っていない。僕の家でも犬を飼っていたから、心情的には理解できるが、他人に要請できるほどの普遍性があるとは思えない。例えば子豚は可愛いのでペットとして飼う人もいるが、だからと言って、豚を食べるなと一般化・正当化できるだろうか。
 歴史的に見れば、犬肉食は人類の発展に不可欠のものだったと言えるだろう。例えば人類が北方の寒冷地に進出するには、犬を家畜化することなしにはあり得なかった。移動手段や臭覚の活用、あるいは番犬としてだけではなく、いざという時には食料に転化できたからでもある。この映画でも簡単に触れられているが、かつては日本でも近年まで、飢饉などの際には、犬肉食は頻繁に行われていた。反対者はこの点(だけ)を一応は認めつつも、過去の負の遺産だと切り捨てている。つまり、犬肉食は文化として遅れたものというわけだが、時代的にも地域的にも、そう言い切るのは拙速だろう。映画に登場する活動家は、ここから出発して、犬肉食は鯨食とは違う(犬はペットだが鯨はそうではない)と強調する。しかし、ペットを食べないというのは、肉食のタブーを正当化する論理としては、なかなか難しい部分を孕んでいると思う。
 肉食禁否の動機づけは、ざっくり言えば、大きく二つある。汚穢の忌避と神聖視だ。例えばイスラームでは豚肉を、ヒンドゥー教では牛肉を食べることが忌避されるが、この二つは両者を代表する典型例だと言えるだろう。
 イスラームは、世界的な宗教となった現在では、聖法でいけないと定められているからとの理由で、原理的に豚肉食が否定されるが(犬肉食も同様)、元々アラブ人にとって豚とは不潔な存在で、汚らわしいものだから、生理的に受け付けないという心情が根底にある。だから、間違って豚肉を食べたと後から判明したならば、アラブ人は生理的に気持ち悪くなって、何よりも先に吐いてしまうだろう。日本人で言えば、蛇とか蝙蝠とか烏とか溝鼠を食べる感覚に近い。
 その一方で、ヒンドゥー教徒が牛を食べないのは、牛は神聖にして有益な有難い存在だからで、それを屠るということは清浄性を侵すことになってしまうからだ。身近な存在に対する動物愛護、あるいはペットの肉食タブーも、ここに連なるだろう。ところが、これには裏があって、一般にヒンドゥー教徒は、原則として様々な肉類を食べないが、宗教的な儀礼として神に贄を捧げることが頻繁にあり、その際に(牛を含めて)屠った肉をありがたく口にしたりもする。つまり、日常的には肉食は忌避されるが、非日常ではその限りではない(これも一種の日常だが)。これは表面上は禁否とされながらも、滋養や薬食いとして暗黙裡に肉食が容認されていた少し前までの日本の状況(その枠組みは今でも残っていよう)とも通底する。
 ここで思い出すのは、日本のブランド和牛の畜産家の心情だ。彼らは牛たちにものすごい愛情をかけて育て上げる。この過程は普通にペットを愛玩することと変わらないように見える。しかし、彼らが丁重に牛をいたわるのは、霜降り肉にするためであり、最後には屠って肉塊にする。ペットを家族の一員として取り込んでしまうのとは決定的な相違がある。しかし、その愛情を嘘偽りだと言うことはできないだろう。だから、愛情があるからその動物を食べないという論理も、そう簡単には一般化できない。さらに言えば、ペットに愛情があるから食べずにはいられないと考える人だっているかもしれない(別に猟奇的な話に持って行かなくても、その昔、掛札悠子さんが、友人が出産の際に病院から貰って来た自分の胎盤をステーキにして身内で食べ合った話をミニコミ誌に書いていたのを思い出す)。
 そして、日本の犬肉忌避の場合には、後者だけではなく、前者の側面も多分に含まれていると思う。犬肉は可愛いからだけではなく、汚らわしいから忌避されている。そして、それに関わる者(犬殺し)や犬肉食をする人々を、劣ったもの・気持ち悪いものとして見下そうとする傾向もある(例えば、大江健三郎の処女作で描かれているように)。しかし、この映画では、そちらの方面はほとんど明示されず、あくまで後者の理由づけのみで通そうとしている。それは市民運動家にありがちな発想として、中韓への蔑視や差別、職業差別や部落差別に繋がることを避けようしているからだろう。しかし、実際には、犬肉食を遅れた文化と見做して(中国当局も同様だが)、前者の嫌悪の感情を、自分の政治的な目的のために当て込んでいる。なぜなら、先の子豚の事例でもわかるように、「ペットを食べるな」という主張からは、全面禁止という論理は正当化できないが(個別に「ペットを盗むな」というのなら正当化できるも)、できると思うのは、そうした嫌悪の世論が自分の主張を後押ししてくれるはずだと想定しているからだ。つまり、ある種の差別感情を、無自覚にではあれ、利用・動員しているのではないか。その点では、反捕鯨シーシェパードやグリンピースなどと大して変わらないと思う(ちなみに、先の大江の作品でも、嫌悪の感情が当て込まれているが、こちらは読者の気持ちを逆撫でするための皮肉であって、大いに自覚的だし、目的も逆だ)。
 あれこれ書いたが、要約すると、日本の犬肉食禁否には、親差別的な汚穢忌避の側面もあるのに、それを看過したまま、動物愛護の論理だけで反対運動を展開するという戦略は、差別的な側面を助長するだけではないか。差別を忌避しようとして、被差別者や問題自体を忌避することは、差別の固定化を忌避するつもりで、既存の差別を解消するどころか、増幅しているのではないか。
 少しいろんな人の意見を聞いてみたいとは思ったものの、時間がないので、すぐに退散したのだが、帰りしなに、「この映画のTシャツがあるのでどうぞ」と言われる。特に興味もなかったが、熱心に勧められるので、入口付近のテーブルの手前に置かれてあった一枚を適用に取ったら、サイズはこちらの方がいいのではないですかと言われて、そちらを手渡される。細身の僕に対して、気を配ってくれたのだろう。その点はありがたいが、現物を一瞥して、何でこんなTシャツを作ったのかと思ってしまった。犬肉食反対、輸入反対という運動目的の主張が盛り込まれたものなら、まだわかる。しかし、映画の題名と写真だけがプリントされたTシャツを着ること(や作ること)の意味はどこにあるのか。宣伝や返礼のためだろうか。このことも含めて、映画もこの上映会も何だか牧歌的で、能天気だなと感じた。
 「日本の市民運動家はよく記念写真を撮るが、その写真をアメリカの活動家に見せると、とても驚かれる」と八木雄二が書いていたが、確かに日本の市民運動は、同じ目的を持った人たちのネットワークというよりは、信頼できる人を中心としたコミュニティとなる傾向があって、その結果、手段と目的がひっくり返って、運動自体がすぐに個人のアイデンティティになってしまいがちになる(そして、それ故に、いつも個人や団体の面子や体面や思い入れ、そしてそれに伴う対立に翻弄されがちになる)。これは、多少なりとも市民運動に関わりを持った経験のある僕には、大いに心当たりがあるところだ。そして、こういう会は往々にして、開かれていることを謳っておきながら、同志しかいない、同志しか集まらないことが、暗黙の前提にされている。だから、異論が唱えにくい。多少の違和の表明くらいなら、牧歌的な同志の内に、平気で飲み込まれてしまう。あくまで異論を提出するなら、それなりの波乱と手間暇を要する(そして、そう想定できることを忖度することが求められる)。議論の土壌自体を勘案しなければいけない。なかなか面倒臭いのだ。
 運動には同志しか存在しない(対立が意識されても分裂するから問題ない)。それはまた、外自体も、外に向けても同じで、日本ではだから、声高な主張をして対立構造を鮮明にするよりも、やんわりと礼儀正しくして、秩序を守るとアピールした方が、一般に受け入れられやすいし、効果的でもある。異物になって、目立ってはいけない。だから、牧歌的にふるまうのは、むしろ当然の成り行きとも言える。一種のうやむや戦略だ。ただし、実際には、それが成功したところで、一定の居場所が確保できるだけで(それも重要だが)、大して変革がなされるわけではない。すぐになされるわけでもない。運動家たちは同志の勢力範囲を広げたつもりでも、それとなく社会のおこぼれに与っているだけだ。日本の活動家はこうした曖昧な柔構造の罠に常に取り込まれ(あるいはつけ込んで)、対峙する必要に迫られる。ここでの匙加減が、彼らの腕の見せ所であると同時に、悩ましい所なのだ。単にペットを屠るのは残酷で可哀想だからとか、犬肉食は日本にそぐわないからというのは、あまりに無邪気で無防備だが、この無防備性こそが、この中では戦略的に有効なのかもしれない。しかし、そのことこそが、僕にはやはり恐ろしい。この運動をしている人は圧倒的なマイノリティかもしれないが、異文化あるいは多様性を排除するだけの、日本にありがちなサイレント・マジョリティの怖さと同質のものがあると感じる。日本の市民運動もまた、日本の写し鏡なのだ。
 かと言って、こうした同志欲求を否定するために、わざわざ対立を煽って、敵を作ろうとするわけにもいかない(瑣末な分裂を促すだけだから)。最近の巷を見るに、ネットの影響からか、そういう反動ばかりが目立つのはどうしたものか。同調社会への反動(あるいはアンチ同志欲求)は、多少盛り上がったところで、既成の社会に吞み込まれるのが華であり落ちなのだから、成人した不良のように、どうせすぐに押し黙って、無かったことにするのだろうけれども(いや、むしろ当節では、そこら辺の区別も付けられずに、昔のヤンチャ自慢をする方が多いのかもしれないが)。そもそも最後に保守に回収されるような格好つけの反動、あるいは最初から回収されることを当て込んでいるような反動が、日本の現状や問題点を改善するなんて、どうしたら信じられるのだろう。反保守の保守性、似非反動の反反保守性。どうしたらどっちの轍も踏まずに行くことができるのか。
 会場内のコンビニに立ち寄りたかったが、歩くことを考えると、仕事に間に合わないのは確実なので、脇目も降らずに会館を出る。急いていたから、ちゃんと確認しなかったが、外では何かのデモ隊が行進していた。
 Tシャツを一枚儲けた。

 *

 〇肉食に絡んで一題。僕はジビエ料理などに関心があり、いろんな肉を食べてみたいと思っている。最近はテレビなどでも時折り紹介されているので、熱心に見たりするのが、その際、よく「命をいただく」という文言が出て来る。屠った動物に対して、感謝を捧げようとする言葉だ。しかし、僕はこの言い方が嫌いで、それを聞くと、どことなくいやな気持ちに襲われる。それはどうしてなのか。
 まずは、いささか説教臭い点。肉は感謝して食べろ。もっとも、僕も肉に限らず、食事ができる状況に感謝した方がいいと思っているから、大仰にしても、それくらいの主張はいいと思う。また、その発想には、屠った以上は食べ残しは許さないぞ、という強制性も含んでいよう。今では違うのだろうが、かつては学校給食では食べ残すことがいけないこととされ、完食するまで食べさせるような雰囲気なり指導があった。好き嫌いの激しかった僕は、それにいやな思いをしていたので、そういう目に遭うと、今でも少々うんざりする。とは言え、個人の好みだけを優先させて、食料を粗末にし、廃棄でも何でもすればいいというものでもないから、多少の説教性はむしろ必要だろうと思う。まして、個人の見解に留まっているのなら、否定できるいわれもない。だから、理念や主旨に異論があるわけでもない。
 いやなのは、御都合主義に聞こえる言い方だ。食あるいは肉食に感謝するのはいいとして、多くの場合、ジビエに関してだけ、そんなことを言っているように聞こえる。肉食だからというより、身近ではないものを食べるから、そうした理屈をつけているのであって、身近ならつけないだろうと思えるのだ。昔観た「世界ウルルン滞在記」というテレビ番組の中で、山口もえがモンゴル人の家へホームステイをした時に、おもてなしに山羊を屠られるのに絶句し、残酷だと泣き出してしまうことがあった。その反応にモンゴル人たちの方も戸惑ってしまうのだが、後日、その時にお世話になったお母さんが来日し、魚料理を振舞われた際に、生魚がさばかれるのに全く同じ反応を示し、立場が逆転する。そして、お互いのことを理解したという落ちがつく。つまり、普段している日常的なことは意識されないが、普段しない非日常的なことには違和を覚える。だからこそ、あえて非日常的なことをするためには、正当化の言訳が必要になる。しかし、そこで相対的な視点を得たことは重要だとしても、日常そのものが疑われるわけではない。残酷と思えたことも、裏を返せば日常であって、実際には残酷ではないとされる。普段口にしている肉や魚はやはり素通りのままだ。ジビエの際の感謝は往々にして、食への感謝というよりは、個人的な(あるいは世間的な)違和感への牽制に留まっているように聞こえる。もちろん、ある種の食育家の人たちのように、そこから大きな広がりを見せることもあるだろうが、それほど一般的に許容されていないのではないか。その恣意性が少々気になってしまう。
 肉食の文化には、そもそもごまかしがある。食べるためだとしても、殺生をするのはやはり残酷なことで、その残酷性と折り合いをつけなくてはいけない。そして、そのつけ方が文化によって多少の違いを見せる。かなり昔になるが、僕はNHKのドキュメンタリー番組で牛の屠殺シーンを見て、衝撃を受けたことがあった。舞台はドイツの片田舎で、幼い子供も含めて家族総出で一頭の牛を屠り、血を集め、皮を剥ぎ、肉を切り刻み、腸でソーセージを作る。焼肉屋に生まれた僕は、日本人としてはいささか例外的に、子供の時から日常的に肉塊や内臓に触れて育っていたが、それらはただの食材であって、野菜や魚介類とさほど変わるものではなかった。ところが、ドイツの(田舎の)少年にとっては、肉食とは明白に屠殺・殺生であって、子供の頃からこういう光景や関係性に普通に接している。この差には愕然とした。
 僕は当時、鯖田豊之の『肉食の思想』を読んでいたが、なるほどこうした環境下では、人間と動物を峻別する思想が決定的に必要であり、それがキリスト教の基本的な土台になっているのだと得心した。家畜は人間が食べるために神が作ったもの。人間とは全く別。そう規定した神も人間とは全く別。そのように想定しなければ、とてもやっていけない。これははっきりとごまかしだと思うが、その上で、屠殺はごく自然な日常の営みとしてある。ついでに言えば、その線引きの思想は、神と人間、人間と動物の間のみならず、人種や階級の差にも適応され、歴然たる差別が生み出される前提にもなっている。その反面、そうした規定への反動として、反差別の運動も生み出される。そして、人種差別の闘争が繰り広げられるわけだし、動物愛護運動や反捕鯨運動も展開される。しかし、そうした運動自体も、線の引き直しや強弱の改変を図るだけで、線引き自体に進むことは少ないように思える。動物愛護運動のやり口や激しさを見ていると、これは一種の公民権運動のようで、逆に言えば、黒人や先住民の有色人はこれまで、まさに動物然として扱われてきたのだろうなと思って、ゾッとしてしまう。
 ひるがえって、日本に肉食のごまかしはと言うと、日本では、肉食の屠殺性は隠蔽され、隅に追いやられている。屠殺に関わる者は漠然たる周縁化を受けたまま、差別的に忌避される。線引きの境界性はない(見えない)。肉食も草食もない。いや、肉食も草食なのだ。日本で肉食が一般化するためには、肉が単なる食材として扱われなければ、成立しなかっただろう。ジビエは日本のそういう状況に、結果的に一石を投じてしまう。だからこそ、言訳が必要になる。しかも、飢饉などで必要だったという以外の言訳でなければならない(ジビエは嗜好と見做されるから)。そこで持ち出されるのが「命への感謝」だが、ここには二つの道が待ち構えていよう。一つは肉食は殺生だと受け入れて、食の残酷性を肝に銘じる道(路線だけは西洋と一緒)、そしてジビエすらも現状の肉食のように草食化し、無化してしまう道。感謝する場合の本来の主旨は前者であるはずだと思うのだが、多くの人は気分的に後者を選択しているような感じがする。だとすれば、所詮は日本的なごまかしに、さらに輪をかけるものではないか。
 僕がジビエに興味があるのは、単なる嗜好であり好奇心だ。それはそれでいいと思うし、それを否定されたくない。それはある意味、肉食を草食のように考えるのと大差はないだろう。その一方で、そうした日本の肉食のごまかしを明るみに出すこともまた必要だろうと思っている。肉を食べるなら、残酷性を意識した方がいいと思うし、屠殺をせざるを得ないという業を肝に銘じるべきではないか。なぜなら、それに関わる者たちを差別し排除してはいけないと考えるから。人間はそこから逃れられない。
 だからと言って、西洋式に線引きをして、残酷性を正当化すればいいというものでもない。西洋でも肉に感謝しているだろう。ただし、感謝の力点は動物ではなく、別の所にある。つまり、家畜を屠ってもいいという神のお墨付きへの感謝だ。しかし、僕はとても神を想定できない。感謝するなら、漠然と自然に対してであって、動物も植物もない。獣も家畜もない。鉱物だって同じことだ。なぜわざわざ動物を厚待遇しなければいけないのか。それは動物への感謝ではなく神への感謝だ(だから、この論理では、家畜には感謝の必要はないという発想が容易に出て来る)。そもそも神も人間の都合で成り立ったもの。だから、人間の都合への感謝だ。
 日本では、食に限らず、屠ったものを供養する習慣があり、それは感謝(あるいは贖罪)の一環として、一応は理解できる。これは西洋式の感謝とは違って、階級的な区別をつけない。実験動物の供養どころか、非生物との区別すらつけない針供養・筆供養・人形供養などもある。しかし、これですら、最終的には、人間側の都合であり、正当化でしかないだろうが。
 僕にも自然への感謝の念や畏怖はある。同時に、その中で人間が生きていくという矛盾への葛藤がある。それは神には行かない。だから、すぐに全能の神に向かうのは違和感がある。僕は本質的にクリスチャンではない。馴染みがない。スピノザばりに、僕の言う自然を神と呼んでもいいのだが、そこには矛盾があり、葛藤が横たわっている。絶対的なものではない。だから、こうした矛盾を抱えたままで、「命をいただく」などと言っているのを聞くと、自分本位の正当化にまず思えて、抵抗がある。ここにあるのは自己反省でははなく、自己正当化であり自己欺瞞だと思うから。命をいただいて感謝すると、何がどうなると言うのか。別にジビエを食べなくても、生きていること自体が命をいただいていることなのだから、その矛盾を恥じないのかと言いたくなる。いや、別に恥じなくてもいいのだが(強要する気はない)、残酷なことをしながら(あるいはそれに依存しながら)、それを糊塗し、開き直るのは、はっきり言って偽善だと思う。免罪符はごめん被りたい。見えないふりをしないで、矛盾を意識した方がいいのではないか。贖罪は神にするものではないと思う。
 もちろん、何にでも感謝できるという行為は立派だと思うし、そのように振舞える人を本当は尊敬したいとも感じる。しかし、開き直りの押しつけ神学には興味はない。動物愛護とは動物を可愛がることではない。殺さないことではない。時には全体のことを考えて、去勢したり、間引きしたりもする。動物のためを思っても、残酷なこともする。供養もする。冥福も祈る。しかし、それでも人間の都合ではあるだろう。これを恥じよというなら、全くその通りで、恥じるしかないと思う。感謝だけで生きられれば苦労はないが、本当にそうしようとするのは、並大抵のことではない。感謝することの懊悩がなければ、それはやはり偽善ではないかと思う。
 とは言いながら、こうした偽善を全否定したいとは思わない。偽善は偽善だが、偽善でも別にいいと思う。偽善も立派な文化だろうから。要は、意見の強要が嫌いなだけ。そのために、違和感を表明しておこうと思っただけ。
 と、ここまで書いて、僕は裏返しのクリスチャンなんだなと思った。僕が想定する神は明らかに唯一神で、多神教的ではない。その絶対性はあくまで自己放擲の手段でしかないとは言え。と同時に、解脱をしないカルマ論者なのかもしれない。僕がよくこんがらがって、人と話が通じないのは、ここらに起因するのかも。

2019.1.25金

 〇映画に行く途中、電車内で不思議なおばさんに遭遇する。空いている席にうまいこと座り込んだ直後、喉が咽ってしまい、口を手で押さえながら、顔を少し左に曲げて、大きな咳を一つした。すると、しばらく経ったら、左隣りに座っていたおばさんが、直角に僕の方を向いて、急に咳をし始めた。手を押さえるわけでもないし、とても乾いた感じの嘘臭い咳なので、何だか変な気がした。まさか僕のした咳が気に食わず、当てつけでもしているのかと疑ったが、三回くらいですぐに止んだので、気の所為だったかと考え直した。ところが今度、そのおばさんは、逆隣りの若い女性に向かって、肘を突き出して、「さっきから手が当たっているのよ!」と言って、何回も小突き始めたのだ。突かれた方も吃驚して、すぐにその場を離れ、遠くへと逃げ去ってしまった。この小突きのリズムは、乾いた咳とほとんど一緒に思えた。やはり先ほどの咳は僕への仕返しだったのだろう。そして、それが止んだのは、女性の手がぶつかったことに関心が移ってしまったからか。その後は、多少の意識はしたものの、とりたてて何事もなく、お互い静かに座っていた。そのおばさんはかなり良い服を着ていたので、それなりに裕福な人らしいのに、こんな振舞をするとは唖然とする。どんな関心で生きているのだろうか、とふと思い、何となく悲しくなった。

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 〇シネマヴェーラにて、日本のミステリー映画三プログラム四本を鑑賞。玉石混淆ながら、割りと楽しく観ることができた。
 そのうち、松竹の貞永方久「影の爪」(1972)は傑作だった。ショーロット・アームストロング原作の乗っ取りサスペンスだが、締め上げるような恐怖の煽り方がたまらない。岩下志麻もいいが、「怪談せむし男」で怪演を見せる鈴木光枝の淡々とした表情がすごく怖い。ラストシーンでの何をするでもなく戸惑っているような、どっちつかずの動きも、不思議な効果を生んでいる。同じ原作で神代辰巳がテレビドラマ「悪女の仮面」を撮っているが、あまりにショッキングが過ぎて笑ってしまうのに比べると、こちらの方が地味な分だけ、後から恐怖がいつまでも尾いて来る気がする。
 一番駄作だったのは新東宝系の「女の決闘」だが、大映の「犯罪6号地」(1960)のひどさにも吃驚した。大映作品だからとても重厚に作られているし、主演の高松英郎も一生懸命だが、筋立てにしても演出にしても演戯にしても、何の華も見応えもない。ここまで無内容な作品も珍しい。途中、刑事たちの間で、捜査で重要なのは科学か直観かという議論が起こり、どうなるんだろうと少しだけ期待して観ていても、何の展開も絡みもないままに立ち消えになる。全てがこの調子で、上滑りに進むだけ。実にひどい脚本で、よくぞこんな作品を作る気になったものだ。「女の決闘」は何もかもが未熟で稚拙だから、それで済んでしまうが、こちらはきちんと作られているだけに、そのつまらなさが異様に際立って見える。つまらなさを楽しむことすらつまらない。
 ちなみに、科学か直観かという議論は、あまり意味のない問題設定だと思う。それを対立的に捉えるのは、とても表面的な理解で、すごく勿体ないと感じる。インドの数学者ラマヌジャンは自分の発見した膨大な定理を全て信仰する女神が降りてきたせいだと言ったそうだが、それはあくまで信仰者の主観的な発言。だいたい直観というのは、科学と相反するような神秘的なものではなく、人間の体験に根差していなければ成立しないだろう。体験を積み重ねた人間が、得られた日常のパターンとは微妙に異なる事態に遭遇した時に感じた違和感を、何とか意識化しようとする働きこそが、おそらくは直観であって、言語化されてはいないが、それなりに根拠のあることだ。もちろん、その過程で間違うこともあろうが、だからと言って、全否定するようなものでもない。経験者の貴重な洞察を取っ掛かりにして科学的に解明すれば、見えなかったもの・見えにくったものが見えてくるかもしれない。そこで神秘への信仰が出て来てもかまわないが、要は使えるものは何でも使ったらいいじゃないかというだけの話だ。
 観た中で一番気に入ったのは、浅野辰雄「野獣群」(1958)。これは「女の決闘」と同様、新東宝系のチープで稚拙な作品で、そんなに評価されない作品だと思うが、ここで描かれているようなダラダラと間延びした展開が、個人的には大好きなのだ。こういうユルユルな作品を、何もする気になれない深夜などに観れたら最高だと思う。ドリフのコントみたいなシーンが延々二時間以上も続くラット・ペスタニーの「地獄のホテル」とか(ちなみに、この邦題は最低で、「ようこそホテル地獄園」とでも訳したいところだ)、ポルノ映画館で働く破格のレズビアンがバーに行ったりナンパされたりする光景がズルズル語られるマリー=クロード・トレユーの「シモーヌ・バルベス」とか、いつまでも観ていたい気持ちになる。「野獣群」も、編集であまり切り刻まれることなく、いろいろな思惑が蠢く怪しい酒場の光景が垂れ流される。よく知らない俳優たちの歌や芋芝居も、ここでは弱みにならない。作詞家の湯川れい子が俳優をしていたとは初めて知った。

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 〇最初期の映画を観ていると、編集の発想や技術があまり確立していないことがよくわかる。初期の無声映画は、起こった出来事を時系列的に描写しようとするから、ひどく長尺になっていて、例えばフィルムセンターで観たフリッツ・ラングの「月世界の女」の長尺版(これでも完全版ではない)なんて、あまりにくどくて退屈で、思わず切り刻みたくなるほどだ。そして、少しずつ編集や省略の技法が発展し、各国のプログラム・ピクチャーでは、確固たるものとして洗練を極めた(にもかかわらず、下手な作品も山ほどある)。しかし、それはある意味では、あまりにもうまくまとまり過ぎてしまって、出来合いの既製品という印象も拭えなくなる(その中でも、例えば市川崑のように、断続的な繋ぎによって衝撃を与えるものもある)。ちなみに、かつてアテネ筒井武文監督特集をやった折り、ゲストの瀬川昌治がカットしたいシーンが沢山あると不満を述べていたのも思い起こす。
 そんな日本映画の流れを変えたのは、おそらく北野武の作品で、従来だったら平気で省略されるような無駄な戯れのシーンを随所に挟み込み、それがまた独自のリズムと緊張感を生んで、衝撃的だった(実見したのは大分後だが)。橋口亮輔作品では時折、省略される中で、一見冗長とも思える長回しのシーンが現れて心地よい。その先駆けかもしれないのは、(筒井の「レディメイド」もさることながら)伊藤智生の「ゴンドラ」だろうか。この作品はよく冗長だと批判され、特に後半部はとうに物語の決着がついていると思えるのに、長々と田舎のシーンが続く。しかし、僕はこの冗長性に惹きつけられて仕方がない。何気ない日常のかけがえのなさ、あるいは苦しみや悲しみの果てに訪れる日常の愛おしさを、いつまでも観ていたくなる。しかし、映画が終わっても、ちっとも悲しくはならない。なぜなら、この映画を観た体験が心に残って続いているから。だから、映されているせっかくの光景を、無闇に切り刻んでほしくない。
 もっとも、最近の作品には、ただ長いだけと感じるものも少なくない気がする。メリハリの効いたスタイリッシュな編集もすごいと思い、舌を巻く。その一方で、ダラダラとした冗長な時間も味わいたい。これは僕が映画に一方的に癒しを求めているからだろうか。

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 〇癒しに関連して思い出したこと。高倉健主演の「君よ憤怒の河を渉れ」という大作映画がある。高倉が初めてヤクザ役から脱した作品で、戦後初めて中国で解禁・公開された日本映画として当国では絶大な人気を誇る(もっとも、セックス・シーンや共産主義批判の部分があるので、中国版「追補」はかなり改竄されているらしいが)。ところが、本国では完全な駄作扱いで、全く評価されていない。確かに物語は虚仮威しだし、全て自力で問題を解決しようとする主人公の頑なな行動原理が幼稚な気がしないでもない。また、この映画の音楽も散々な言われようで、ピクニックにでも行くような感じの音楽が随所に現れ、間が抜けて、盛り上がりに水を差して、全くミスマッチだとケチョンケチョンだ。
 しかし、僕は音楽も含めて、この作品が大好きで、浅草名画座高倉健三本立てで初めて観た時に、すごく惹き込まれてしまった。僕はもともと高倉健には何の興味もなかったのだが(観に行ったのは横溝正史原作の「悪魔の手毬唄」が目的)、この作品の健さんは、やくざれ刑事の原田芳雄ともども、すごく格好いいし、幼稚な行動原理も、最初からそういう意地っ張りの話だと思えば気にならない。脱力系の音楽については、これには最初、僕も唖然とさせられ、思わず息が抜けてしまったが、そんなに嫌な感じはしなかった。この間の抜け方はむしろ魅力的で、鑑賞者をほっこりさせ、過度の緊張感を牽制し、ふと我に帰らせる役目があるのではないか。
 大分前、テレビを適当につけたら、確か渡辺篤史がナレーションをしているドキュメンタリー番組で、パチンコ台の最新機種の特集をやっていた。僕は父を迎えに行った小学生以来、パチンコをしたことはないので(ちょうど玉飛ばしが手動から自動に切り替わる頃の話だ)、本格的な液晶タイプのデジパチについては何の知識も実感もなかったが、そこでは「海物語」という製品がいかにすごいのかということが強調されていた。それによると、基本的にパチンコのような勝負事をする時、人はある種の緊張状態に置かれる。それはとてもスリリングな体験だが、生理的な限界があり、やがては疲労し、いつまでもその状態を維持できるわけではない。ところが、「海物語」の場合には、人は所々で、そのまったりした演出や画面構成に癒されて、そのまま息抜きができるため、その結果、かなり長いこと、楽しむ(楽しませる)ことができる。パチンコに癒しのリラックス効果を持ち込んだものとして、「海物語」は画期的なのだそうだ。その後もいろいろな機種が出ているが、結局は緊張状態を高めるの一辺倒で、その効果を全く意識していなかったり、意識しているとしても、マニアックな一部の人にしか効果を発揮していなかったりするのがほとんどなので、そんなに長くは続けられない。万人受けするという点でも、他の追随を許さないとのこと。ギャンブルはやはり人に依存症をもたらすものだと思うが、パチンコの中毒の質や深さは昔とは変わっていたということか。
 僕は「憤怒」の音楽も、多分にその効果があると思う。ずっと続く鑑賞者の強いられた緊張感をふっと解きほぐして、さらなる緊張を待ち受ける。それは一つの試みとして面白いことだと思う。ホラーにしてもサスペンスにしても、鑑賞者にある種の緊張状態を強いるし、それが強いられるのが、そうしたジャンル作品の醍醐味なわけだが、そればかりでは疲れる一方だ。もちろん、「影の爪」みたいに、ずっと疲れさせるのも一興。そして、疲れをうまく解きほぐされるのも一興。そこが個性になるのだろう。よく恐怖と笑いには類縁性があると言われるのも、その表裏一体性に関係するからだろう。東南アジアの往年のホラー映画には、コメディアンの笑劇がよく差し挟まれる。インド映画で突拍子もなく現れる歌と踊りも、緊張感を解放させる効果を含んでいる。とは言え、例えばアミターブ・バッチャン出世作「炎」で、ヒロインが悪党から強要されたガラス片の上での踊りのように、それらが混交している場合もあり、一筋縄で行くものではない。
 要はいろいろな状況があって、それを楽しめること、そうした感受性を身に着けること、これが大切だということなのだろう。好きなものは好き、嫌いなものは嫌いと言っていいが、そう言う勇気と、そのことと対峙し、それがなぜそうなのかを見極めようとしする意志、そしてそれも楽しめる間口の広さが肝心だ。そういう懐の深い人間になれればいいと思う。

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 〇その後、国立映画アーカイブに行く途路、新橋で下車して、ニュー新橋ビルの金券ショップ巡りをする。しかし、欲しいと思っていた展覧会のチケットはどれも安価では見つけられなかった。無駄足になったと思っていたら、離れ際に、よく行く安いショップの店先で、サラリーマン風の若い男が、まさに僕の欲しかったチケットを二枚買い取ってもらうのに遭遇した。店員はあれこれ調べて、一枚六百円ですと応えていた。これが売り出されたら安いんじゃないかと思って、他の店をまた一巡りし、五分後くらいに戻ってみたら、手書きで値札が付けられて、早速売られていた。値段は九百八十円。一番安いからすぐに買う。本当は直接取引できればとも思わないでもなかったが、損をした気にはならない。それに、二枚も要らない。御店も五分余りで三百八十円も儲けてよかったね。まさに三得。あ、美術館はちょっぴり損をしているか。

2019.1.24木

 〇昨年末より紛糾している韓国海軍によるレーザー照射問題に関して新たな動き。東シナ海上で韓国軍艦艇に対して海上自衛隊の哨戒機が低空威嚇飛行を行なったとして、韓国外務省が日本に抗議したと報じられた。流石にこれには吃驚させられた。自衛隊がこんな応酬をするとは俄かには信じられなかったが、一連の対応に不満を持つ自衛隊員だって少なくないだろうし、ついに暴挙に出てしまった輩がいないとも限らないと心配した。
 ところが、その後の詳細を確かめてみると、それはやはり杞憂で、物理的・論理的な証拠に照らしてみても、そんな事実はないらしい。だとすると、これは韓国側の一方的な言い掛かりということになる。まさかそう勘違いしたというほど、韓国軍も低レベルではないだろうから、これははっきり意図的な行為なのだろう。いずれにしても、事態はかなり深刻で、まさかここまでの行動に突き進むとは思ってもみなかった。
 韓国軍の行為は、自分の体面を守るためにヤクザがよくやる手法と一緒だ。自分の体面を守るため、例え自分に非があっても、それを認めるわけにはいかない。非を認め得ない自分を正当化するため、相手の非を持ち出して、これでお相子だと手打ちにする。もし相手に非がなければ、同程度となるように、捏造や粉飾も辞さない。いやむしろ、証拠が出せないような、ありもしない事態をでっち上げた方が、相手がきちんと反論できない分だけ、都合がいい。そして、相手を宙吊りの状態に持って行って、自分も同じように反証する必要はないとして免責するという手だ。おそらくはこれを狙っているのだろう。それで一応、自分の体面だけは保たれたような気にはなるだろうから。
 これは完全に内向きの発想でしかなく、これで現実の他者を裁断するのは話にもならないのだが、体面の中で生きている人間には、このことが見えにくいものらしい。個人よりも集団の方がより強固に体面に縛られるものだろうが、その一方で、公的存在には、それを制御する術や力を内に持っているものだ。しかし、韓国の軍や政府までがこんな振舞に出るとは、呆然というより恐怖を感じる。
 そもそも儒教文化圏の人間は、日本やベトナムも含めて、常に体面に縛られがちだから、妥協がすんなりとはできない。つまり、対話が気軽にはできない。現在それに対抗しているのは実利主義で、早くから資本主義化された日本では、その影響がいちばん強いから、その体面主義は常に相対化のリスクに晒されている(だから、僕のような撥ね返り者も生きられるわけだ)。中国やベトナムはあくまで社会主義共産主義という体面を頑なに堅持しつつ、その主導という名目で、実利主義を許容する。ところが、韓国では、実利主義を軽蔑するがゆえに放任しながら、その弊害を道徳と同一視された体面主義で断罪し、少しも相対化しない。中国は元々現実的・実利的な発想があるから、体面主義とのバランスを、自分の都合のいいように操作している印象があるが、韓国はその二つの間で自己を傷つけ合っているように見える。これはおそらく昔からの伝統で、こうした体面と実利、あるいは体面同士の争いに明け暮れて、少しも近代化しようとしない朝鮮王朝に業を煮やして、福沢諭吉は「脱亜論」を書いてしまったのだろうし、あるいは、朝鮮を植民地化するというより、まるまる併合・併呑してしまうという発想を日本の帝国主義者たちにもたらしたのだろう。
 こうした体面意識は、何も儒教文化圏に限ったものではない。マッチョな中南米諸国、王族支配のアラブ中東諸国にも、それなりの面子と体面がある。しかし、それ以上に深刻なのは、名実とも大きな領土を抱える大国で、現時点で厄介に思えるのは、中国もそうだが、ロシアの大国主義だろうか。ロシアは例えばGDPでは韓国やブラジル以下の国なのだが、大国としての面子と威信のために、実利を度外視して、旧ソビエト圏の周辺諸国に、いまだに平気で戦争と仕掛けてしまう。中国のチベット侵攻も然り。こうした国は領土問題などで妥協することはまずできないので(日本ですらできないのに)、よほどアクロバット的なことでもない限り(例えば面子のために面子を捨てることができるような状況が成立しない限り)、なかなか解決はできないだろう。これらは全て文化の問題だからだ。文化が変わらない限り、実質的には何も変わらない。そのためにはまず文化の相対化が認識されなければいけないだろう。
 蛇足。傍目で見ていて、韓国社会の大きな足枷となっているのは、極端な財閥支配と、ほとんどアイデンティティ化された恨の感情だと思っている。この二つは密接に繋がっている。この社会の風通しが良くなるためには、財閥解体が決定的に必須だと思うが、これを恨の勢いでやってしまうと、同じ袋小路に陥ってしまうだろう。大変なことだ。

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 〇ウラジーミル・メニショフ「モスクワは涙を信じない」は、僕が大好きなロシア映画の一本なのだが、後に主人公のおばさんと結ばれることになるおじさんが、すごく物わかりがいいのに、妙に体面にこだわり、些細なことで結婚を止めようとして、観客をハラハラさせるのは、今から思うと、とてもロシア的な着想と演出なのだ。
 モスクワは涙を信じない。モスクワでは涙は通用しない。泣いたところで仕方がない。メソメソしたって始らない。一見ミスマッチな題名を女に適当してみせるのは、いかにもソビエト的だが。

2019.1.21月

 〇職場で上司と久々に言い争いをする。僕は基本的に争いは好まないので、それをなるだけ回避しようと努める。だから、別にこちらが悪いと思えなくとも、多少の理不尽なら我慢をして、問題をなかったことにも平気でする。もっとも、問題があまりに大きくて深刻な場合には、目を瞑ってばかりもいられないが。また、僕はとりあえず問題をなかったことにしても、問題は問題であり、理不尽は理不尽だとは思っているから、そのこと自体をなかったことにする気はない。だから、そんな認識のズレのせいで、時折、思いがけない摩擦を引き起こしてしまう。今日の諍いも、そういう意味では必然なのだが、僕にはいささか寝耳に水でもあった。
 職場で使用している機械(巨大な食器洗浄機)に、ちょっとした問題が生じている。日常的に消費している溶剤(洗剤)の消費量が若干増加しているのだ。その原因は実ははっきりしていて、内部で繋がる配管の一部に経年劣化による亀裂が生じており、そこからわずかながら水漏れが起こって、供給された溶剤も一緒に抜け出てしまっているためだ。このことは既に専門業者による定期点検で指摘されていて、新品との交換を提案されている。似たような配管の破損はこれまでにもあったが、しかし、今回は特に溶剤を含む部分なので、ただの水漏れ以上の経済的損失をもらたすものと考えられた。だから、僕はそのことを問題視し、すぐに修理をしてほしいと方々に言ってきた。ところが、さしあたって機械が使用不能になるわけでもないので、緊急性がないと判断されたのか、そのまま留保されていたのだ。
 余談ながら、そもそもこうした案件はいつも放置されがちで、前に同じような事態が生じた時、千円程度の安価な部品の交換をめぐって、これが定期点検の一環としてその費用内に含まれるのか別会計なのかで、上層部と業者が揉めており、そのまま半年以上もほったらかしにされたことがある。その時はただの水漏れで済んでいたので、僕も基本的には黙認していたが、塵も積もった水道代は馬鹿にならないだろう。また、次第に悪化する一方の漏水を防ぐために、僕だって個人的に、いろんな細工を労して、それなりの出費もしていたのだ。
 ただ、通常の原因としては、こちらの方が考えられる。機械を使用し続けていると、内部の表面にカルキ成分のスケール(水垢)が固着し、そのことによって溶剤が適度な頻度で溶解・噴出されるためのセンサーの感度を鈍らせ、過剰供給をもたらしてしまう惧れがある。だから、定期的に酸性の融剤を使って、スケールを除去し、感度を正常化しなければならない。だから、もし何らかの事情で、それがなされなければ、当然、洗剤の消費量は増大する。そして、過去には、人員付属や業務の過剰さから、それができない時期もあった。しかし、直近では、そんな事態には陥っていない。僕は何日間か置きに、業務の終了時にスケールの有無を確認し、必要に応じて、その処置をし続けてきた。また、センサーのみならず、機械の内部全体にも水垢が溜まっては問題が生じるので、月一回程度の大掛かりな融解処置をし続けてきた。だから、今回の件は、特にそのことが原因だとは考えられない。
 ところが最近、現場内の上司が、事務方に溶剤の発注を依頼するに当たって、洗剤の消費ペースが早まっていることに気が付き、騒ぎ始めたのだ。僕にしてみれば、そんなことは原因も含めて、既にわかっていること(しかも報告してあること)だと思っていたのだが、この情報がきちんと共有されていなかったらしい。僕はこの頃、たまたま上司と顔を合わせることがなく、書き置きを除いて、直接話をする機会もなかったことも一因かもしれない。そして、僕が不在の間に、上司は僕のやるメインテナンスだけでは不十分だから、これから毎日、一日の作業終了時に必ずその処置を行うこと、それを僕に伝え、またそれが誰にもできるように僕に習っておけとの強い指示と伝言を残していった。
 これは少々困ったなと思った。誤解があるのは一先ず置く。それより、これは逆効果になると考えたからだ。先に機械全体のスケール融解作業を行なった際、その直後に、一段と水漏れがひどくなったことに気が付いたのだ。これは大変な事態だと思って、僕はそのことをすぐに直接、事務方(及びそこを通じて業者)に再報告。しかし、例によって、また放置された(そして、そのことも含めて、上司にも言ってあると認識していた)。ところが、その後も注意して観察していると、水漏れの度合いが軽くなっていることに気付き、実は水垢によって、かえって配管の穴や隙間が塞がれているのだと思い当たった。ところで、漏水箇所はセンサーよりも下にある。だから、この場合、センサー部の水垢を落とそうとして、過剰かつ頻繁に融剤を使って、下部の漏水箇所に当ててしまっては、穴をより広げることに繋がり、むしろマイナスになる。そもそも最近、消費量が目に見えて増加したのも、大掛かりな内部洗浄を行なったことが関与しているものと推察された。だから、僕は職場の人たちには、これは微妙な箇所なので、上司の指示には従わなくてもいいと、上司には僕の方から説明するからと言っていた。
 上司と久々に顔を合わせた時、彼の方から、例の指示を激しい口調で言って来たので、僕はそれはしない方がいいと返し、細かな説明をしようとした。ところが、僕がそうするより先に、彼は激高してしまって、このことがいかに大問題なのか、および僕の仕事(スケール落とし)の怠慢ぶりを、すごい剣幕でまくし立て、僕に話を続けさせないのだった。僕は唖然としてしまったが、どうやら僕が彼の指示を否定していたことを、誰かの口からか、事前に聞かされていたのかもしれない。
 彼が何故そのことをこんなに気に掛けているのかというと、事務方から、作業内容が悪いだの無駄使いをしているだのと、一方的な嫌味を言われるのを忌避しているからだ。もちろん、例えそんな言い掛かりをつけられたとしても、合理的な説明なり反論なりをすればいいのだが、よほどのことがない限り、彼はそんなことはしない。元々機械の仕組みを大雑把にしか把握していないので、細かな説明ができないということもあるが、それよりも、領分や体面をすごく気に掛けるので、基本的に上に対しては、表立って反論はしない。と言って、別に敬意を払っているわけではない。実際には、自分よりはるかに年下の、上の面々を内心では軽蔑している(そういう愚痴を何度も聞かされている)。だから、上からの指示に対しては、同時に、理不尽で不当な目に遭っているという屈辱を感じており、また、そんな連中から大口を叩かれたくないと身構え、ムキになっている。だからこそ、かえって異様なまでに忖度をし、相手が求めていないようなことまで気に掛けて、やろうとする。おそらくは自己防衛のために。その動機づけに全てが絡み取られていて、論理もへったくれもないので、いつも話が繋がらなくなる。そして、僕がそこで無遠慮に合理的な突っ込みを入れてしまうと、そのこと自体に過剰に反応してしまう。自分の領分が侵された、あるいは自己防衛が邪魔されたと、憤ってしまうのだろう。
 そもそも彼が機械の仕組みをあまり理解していないのも、その領分意識が関わっている。なまじ機械系の業者が介在しているために、専門的な事柄は自分の範疇ではないと突っぱねていられるのだ。彼にとっては、自分の責任になるかどうかが重要なので、それ以外のことは知ったことではない。だから、驚くほど無関心でいられる。責任を意識するあまりの無責任、職務意識の転倒だ。僕は基本的には知ることは楽しいことだと思うし、また問題とは個々の範囲を越えた所まで理解している方がより解決に近づけると素朴に考えるのだが、彼はいつも、そこで物事を、知識も問題も、いちいちぶった切ってしまう。だから、その理解はおそろしく断片的で、偏った把握や説明しかできない。だから、上に忖度はできても反論はできないし、内輪の知識として自分が知っていることにしか重要視できない。習わぬ経は読まないし読めない(読むのも認めない)。ついでに言えば、その忖度だって正鵠を射ているとは思えないし、相手の領分意識への配慮に対しては敏感でも、個々の中身や範囲については結構お座なりだなと感じる(もっとも、忖度される方は過剰なくらいが心地よいのだろうけれども)。
 僕は一応、相手が不機嫌にならないように予防線を張っているつもりなのだが(これも一種の忖度だが)、今回は最初から内容がほぼ全否定に近いし、また彼がここまで固執しているとは想像していなかったので、見事に地雷を踏んでしまった(つまり、忖度とは過剰でなければ成立しないのであって、僕のやる程度の忖度はインチキなのだろう)。それでも、一応は冷静を装って、それは逆効果の可能性があること、だからそれを毎日実行するのは留保した方がいいことを、何とか口に出した。ここで「何だ、そういうこともあるのか」と一言言ってくれればいいのだが、やはりそんな風にはならず、「そんなことはあり得ない!」と立ちどころに畳みかけるものだから、こちらも次第次第に熱が入ってしまった。ややあって、「水漏れがかえってひどくなったのを確認しているんですよ」と言い返すと、「それで水が漏れるなら、漏れればいいんだ!」。この発言を聞いて、僕は議論を止めた。これ以上続けると、ドツボにはまるだけからだ。普段は多少の摩擦はあっても、上司とはきちんと話せると思うのだが、ここまでこじれると、どうしようもない。こういう場合は、放って置くしかない。
 その後、作業による中断を経て、二時間以上過ぎてから、上司は、僕に「全てを任せるから勝手にやってください」と、まるで腫れ物に触るような丁寧口調で、たらたらと言って来た。妥協してきたのだ。しかし、すごくいやな感じだ。ただ、こういう場合、僕はほとんど腹は立たない。最終的に実を採るには、こうなるしかないと思うから。ただ、結果だけは何とかなったものの、こんな駆け引きやディスコミュニケーションをこれからも続けなければいけないのかと考えると、やれやれと思ってしまう。
 上司がこんなに騒ぐようになる気持ちもわからないではない。こちらはあくまでも下請けの委託作業員の身でしかないが、現場の動向をほとんどわかっていない事務方の職員が、適当な印象や数字だけで一方的に圧を掛けて来るのは、基本的にとても腹立たしいことだろう。しかし、実はそちらもよくわかっていないのだから、非常に丁寧な口調で、理詰めで反論してしまうと、結構突き崩せるものだ。ただ、上には上があり、その意向も忖度されるものだから、最終的にはまた問題が捻じ伏せられて(もちろん、時にはその過程でこちらの非が正されることもあるだろうが)、言うことだけは言えても、そのまま忙殺・黙殺されることの方が多い。結局はその繰り返しだ。本当に徒労ばかりだと感じる。そして、それを打破しようとすると、不本意ながら、事を荒立てる決断をせざるを得なくなる。
 これがいかにリスキーな状況を生み出しているか。例えば、かつて上司が事務方に溶剤の発注をし忘れたことがある。その時かなりボロクソに言われたらしいが、なぜそうなのかと言うと、事務方はさらにその上に対して、自分の管理不行き届きを言訳しなければならず、また業者に頭を下げて緊急発注を依頼して「貸し」を作ってしまうことになるから(その貸しにどんな意味があるのかと思うのだが、実際にそう指弾されたとのこと)。つまり、例によって、体面や面子の問題だ。ところが、よりによって、上司がまた発注を怠ってしまった時、事務方に頭を下げるのがよほどいやだったようで、一切報告せず、次の発注時期まで、水増しして濃度をごまかした。そして、会社の別の部署から強引に似たような溶剤(洗剤)を調達して使用した。そして、それも完全になくなりそうになると、どうせわかりっこないからと、所々で溶剤を抜いて、空のまま機械を動かし続けた。流石にこの時は僕も抵抗し、何度も思い留まらせようとしたが、ほんの少しの間だけだからと容認し、また今さらこのことを明るみに出すと、かえっておかしくなるので、結局は黙って見過ごした。ただし、上司が不在で自分が主導権を握っている限りは、やったふりをしてごまかしていた(いわば二重の裏切りだ)。これは明白な不正行為だが、抜いた溶剤は一部だし、また他の措置もいくつか講じられているので、全体への影響からすれば、ギリギリの所でセーフだったと弁明はできる。ただ、こうなると、溶剤の必要経費はかなり節約され、相当狂っているはずなのだが、事務方はこちらに言われて機械的に発注しているだけなので、減った分には一向に気が付かない(発注される業者の方は当然気が付いていたが、何も言わなかった)。つまり、実際には何の管理もしていないのだ。
 上司もこれに懲りて、二度とこんな事態は引き起こしてないが、似たような不正は、軽いものも含めれば、頻繁に起こっているし、多少は僕もそれに加担してきた。その意味で、僕も間違いなく共犯者だ。僕は決められたルールを形式的に守ればいいとは少しも思っていないので、それがいいのかどうかを常に実利的に天秤にかけてしまうが、それでもルール破りをしたことは肝に銘じなければいけない。これは言訳。ただ、言訳ついでに言訳すれば、どうやっても見過ごせないと思う問題については、僕はあまり躊躇せずに、告発してしまう方に行く。自分の立場が危うくなるのも顧みず、明るみにしてしまったことは、これまでにも何度もある。それでわかったのは、問題が大きければ大きいほど、僕みたいな小童の責任追及など、簡単に吹っ飛んでしまうということだ。むしろ、そんな瑣末なことは、かえって有耶無耶にされる。だから、何の感謝もされないが、迫害も受けなかった。ただ、とりあえずそれらの問題は解決に向かったのでほっとしたが、もし僕が事を荒立ていなければどうなったのだろうという思いは残る。
 しかし、ここで今一度、よく考えてみると、僕の普段のこうした態度こそが、いろんな問題を助長させてきたのではないかという気もする。本当は「ここが問題ですよ」と腹を割って話せればいいのだが、そんなことは難しいことだからと思って、迂回してしまう。その結果、実を採っている気になっているが、本当にそうなっているのか。今の上司は僕より後に来た人だが、最初はもっと真面目で、人の話もきちんと聞く人だった。ところが、次第次第に気を遣わなくなっていき、いろいろな経緯や段階を経て、今のような状態になってしまった。今回のように、いつも理不尽なことを言うわけではないが、時々感情を爆発させて、支離滅裂な物言いをする。ただし、大抵の場合は、後になってから「あの時は感情的になっちゃってね」と反省し、妙になだめようとする。僕もそれ以上は深追いしない。その繰り返しだ。これというのも結局は、僕が要所要所で彼の行動を容認している(と思わせている)ことにあるような気がする。僕はやはり他人と向き合う時、どんな理不尽なものでも、他者の振舞を所与のものとして受け取り、それを前提として自分の行動を決めようとするパターンに陥りがちだ。これはさしあたっての争い事は起こさないが、相手の行為を無批判に追認しているかのような誤解を与えているのかもしれない。僕には全くそのつもりはないし、時々は平気で批判的な態度を取ったりもするが、それは相手を多少は吃驚させたりはするものの、自省を促すようなところには及ぶものではないらしい。人は権力を握ると堕落するものだと思うが、権力者の抑制には何の影響も与えていない。
 また、現場内でほとんど全てのことに通暁しているのは事実上、僕だけなので、半ば仕方なく、人のしないこと・いやがること・面倒臭いことを、それほどいやな顔をすることなく、し続けてきたが、こんな冷めた態度もよくなかっただろう。だからこそ、僕はパターナリストを自称し、人にいろんなことをやらせよう、後輩に業務を引き継がせようとしてきたつもりだが、多少はその方向に行っても、結果としてはうまくいっていない。それは、個人の能力差や性格、あるいは辞めてしまったり等々が、一応は表面上の理由なのだが、僕の態度そのものにも一因がないとは言えない。僕はやはり、そういう際にもに冷めた態度で接しており、相手ができてもできなくても、こんなものかと実は思ってしまっている。これは上司についても同じことで、結局は僕は人がしないこと・できないことの後始末を、つい率先してしてやってしまう。別に相手を信用していないわけでもないのだが、そうしないと物事は進まないし、とんでもない事態になると思うことの方が先走る。そして、これがすごく仇になっている感じがする。人のやる気や切実さ、はたまた責任感や潜在能力を事実上、奪い取っているのではないか。
 冷めた態度からもう一つの問題も生じている。それは僕が妙に優しい人間だと思われていることだ。例えば、上司とパートのおばさんたちとは時々摩擦があり、彼女たちから上司に対する苦情と愚痴を散々聞かされるが、それもそうした認知や誤解が関係している。かつては「癒し系」と呼ばれたこともあるし、僕は「親父ではなくおばさんだ」と言われて、ギョッとしたこともある。人にある種の安心感を与えるということは、とりあえずは喜んでいいことかもしれない。しかし、それは甘く見られているということと裏腹で、実は一部の人は、僕の言うことをあまり聞こうとしない。そんな僕でも、たまには怒ることもあるのだが、普段優しいと思われていると、だからこそ余計に効く場合と、かえって困惑や反発をされる場合と両方あり、その境界線は微妙だ。それに、たぶん父の影響で、僕は元から怒るのが嫌いなのだ。だから、基本的には、何かをさせるにしても、軽い調子でなだめすかして、そのように持って行く方をえてして選択しがちになる。また、そんなに扱いに困るような人でなくても、僕と一緒の時には妙にリラックスしてしまい、ある種の緊張感がなくなっているように感じる。件の上司と一緒の時は、内心不満を持ちながらも、そそくさと仕事を片づけるのだが、僕とする時は、すっかり安心しきって、ゆっくりダラダラと仕事をしているように見える。時間も長く掛かっている。悪意がないのもわかるし、無自覚だと思うのだが、こんな事態に度々遭遇するうちに、何だか損をしているような気分にさせられる。すごくなめられたものだと思うと同時に、僕は人をスポイルする人間、堕落させる人間なのかと考えてしまう。
 上司はしばしば理不尽に怒って、不興を買いながらも、結果として人に仕事を促している。ところが、どうしてもいやだとグズる相手や面倒臭いと思った相手に対しては放っぽり出して、その通りにやらせてしまう(僕も含めて)。翻って、僕はと言うと、人から比較的好かれながらも、なめられ、相手の甘えを引き出して、堕落させがちになる。その一方、相手がいやがろうと、やるべきことをやらせようとはしつつも、基本的には軽く見くびられているので、結局は空回りして、実質何もうまくいかない。上司は基本的に、時流に踏み留まり忖度を拒否する僕を厄介な存在と感じながらも、いろんなことを勝手にやって、細かな問題をいつの間にか解消してくれると思って、「良きに計らえ」と放し飼いにはするが、時折、職務や領分を越えて、余計なことにまで介入してくるので、使い勝手が面倒臭いと思っている(と思う)。僕はこの体制に組み込まれていると同時に、この体制を下支えしている。何とも困ったものだ。
 筑紫哲也はよく「日本では、出る杭は打たれると言うが、実際には出すぎた杭は打たれないので、そうなればいい」みたいなことを言っていたが、あまりに能天気だと思う。これを変えるには、僕が人と直接向き合うこと、そして自分の考えをきちんと伝えること、当面孤軍奮闘する勇気を持つこと、これが解決策か。この日記はそのための整理と演習。