2018.11.30金

 〇旧フィルムセンターにて、スウェーデン映画特集を二本。
 まずは、アーネ・マットソン「春の悶え」1951。性に開放的な北欧映画の代名詞にもなり、世界的に知られている作品だが、実際には、個人の自由を謳歌・尊重する考え方が、権威主義的な既成の勢力に押し潰されていくさまを淡々と描いた社会派だった。旧道徳の牧師に扇動された素朴な庶民が、天罰と称して、新道徳の施設に自ら放火するシーンは、この映画の白眉で、全く敬服した。
 続いて、イングマール・ベルイマン「牢獄」1949。あまりピンとこなかった。ベルイマンの扱っているテーマにはとても興味をそそられるので、機会があればいつも観たいと思っているのだが、これまでに観たわずかな作品のどれも面白いと感じたことはなく、今年は生誕百年ということで、大規模な回顧上映をやっていたというのに、積極的に観ようとする努力もそんなにはして来なかった。そして、ようやく観た初期の重要作だが、やはり少しも面白いとは思わなかった。
 ベルイマンの生涯を貫くテーマは、神の不在だと言う。この作品も、まさにそれが主題になっている。しかし、そんな大上段に構えている割りには、扱っているのは、不倫だの売春だの、ある意味ではチンケな個人的問題ばかりで、戦争や抗争を扱った往年のフィリピン映画や昨今の韓国映画の方が、よっぽど神の不在を描いて深遠だと感じる。また、ベルイマンの語り口は、あくまで敬虔なクリスチャンのそれで、神の不在を問題にするのも、神の存在を信じている、あるいはそう願っていることの裏返しにしか聞こえてこない。クリスチャンにとっては重要かもしれないが、そうでない者には、そんな期待はただの堂々巡りにしか思えない。先に観た「春の悶え」に登場する教会が、古いモラルの体現者として世俗的に描かれているのとは対称的に、自らの立ち位置を冷静に突き放して見ているとも感じられない。先駆的な意義はあろうが、それだけのことだと思う。
 ベルイマンの最高傑作と言われる後期の「神の沈黙」三部作は、まだ観ていない。こちらでは、もっと深奥な議論が展開されているのだろうか。おそらく、そのうち早稲田松竹新文芸坐あたりで、まとめて上映されるだろうから、その機会にちゃんと観ておくことにしよう